4-2 それぞれの進路
その日の大学の勉強は、どうにも身が入らなかった。原因は、今朝の訃報や、彗の別れ際の態度だけが理由ではないことを、私は受け入れざるを得なかった。
「澪ちゃん、忙しすぎじゃない? あんまり無理しちゃダメだよ?」
講堂の地下の学食で、隣に座った西村巴菜ちゃんが、いつぞやと全く同じ台詞で私を心配した。以前の私は気丈に応じたけれど、今回は素直に聞き入れた。
「うん……ありがとう。今日はバイトもないし、五限目が終わったら、家で休むね」
「五限目の古典文学なら、あたしが澪ちゃんの分のノートを取っておくよ?」
「……私、そんなに顔色が悪い?」
「うん。こんな澪ちゃん、見たことないくらい」
茶髪をお団子に結った巴菜ちゃんは、天ぷらうどんを食べる箸を止めて、大真面目な顔で頷いた。私は、ひっそりと落ち込んだ。手元のトレイに載った素うどんは、食べても食べても減らない気がする。実際には、食事が進んでいないのだから当たり前だ。
「体調管理、気をつけてたんだけどな……」
「仕方ないよ。最近、体調を崩して欠席する子が増えてるもん。暑いのか寒いのかハッキリしなくて、服装を合わせるのが大変だよねえ」
嘆息した巴菜ちゃんの上着は、昨日会ったときよりも、厚手のものに替わっている。私がブラウスとスカートに合わせたロングカーディガンも、昨日なら暑くて着られなかったと思う。今年の秋は残暑が厳しく、かと思いきや秋を飛ばして冬が訪れたような日もあって、寒暖差に順応できずにいた。特に今朝は、身体を冷やしたのがまずかったかもしれない。隣で彗が寝ているからといって、安心しすぎた所為だろうか。彗らしくないキスを思い出してしまい、熱っぽい眩暈でくらくらした。
「あっ、まさか澪ちゃん! あたしに大学のズル休みを怒ったときのことを気にしてる? あれは、あたしが悪いんだもん。体調不良の欠席は、仕方ないんだよっ?」
「あ、ありがとう……そのときは、巴菜ちゃんにノートを頼んでもいい?」
「任せて!」
巴菜ちゃんは、真夏に咲く大輪のひまわりみたいな笑顔で請け負ってくれた。友達の天真爛漫な明るさに、私は救われた気分になる。一時期ぎくしゃくしていた巴菜ちゃんとの関係を、修復できて本当によかったと思う。巴菜ちゃんは、海老の天ぷらに箸を伸ばす途中で、「あ、大祐! こっちだよー」と、私の背後へ声を掛けた。振り返った私も、トレイを運んでいる同級生の男の子を見つけて、手を振った。
「星加くん」
トパーズ色の髪の男の子も、壁際の席に座った私たちに気づいて、口角を上げた。こちらに歩いてくると、巴菜ちゃんの正面にラーメンの昼食を置いて、席に着く。濃紺の上着の裾で、腕時計の液晶を彩るビビッドイエローが煌めいた。
「おはよう、倉田さん。ついでに巴菜も」
「何よ、ついでって! むかつく! その煮卵、あたしが食べてやる!」
「おい、やめろ! 代わりに天ぷらを持っていくからな!」
「あーっ! 最後に食べようと思ってたのに! それ、大罪だからね!」
「おはよう、星加くん。二人とも、今日も仲がいいね」
「どこが!」
やんちゃな子どもみたいな二人の抗議が、見事に重なった。星加くんはともかく、巴菜ちゃんはもう少し幼馴染に対して素直になればいいのに、と苦笑した私は思った。
週に一度、巴菜ちゃんと学食に行くと決めている日に、最近は星加大祐くんも同席している。このことを彗に伝えたときは、しかつめらしい顔をされたけれど、巴菜ちゃんが星加くんに好意を寄せていることは、彗も巴菜ちゃんと顔を合わせたときに気づいたみたいで、『西村さんのためなら』と了承してくれた。星加くんは、巴菜ちゃんとの言い合いが一段落すると、ふと気づいた様子で私を見た。
「倉田さん、身体の具合でも悪い?」
「星加くんまで……うん、実は。ゆっくり寝たら良くなると思う」
「一人で帰れる? 俺、今日はもう帰るだけだから、家の近くまで送ろうか?」
「……やっぱり私、そんなに顔色が悪い?」
「あ、いや、なんとなくそう思っただけで」
しゅんとした私を見兼ねてか、巴菜ちゃんがキッとした顔で「大祐ってば、未練たらしい。しつこいと嫌われるよ?」なんて言い出したので、頬を少し赤らめた星加くんが「巴菜はうるせえよ」と毒づいている。巴菜ちゃんは、言い返さずに小首を傾げた。
「そう言う大祐も、少し疲れてない?」
「ああ、さっきまでキャリアセンターに行ってたからな」
「へえ? 就活の相談をしてきたんだ?」
「まあな。だけど、まだいろいろ考え中」
「いろいろって何よ? 悩みでもあるの?」
「あー、手堅く大手の企業を狙ってて、企業研究も進めてたけど、就活そのものをどうするか、考え中っていうか……大学院に進む選択肢も、考えてるんだ」
「大学院?」
今度は、私と巴菜ちゃんの声が重なった。星加くんは、たじろいだ顔で余所見をすると、「こんなチャラい見た目だから、柄じゃないって思われるだろうけど」と前置きして、考えを言葉に置き換えていった。
