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油彩画・夜明けのミモザ  作者: 一初ゆずこ
第4章 たとえ世界から希望が消えても
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4-1 訃報

 その日、いつものようにクッション張りの出窓でまどで眠っていた私たちを起こしたのは、午前六時の訃報ふほうだった。

 日の出の薄明りが揺蕩たゆたうアトリエに、スマホのコール音が響いたとき、私はまだ微睡まどろみの中にいた。隣で身体を起こした彗が、枕元のスマホに左手を伸ばした姿がうっすらと見えて、着信を受けたスマホは彗のものだと分かった。私も上体を起こしたけれど、肌寒さから身震いして、タオルケットを胸元まで引き上げた。昨日は十月初旬とは思えないほど暑かったけれど、今日は厚手の掛布団に戻さなくてはならない。

 寝起きの頭で、そう漫然まんぜんと考えたときだった。彗が、隣で息を詰めたのは。

一哉かずやが?」

 早朝のアトリエの空気が、ぴんと張り詰めた気がした。真冬の泉をおおう氷のように冷えた沈黙が流れて、私の意識も覚醒かくせいする。

「……うん。分かった。すぐに、そっちに帰るよ。お通夜つやは、十八時だね」

 ――お通夜。私も息を詰めたとき、彗は「連絡してくれて、ありがとう。それじゃ、またあとで」と言って、通話を切った。それから、私を振り向いて「おはよう、澪」と挨拶してくれたけれど、表情には影が差していた。

「おはよう、彗……今の電話は、誰から?」

「母親だよ。僕の友達が……地元で、亡くなったから。知らせてくれたんだ」

「地元……」

 私たちが、まだ高校生だった頃に、暮らしていた町のことだ。高校のフェンス沿いで咲くミモザの花が、脳裏のうりかすめる。あの町で、人が亡くなった。

「……彗の、友達なんだ」

「うん。壱河一哉いちかわかずやって名前の同級生で、名字と名前の両方に『イチ』の字が入っているから、何をするにも一番じゃないと、名前負けしてるみたいで嫌だ、って小学生の頃に言ってたっけ。僕が中学三年生の冬まで通っていた絵画教室の生徒で、互いに絵画教室を辞めてからは、絵のコンクールによく入選していた仲間だったよ。……亡くなったのは昨日で、訃報ふほうを知った絵画教室の先生が、僕の家族に連絡をくれたんだ。それを、僕の母親が知らせてくれた」

 私は、茫然としてしまった。起き抜けに飛び込んできた訃報ふほうの重さが、午前四時の迷子だった頃みたいに、私から現実感を奪っていた。けれど、きょかれた本当の理由は、人の命が失われたからではないことに、私はもう気づいている。

「彗の友達で、彗みたいに絵を描く人の話を、聞くのは……初めてだね」

 彗の表情が、微かに動いた。出窓から入る朝日が、ほんの少しだけ明度を増した。空には雲が掛かっていて、白い光と黒い影が、私たちが見つめ合う出窓で、音もなくせめぎ合っている。彗は、サイドテーブル代わりの椅子に載せた桃色のカーディガンに左手を伸ばすと、そっと手繰たぐり寄せてから、私の肩に羽織はおらせた。

「もう何年も、一哉かずやとは連絡を取っていなかったんだ。風のうわさで、高校を卒業後は、美大に入ったって聞いているよ」

 ――美大。高校三年生の彗が、志望していた進路だ。彗は、私の考えに気づいたみたいで「大丈夫。気にしていないから」とささやいて、出窓から白い秋空を振りあおいだ。

一哉かずやは……とにかく明るい友達だったよ。澪の友達の西村にしむらさんに、雰囲気が少し近いかな。一哉は、西村さんよりもずっと勝気で、ちょっと怒りっぽいところが玉にきずだけど、曲がったことが許せなくて、真っ直ぐな性格だったから。コンクールでも、参加者の誰よりもきそい合いにこだわって、金賞がれないと、本気で悔しがっていたね。そんなき出しの情熱は、一哉かずやの絵にも顕著けんちょに表れていたよ。僕には、あんなにもしんせまった力強さは、えがけない」

