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油彩画・夜明けのミモザ  作者: 一初ゆずこ
第3章 ひまわりと星月夜のシャンパーニュ・ア・ロランジュ
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3-25 トリリンガル

 アトリエ兼リビングに戻ると、彗はまだ眠っていた。午前の光が燦々《さんさん》と出窓から射し込んで、サイドテーブル代わりの椅子の影が、床に長く伸びている。イーゼルにはキャンバスの代わりに画用紙が立て掛けられていて、真新しいスケッチが飾られた場所だけが、太陽のスポットライトを浴びて輝いて見えた。

 いつかのような忍び足で、私はイーゼルに近づいた。朝日に照らされたスケッチは、外国の家の絵だと一目で分かった。鉛筆書きのラフであっても、家の前で立ち話をしている男女の姿は、あふれんばかりの色彩が目に浮かぶほどに、鮮やかに描写されている。男性のほうは黒髪で、女性のほうは金髪だ。クリーム色の外壁を持つコケティッシュな家のへいには、満開の藤の花がつたっている。フランスの藤だけではなく、彗は綾木あやき夫妻もえがいたのだ。以前に彗が完成させたサーカスの絵の『印象』を、私は改めて思い返す。

 彗の絵画にかける情熱は、私と出逢った頃から変わらない。でも、生み出される絵は大きく変わった。彗は、どんどん変わっていく。私だって、これからも。イーゼルから離れた私は、出窓のそばに置いていた鞄から、スマホを取り出して、深呼吸した。

 ――ミモザ、銀葉ぎんようアカシア、シャンパーニュ・ア・ロランジュ。呼び名が異なっても、示す花は同じ。私が彗に好きだと伝えても、伝えなくても、私たちの関係も変わらない。だけど、今まで声の形にしなかったのは、私に勇気がなかったからだ。私は、自分が思う以上に臆病おくびょうで、彗のことが好きだった。だから、もし彗に拒絶されてしまったら、星加ほしかくんみたいに前を向けるかどうかなんて、分からない。似た者同士の彗のことなら、何でも分かると信じていた無邪気な頃には、戻れない。記号ではなくなることの苦楽を胸に、私は一人で廊下に出る。

 スマホにあらかじめ登録していた電話番号を、液晶に表示させた。決心が鈍らないうちに、覚悟が揺らいでしまう前に、さまざまな人たちが教えてくれた勇気の存在を確かめながら、この道を自らの意思で選択して、通話ボタンをタップする。

 けれど、コール音が鳴ってすぐに、もっと適切な時間に電話をするべきだったと後悔した。居ても立っても居られなかったと言った星加くんの気持ちが、今なら痛いほどよく分かる。電話を急いで切ろうとしたけれど、その前に通話が始まってしまった。

『もしもし』

 男性のしゃがれた声が、耳に当てたスマホから聞こえる。息を詰めた私は、腹をくくって話し始めた。

「私は、倉田澪と申します。秋口柳生あきぐちりゅうせい先生の携帯電話で、お間違いないでしょうか」

『ああ、君か』

 アトリエでは威圧的に響いた声が、電話だと不思議と気さくに感じられた。きっと、対面と電話という差異さいは、些細ささいな問題に違いなくて、私が秋口先生との付き合い方を変えたことが、声音にも表れているだけのことなのだ。私は、何を怖がっていたのだろう。本当に怖いことは、弱い自分と戦わないで、この場から逃げ出してしまうことだ。

「秋口先生、おはようございます。早朝に申し訳ありません。秋口先生にお話したいことがございまして、お電話させていただきました」

『構わんよ。むしろ、遅いくらいだ』

 笑みを含んだジョークが、心にひりひりとみた。でも、私が答えを出すまでに時間を掛けたことは事実だ。「はい」と真摯しんしに答えてから、私は切り出した。

「先日は、教材をくださり、ありがとうございました。お礼が遅くなり、申し訳ございません。私は……これからも英語の勉強を続けて、さらにフランス語の勉強にも取り組むことで、トリリンガルを目指します」

『ほう?』

 秋口先生は、面白がるように応じてから、打って変わって真剣な口調で言った。

『|créme de la crémeクレーム・ドゥ・ラ・クレーム

 流暢りゅうちょうに紡がれた異国の言葉は、英語とは発音が明確に違っていて、日本とは言語が育まれた土壌どじょうさえも大きくへだたっているのだと、聞き手に一瞬で感じ取らせる説得力に満ちていた。秋口先生の声が、おごかに張り詰めた空気を、重々しく震わせた。

『|créme de la crémeクレーム・ドゥ・ラ・クレーム――クリームの中のクリーム、という言葉だ。君には、このフランス語の意味が分かるかね?』

 秋口先生は、私を試しているのだろう。ひと呼吸を置いた私は、かすれた声で答えた。

「はい」

 スマホから、微かな息遣いが聞こえた。その答えを私が知っているなんて、きっと思いがけなかったのだ。でも、私だってびっくりしている。答えられなかったはずなのに、今からこの言葉を唱えられるのは、彗のおかげだ。昨日の帰り道で、バニラの涙を教えてくれた彗が、私にフランス語の言い回しの楽しさを伝えてくれたから。

 だから、他にもたくさんあるのだという食べ物にまつわるフランス語を、もっと頑張って覚えたくて――いつもの彗みたいに、調べたから。

「クリームの中のクリームは、上質なクリームの中の、さらに上質な部分を示しています。つまり『その分野で最高のものや人』という意味です。私も……この言葉に恥じない勉強をして、フランス語を使いこなせるように、頑張ります」

 思いを言葉の形に翻訳する必死さが滲んで、まるで啖呵たんかを切っているような言い方になったかもしれない。そんな私が可笑おかしかったのか、しばらく黙っていた秋口先生は、やがてのどの奥で声が引っ掛かったような、奇怪きかいな笑い方をした。

『期待しているよ』

 それだけを言い残して、電話は切れた。同時に、私の緊張の糸も切れて、私は廊下にへたり込んだ。初めての達成感と充足感が、心臓の鼓動こどうを速めていく。

 秋口先生のことは、まだ苦手なままだ。けれど、いつかはこの気持ちも、夜明けを迎えた空色みたいに、明るく変わっていくのかもしれない。目尻ににじんだ涙を指でぬぐっていると、ステンドグラスが嵌まった扉がキイと開いて、リビングから彗が現れた。

「おはよう、澪。そんな所で、どうしたの?」

 髪が少し跳ねている彗に、私は「おはよう、彗」と返したけれど、まだひざが笑っていて、立ち上がれなくて、そのままの格好で微笑んだ。

「私……フランス語の勉強、好きになれるかもしれない」

「うん。よく頑張ったね」

 そう言ってかがんだ彗は、私の頭を撫でてくれた。いつから起きていたのだろう。私は少しにらんで見せたけれど、こぼれた涙が止まらなくなって、大好きな人の胸に飛び込んだ。夏の朝の青い日陰に、窓の向こうからせみの声が響いてくる。

 この夏が終わるまでに、私はどこまで歩いていけるだろう。分からなくても、二人なら、どこにだって行ける。夏を謳歌おうかする音色に耳を澄ませながら、油彩画『夜明けのミモザ』を彗が描き上げる未来に、私たちはまた一歩、近づけた気がした。



― 第3章 ひまわりと星月夜のシャンパーニュ・ア・ロランジュ <了> ―

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