「倉田さん、前に俺がどうして笹山ゼミを選んだのかって訊いたときに、日本近代文学が、海外とどう繋がっているのか、歴史とか文化の関係性を分析したり、研究したりするゼミに興味を持ったから、って言ったよな。そういう真面目な倉田さんの影響で、日本と海外の文化の繋がりを掘り下げていく勉強が、俺も楽しくなったっていうか……もっと勉強してみたい、って思ったんだ。そんな俺の選択が、これからの自信に繋がってくると思うし、就職先にも関わってくると思うから」
「そっか……星加くん、すごいね」
先が分からない未来のことを、星加くんはしっかりと見つめている。私の言葉が、誰かの道標になれたことも、少し照れてしまうけれど嬉しかった。星加くんは、目を泳がせて「べ、別に、すごくないけど」と謙遜した。
「それに、就活を先延ばしにできても、院試の対策をしないといけないからな。特に英語は、今から勉強に本腰を入れないと、かなりヤバい」
「あたしも、教員採用試験の対策をしなきゃー。単位も落とせないし、ヤバいよー」
巴菜ちゃんと星加くんは、揃って溜息を吐いてから、互いの明るい茶髪を見て「黒染めは、まだしないで良さそうかな」「そうだな」と言い合っている。私を気遣ってくれた二人にも、それぞれ進路の悩みがある。巴菜ちゃんは「澪ちゃんは、進路のことで悩んでない? 相沢先輩と一緒に考えなきゃいけないこともあるだろうし、勉強も大変だよね」と言って、私にも水を向けてくれた。
「今のところは……不安はあるけど、大丈夫だよ。就活は、星加くんみたいに企業研究は進めるけど、もうしばらくの間は、英語とフランス語の勉強に専念するつもり」
進路の悩みは、私も他人事ではなかった。だけど、今の私が最優先すべきことは、外国語の習得だと割り切る覚悟を決めたから、就職活動は同級生よりも遅めのスタートになるけれど、目先の勉強を大事にしようと思っている。そうすることで、さっき星加くんが伝えてくれたような自信を持って、進むべき道を定めていけると思うから。二人の友達と話していたら、少しだけ元気が湧いてきた。
「巴菜ちゃんと星加くんのおかげで、気分の悪さが落ち着いてきたかも。星加くん、さっきは気遣ってくれてありがとう。五限目の講義が終わったら、すぐに帰るね」
「こういう日に限って五限か……巴菜、同じ講義を取ってるんだろ? 一緒についててやれよ」
「もちろん」
三人で賑やかに食事を取る時間が、今朝の動揺も鎮めてくれた。きっと疲れて帰ってくるに違いない彗を支えるために、大丈夫、と私は心の中で念じた。
――けれど、あまり大丈夫ではなかったことを知ったのは、五限目の講義を終えて、駅前まで付き添ってくれた巴菜ちゃんと別れて、日が沈んだばかりの街並みを、坂道の中腹から見渡したときだった。ワインレッド色の海原と、薄紫色の夕空を眺めた私は、失態に気づいてハッとした。
――いつもの癖で、彗のアトリエに向かってしまった。最近はアトリエに泊まる頻度が高くなったので、違和感を持たずにここまで歩いてきたけれど、そもそも彗が帰ってくるのは明日であり、場所は私のアパートだと聞いていたのに、迂闊だった。
来た道を引き返そうとしたけれど、眩暈がしたから、立ち止まった。落ち着いて呼吸を繰り返してから、誰かの秘密基地みたいな街の坂道を、私は引き続き上っていく。
――少しだけ、アトリエで休ませてもらおう。そうすれば、ここから一人でアパートを目指す心細さは消えるはずだ。赤い屋根の平屋が見えてくると、私はホッとした。
でも、やがて異常に気づいた。安堵が消えて、顔が強張ったのが分かる。
アトリエに――灯りが点いている。家主は外泊中なのに、玄関の洋風扉から漏れる橙の光が、家の中に人がいることを示していた。
とっさに感じたのは、恐怖だった。アトリエの鍵を持っているのは私と彗だけで、この古民家を紹介してくれた秋口先生ですら、勝手には入れないはずなのに。泥棒? でも、だとしたら灯りを点けるだろうか?
門扉のそばで立ち竦んでいると、洋風扉が音を立てて開いた。びくりと怯えた私は、後ずさって――家から誰が出てきたのか判り、驚愕した。
「えっ……彗?」
「澪?」
秋の冷気を孕んだ風が、見つめ合う私たちの間を吹き抜ける。玄関の暖色の灯りを背に受けた彗も、私の姿に驚いているようだったけれど、私は先に質問した。
「彗……どうして、ここにいるの? 今日は……壱河一哉さんの、お通夜で……実家に泊まるって、言ってたのに」
お通夜は、十八時からのはずだ。すでに予定の時刻を、三十分も過ぎている。
彗は――友人のお通夜に、参列しなかった。その事実を呑み込んだとき、今朝と同じ服装で佇む彗が、一泊分の着替えを詰めたバッグではなく、キャリーケースを携えていることに、初めて気づいた。私の視線をたどった彗が、夕闇の中で目を細めた。
「澪のアパートに行く前に、ここで荷物をまとめていたんだ。一泊分の用意だと、着替えが足りないから」
「彗……?」
「澪。急なお願いで、悪いんだけど」
ひときわ冷たい秋風が、私と彗の髪を嬲っていく。昼下がりには二人で過ごしたモネの庭で、銀色がかった葉を揺らしたミモザの梢が、ざわざわと不協和音を奏で始めた。
「しばらくの間、澪の家に泊めてほしい」




