3-23 バニラの涙
出来上がったクレームブリュレをみんなで食べた夕刻に、私たちは綾木夫妻の家をあとにした。彗と綾木さんは、フランスの話で盛り上がっていたから、気づけば時間が飛ぶように過ぎていた。アリスは夕飯を勧めてくれたけれど、二週連続でご馳走になるのは気が引けたから、私と彗と巴菜ちゃんは、茜射す家路をたどって電車に乗って、大学がある私たちの町に戻ってきた。海の方角で輝く太陽が、雑居ビル群の窓を照らしている。夕焼け色の顔で笑った巴菜ちゃんが、私たちに手を振った。
「それじゃ、澪ちゃん、相沢先輩。あたし、このままバイトに行くから」
「西村さん、今日はありがとう。いってらっしゃい」
「巴菜ちゃん、楽しかったよ。また大学で」
「うん! また学食に行こうね! いってきます!」
巴菜ちゃんの快活な後ろ姿が、雑踏の中へ消えていく。暮れなずむ街を眺めてから、私と彗もアトリエがある住宅街へ歩き出した。
「綾木さんとの打ち合わせは、どうだった?」
「うん。貴重なお話をたくさん聞けたよ」
通り道の自然公園を、私たちはゆるゆると進んでいく。彗とこんなふうに海沿いの道を歩くのは、ずいぶん久しぶりな気がした。私は学業に追われていて、彗はさらに絵画の仕事にも邁進していて、私たちは少し忙しすぎたのかもしれない。けれど、欲しい未来まで手を届かせたいなら、私たちはもっと忙しくなっていくのだろう。
「玄関は、家を出るときにも、家に帰るときにも、必ず通る場所だからね。そんな大切な場所に飾る絵を、僕に依頼したということは、フランスの藤の絵をただ単純に描いてほしいわけじゃないはずなんだ。あのご夫婦が愛おしさを感じた一瞬を、絵の形で永遠に変えることが、僕に求められた技術で、仕事だと思っているから」
彗は、普段よりも饒舌で、口調も夏の夕暮れみたいに明るかった。綾木さんとの打ち合わせが、いい刺激になったのだろうか。理由は、それだけではないと思う。彗が絵に対する思いを語ってくれたのは初めてで、心がふわふわと浮き立った。感情が何度も揺れた夏だったけれど、前よりも彗に近づけた気がして嬉しかった。
「こないだ澪と話したゴッホの『ひまわり』も、ゴッホが南フランスのアルルに滞在しているときに、アトリエで共同生活を送ることになる画家のポール・ゴーギャンを歓迎するために、装飾画として描かれた作品なんだよ」
「歓迎するため……」
「ゴッホの『ひまわり』や『星月夜』のような作品は、色彩が豊かに描かれているけれど、ゴッホの初期の作品は、色使いが暗いものが多かったんだ。後の作品に見られる色彩と感情の表現は、印象派から受けた影響や、ゴーギャンのような画家たちと出会ったことで、培われていった技術かもしれないね」
私は、在りし日のゴッホの暮らしを想像した。これからひとつ屋根の下で暮らす仲間を待つ間、油彩画の花でアトリエを飾りつける画家の姿に、その後の人生に待ち受ける悲劇の影は見当たらない。太陽の光を見上げるヒマワリみたいな希望と期待が、黄色と青色の油絵具に溶け込んで、花瓶で鮮やかに咲き誇る。私は、潮風に靡いた髪を押さえると、隣を歩く彗に笑いかけた。
「彗のお仕事も、同じだね。アリスと綾木さんに喜んでほしいって真心を込めて、新居に飾る油彩画と、じっくり向き合うところが」
彗は、不意を打たれた顔をしてから、少し照れたみたいに目を細めた。私は、やっぱり嬉しくなる。この夏は、今まで知らなかった彗の顔も教えてくれた。
「絵を夢中で描いていた僕が、誰かの心の機微に目を留められるようになったのは、秋口先生のもとで仕事をさせてもらった経験と、澪のおかげかな」
「私?」
「澪は、僕が今まで選ばなかった色彩の使い方を、教えてくれた気がするんだ」
抽象的な台詞に、彗はどんな思いを込めたのだろう。以前に彗が完成させたサーカスの一座の油彩画を、私は不意に思い出す。高校時代の彗の絵は、落ち着いた色彩が特徴で、静物画や風景画が多かった。人の姿を生き生きと描画して、キャンバスの世界に躍動感と高揚感を与えた絵は、今までの絵とは一線を画すものだった。私と日々を過ごすことで、彗の絵にまた一つ新しい変化を生み出せたなら、この夏の慌ただしい思い出も、彗の新しい絵の具になって、次の絵画を彩っていくのだろうか。
「秋口先生のことで思い出した。彗、私の勉強のこと、秋口先生に話したでしょ?」
「えっ、だめだった?」
「だめじゃないけど、びっくりした。でも……ありがとう。私、秋口先生にフランス語の教材をいただいたんだ」
