3-22 フランスの藤の花
次の土曜日に、夏の田園風景が拡がる畦道を歩いた私と巴菜ちゃんは、先週にも訪れたカントリー調の戸建ての前に立っていた。
インターホンを押しておとないを入れると、玄関扉を開けて出迎えてくれたアリスは、レースをあしらったタンクトップにロングスカート姿で「ミオ、ハナ、待っていたわ!」と以前と同じように言ってから、青色の目を細めて笑った。
「あなたが、ケイね。初めまして」
「はい、お初にお目にかかります。相沢彗と申します」
私と巴菜ちゃんの隣から、一歩前に進み出た彗が、アリスと向き合って一礼した。
――綾木家に巴菜ちゃんと来たのは二度目だけれど、以前と違う点が二つあった。一つは、天気が薄曇りではなく快晴で、もう一つは、私たちの隣に彗もいることだ。
彗は普段よりもフォーマルな雰囲気の私服姿で、巴菜ちゃんはトレードマークのお団子頭がカーキ色のパーカーと似合っている。私はブラウスとサロペットスカートを合わせていて、服のセンス一つを取ってもバラバラな感性を持つ私たちが、こうしてアリスの家に集まることになったきっかけは、数日前に彗から掛かってきた電話だ。巴菜ちゃんと仲直りをした私に、彗が電話で出し抜けに言ったのだ。
――『次の土曜日に、アリスさんのお宅に行く用事があるんだけど、澪も来る?』
私は、心底びっくりした。アリスは私の知り合いで、先日のバーベキューの誘いを辞退した彗は、次回があれば声を掛けてほしいと言っていたはずなのに、どうして私はアリスの家に行く話を、彗から打診されているのだろう? 理由を訊ねても、彗は『行けば分かるから』と言って教えてくれなかった。
――『もし都合が合えば、西村さんにも声を掛けてみて。彼女のことを、アリスさんが気に掛けていたことは、聞いているから』
またしても彗が暗躍しているのだと悟った私が『今度は何を企んでいるの?』なんて訊き方をしたから、彗は『澪も言うようになったね』と言って笑っていた。
その後、英会話教室でアリスから話を訊き出そうとしたけれど、笑顔で『こないだのクレームブリュレ、うちで一緒に作らない?』と言われて誤魔化された。こうして私は、約束の日の昼下がりに、彗と巴菜ちゃんを初めて引き合わせたのだった。
――『澪ちゃんの彼氏さん、初めまして! 西村巴菜です! いろいろお騒がせして、すみませんでした!』
――『え? うん。澪と西村さんが喧嘩したことなら知ってるけど、内容は聞いていないんだ。事情はよく分からないけど、僕のことは気にしないでね』
――『嘘っ、澪ちゃん、話してないの? なんでっ』
――『なんでって……普通だよ。巴菜ちゃんが、友達のプライベートな情報を、身近な人に話しすぎてるだけじゃない?』
――『わー、耳が痛いよー、反省してるってばー!』
オーバーリアクションで呻く巴菜ちゃんを見た彗は、『威勢のいい子だね』とコメントしていた。地声が大きいのは巴菜ちゃんいわく『元陸上部だから』とのことだけれど、運動部は声を張る場面が多いのだろうか。私は高校では部活に入らなかったから、自分が選ばなかった道に進んだ人たちの話は、いつも興味深く聞いている。
「さ、家に上がって! ケイ、ヤスヒコもお待ちかねよ」
「はい」
頭を下げた彗に続いて、私と巴菜ちゃんも家に上がると、今度は綾木泰彦さんが出迎えてくれた。こざっぱりとしたブルーのシャツが涼しげで、突き当りの階段の窓から入る白い日差しが、眼鏡のつるを照らしている。優しい眼差しで私たちを見渡した綾木さんは、彗に目を留めて微笑んだ。
「やあ、倉田さん、西村さん。それから、相沢くん」
「こんにちは、綾木さん。先日は、お声がけくださり、ありがとうございました」
親しげに握手をする二人を見て、私はぽかんとしてしまった。「彗、綾木さんと知り合いだったの?」と訊ねると、綾木さんが種明かしをしてくれた。
「相沢くんには先日、うちの玄関に飾る絵の制作を依頼したんだ。彼の個展で見た黄色の花の絵が、とても印象に残ってね。新居には彼の絵を飾りたくて、後日アリスと一緒に改めて個展の絵を見に行って決めたんだよ」