 ――えがけない。彗にそう言わしめる画家の卵が、同年代にいたのだ。「すごい人、だったんだね」と私が言うと、彗も「うん。すごいやつだったよ」と答えて、目をせた。

「そんな一哉かずやが、自殺したから……ショックを受けている人は、多いと思う」

 ――自殺。絶句した私に気づいた彗が、ハッとした顔になる。「ごめん」とこんなときまで私を気遣う言葉を掛けてから、再び目を伏せて、ぽつりと続けた。

「一哉の家とは、家族ぐるみの付き合いがあったから……僕は、両親と一緒に、お通夜に参列させてもらうことになると思う。喪服は……ここにはないから、まずは実家に帰らないと。身支度みじたくを整えたら、できるだけ早くアトリエを出るよ」

「お通夜は……十八時、だよね。まだ、時間があるよ」

「そうだね。でも、お通夜の前に、もっと詳しい話を、家族から聞いておきたいから。澪は、まだ休んでて。いつもなら寝てる時間なのに、起こしてごめん」

「彗。朝ごはんだけでも、食べていって。彗の分だけでも、すぐに用意するから」

 出窓から下りた私は、キッチンに向かった。彗は、何か言いたそうに黙ってから、やがて「ありがとう」と静かに言って、リビングを出ていった。

 トーストとスクランブルエッグを用意した私は、秋服のシャツとズボンに着替えた彗が、ソファで朝食を取っている間に、青とだいだいのモロッカンタイルが敷き詰められた洗面所で、歯磨きと洗顔を済ませた。すっかり目がえているのに、身体がひどくだるかった。気もそぞろで衣装ケースから服を選んでいるうちに、彗が洗面所にやって来た。

「澪。僕は、実家に一泊することになると思う。澪の明日の予定は?」

「明日は、十六時からアリスの英会話教室に行くだけ。彗がアトリエにいないなら、アパートに帰ろうと思ってたけど……ここで、待っててもいい?」

「そうしてくれたら嬉しいけど、アトリエにいつ戻れるか分からないから、僕が澪のアパートに行ってもいい?」

「うん。彗が、それでいいなら」

 私の返事を聞いた彗は、今日初めて微笑わらってくれた。鏡に向き直って歯磨きを始めた後ろ姿を、私はぼんやりと眺める。睡眠が足りない所為か、倦怠感けんたいかんをまた感じた。私は結局、パジャマにカーディガンを引っ掛けた格好から着替えることもできないまま、玄関で靴を履いた彗を見送ることになった。

「いってらっしゃい、彗」

「いってきます、澪」

 そう声を掛け合ったけれど、私たちは動かなかった。窓から入る白い日差しは、うるしのようなつやのある木の廊下に、黒い影を落としている。モノトーンに沈む玄関で、上がりかまちに立つ私と、三和土たたきに立つ彗は、見つめ合った。

 ――どうしてだろう。彗を、行かせたくなかった。理由は分からないけれど、このまま見送ってしまったら、今生こんじょうの別れになる気がしたから。けれど、友人のお通夜に参列する彗を、引き留めるわけにはいかなかった。曖昧あいまい葛藤かっとうかかえていると、黒いジャケットにそでを通した彗の右手が、かたい動きで持ち上がり、私の頬に触れた。

 油絵具の甘い匂いが、ふっと近づく。玄関を照らす陽光が、彗の身体でさえぎられた。影に全身を包まれたとき、驚きで薄く開いた私の唇を、彗の体温がふさいでいた。力強い左腕が、私の背中に回る。意識の制御を奪っていくような口づけが、長かったのか短かったのかすら分からなかった。気づけば床にへたり込んでいた私から、影と体温が離れていく。私に合わせて床に膝をついていた彗が、立ち上がった。

「できるだけ早く、帰ってくるから」

 いつも通りの穏やかさで告げた彗は、バッグを左肩にげると、私に背中を向けた。洋風扉に左手を掛けて、白い朝日があふれた外へ出ていく。開いた扉の隙間すきませばまるにつれて、玄関に伸びる光のすじも細くなり、やがて扉が閉まって、光も消えた。

 まだ立ち上がれない私は、無理やり乱された呼吸を整えながら、心の中に芽吹めぶいた不安との向き合い方を、回らない頭で考える。

 彗らしくないキスの意味は、旧知きゅうちの仲間の訃報ふほうを受けて、動揺どうようしたから? そう考えるのが自然なのに、しこりのような違和感が、胸の内に残り続けた。

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