「そっか。秋口先生は、絵画でも、語学でも、最高の教育者だから。僕は秋口先生を信頼しているし、尊敬しているんだ」
「……うん。私に必要なものを、秋口先生はとっくに知ってるみたいだった。その教材で、分かりにくいところがあったんだけど、今度教えてもらってもいい?」
「いいよ。帰ったら、さっそく確認しようか」
彗に勉強の相談をするのは、実はこれで三度目になる。初めてお酒を飲んだ日から、私は彗に勉強を見てもらうようになっていた。忙しい彗を頼る後ろめたさが消えたわけではないけれど、甘えることにも勇気が必要なのだと思う。彗からの強い要望もあって、私は厚意を素直に受け取っている。
「彗は、フランス語をどうやって身につけていったの?」
「改めて訊かれると難しいけど、そうだね。その言語を好きになることかな」
意外な答えが返ってきて、面食らった。彗のことだから、もっと技術的な方法を挙げるのだと思い込んでいた。
「フランス語の言い回しは独特なものが多くて、会話相手に対する皮肉を込めたものや、詩的で知性に溢れたもの、それに可愛いものがたくさんあるんだ。例えば、澪たちが作ってくれたクレームブリュレは、バニラビーンズをさやごと使っていたよね。フランスのお菓子作りのレシピ本で、バニラエッセンスを一滴だけ使う場合に、『Une larme de vanille』……日本語に訳すと『バニラの涙を一滴』と書かれているものがあるそうだよ」
「バニラの涙……一度聞いたら、もう忘れない気がする」
材料の記載一つにも、可愛さと切なさが同居したエスプリが効いている。彗は楽しそうに「食べ物にまつわるフランス語には、つい頑張って覚えたくなるような言い回しが他にもあるから、澪も気に入ると思うよ」と続けたから、こういうスタンスで勉強に臨めばいいのだと腑に落ちた。私も、純粋に楽しめばいい。そう簡単には割り切れないと思うけれど、進む方角は分かった気がする。
「ありがとう。私は、まだ『faux-amis』に振り回されていたみたい」
「ああ、『偽の友達』だね。『faux-amis』に惑わされない会話力は、僕もまだ自信がないよ。現地に行くまでに可能な限り努力するけど、それでも苦労すると思う」
「彗も、怖いと思うの?」
「うん。自分のフランス語が通じない所為で、出先から下宿先に戻れないことを想像したら、背筋が寒くなる」
フランスの駅で立ち往生する彗の姿は想像できなくて、私はくすりと笑ってしまった。手先は器用なのに、他のことでは意外と不器用なところもある彗が、私の不安を和らげようと、慣れない冗談を言ってくれたのかもしれない。
「……私、アリスから『faux-amis』は『偽の友達』という意味だって教わったときに、少しドキッとしたの。巴菜ちゃんのことを、言われた気がしたから。でも、今は自信を持って違うって分かるよ。私が恐れてた『偽の友達』は、勉強に対する不安な気持ちだったみたい。やっぱり私は、自分のことが一番怖いのかも」
「確かに、僕も怖かったよ。今回のことで、澪の危なっかしさが分かったから」
彗がしかつめらしい顔になったから、私は反省しつつも微笑んだ。住宅街に差し掛かる坂道をのんびりと上り始めた私たちは、どちらからともなく後ろを振り返る。
さっき歩いてきた自然公園で、オレンジ色の海原が輝いていた。真っ赤に熟した太陽は、今まさに彼方の水平線に沈むところで、もうすぐ夜がやって来る。空気さえも赤く色づいた景色を見渡した彗が、おもむろに言った。
「速水さんのもう一つのバイト先は『soirée』だったね。『宵』や『夕闇』という意味を持つフランス語で、いい名前だと思っていたんだ」
「そっか……私、やっぱりフランス語に縁があるのかな」
この縁に初めて、後ろめたさではなく、純粋な嬉しさを感じた。そんな実感をもう少しだけ噛みしめたくて、私は彗に提案した。
「私、彗と今度『soirée』に行ってみたい。絢女先輩が作ってくれたお酒は美味しかったし、こないだの飲み会が楽しかったから……」
彗は、少し驚いた顔をしてから、「それなら」と言って優しく微笑った。
「これから行こうか。どこかで軽く夕食を取ってから」
「いいの?」
「うん。僕も楽しみだから。速水さんも、お店にいるといいね」
「絢女先輩、驚くだろうな」
住宅街に背を向けた私たちは、宵闇の薄紫が迫る街に、軽い足取りで引き返した。
好きな人と飲むお酒は、楽しくて美味しい。ささやかな贅沢を知った夏を、私はめいっぱい満喫している。