「新居に飾る、玄関の絵……あっ」
私は、思い出していた。彗をバーベキューに誘ったときに、彗は確か言っていた。
――『新しい絵の依頼が入ったんだ。こないだの個展で絵を気に入ってくれた個人の方から。納期にはかなり余裕があるけど、新居の玄関に飾りたいって言われたことが嬉しかったし、できるだけ早く取り組みたいんだ』
「彗が受けた新しい仕事って、アリスの家に飾る絵だったの?」
「うん。僕も知ったのは最近なんだ。澪からは、アリスさんの名前は『アリス・ベネット』さんだって聞いてたし、綾木さんの奥さんだと判ったのは、澪がバーベキューに出掛けた翌日に、綾木さんからご連絡をいただいたときだよ」
バーベキューの翌日――巴菜ちゃんと星加くんのことや、秋口先生のことで頭がいっぱいで、私が彗のアトリエに行けなかった時期だ。綾木さんが、柔和に笑った。
「バーベキューの席で、倉田さんの彼のことが話題になったときに、もしや僕が絵を依頼した青年のことじゃないか、と気づいてね。世間は狭いなあと、つくづく思ったよ。相沢くんとは、絵の件で打ち合わせをする約束をしたから、隣で電話を聞いていたアリスも面白がってね。倉田さんには、今日まで内緒にしていたんだよ」
「私は、最初から気づいてたわよ? ヤスヒコとケイとミオがいつ気づくのか、楽しみにしていたんだから」
「いやはや、面目ないね」
綾木さんは、照れ笑いを見せた。まさか彗のクライアントが、綾木泰彦さんだったなんて。驚きで声も出ない私を、アリスがリビングに導いた。
「ミオとハナは、私とお菓子作りを始めましょう? ヤスヒコとケイは、リビングで打ち合わせをどうぞ。私も間で口を挟ませてもらうから」
「そういうことだから、打ち合わせを始めようか。といっても、僕たちの思い出話をするのは、なかなか照れるものがあるけれど」
「よろしくお願いいたします。ぜひ、聞かせてください」
彗と綾木さんは、リビングのソファに座り、テーブルに拡げた書籍やアルバムを開きながら、穏やかに歓談し始めた。お洒落なオープンキッチンでエプロンを身につけた私は、マントルピースの写真立てを眺めた。写真の中で、海外で食事を取る若い男女が、幸せそうな笑みをカメラに向けている。
「ミオったら、やっぱりあの写真が気になるのね」
金髪を一つにくくったアリスが、嬉しそうに笑った。「はい」と答えた私は、思い切って質問した。
「アリス。綾木さんとは、学生時代の海外旅行で出会ったって言っていましたよね。綾木さんは、フランス留学の経験があるから、ひょっとして……あの写真で、アリスが綾木さんが写っている場所は……」
「ええ。フランスのカフェで撮ったの」
アリスは、夫に目を向けた。彗と話している綾木さんは、アルバムを楽しそうに眺めている。遠目にも異国の街並みが垣間見えて、私は少しだけ切なくなったけれど、少しだけ嬉しくなった。彗が旅立つフランスにまつわるものを直視しても、以前に感じた切実な後ろめたさは薄れていた。
「春のフランスは、藤の花が見頃なのよ。日本の藤棚には和風の趣があるけれど、フランスでは家々の壁や柵に、蔦みたいに這わせているの。ヤスヒコのホームステイ先も、生成色の外壁にイエローとグレーの石を散りばめたコケティッシュな家に、藤の薄紫色がとっても似合っていて、綺麗だったわ……」
私もアルバムに目を凝らすと、アリスが話した通りの建物の写真を一枚見つけた。淡い藤色の思い出を、彗は真剣な目で見つめている。
「私がフランスに滞在中、ホームステイ先に帰るヤスヒコと、離れ難くて……塀を伝う満開の藤の下で、二人でずっと話していたわ。あのときの思い出を、いつでも見返せるようにしたいから、彗にはフランスの藤の絵をお願いしたの。あの藤が咲く場所は、私たちにとって、もう一つの家に等しいから」
「もう一つの家……」
誰かの思い出がこもった居場所を、絵筆で伸びやかに描き出していく彗は、途方もなく尊くて覚悟が問われる重みを背負っている。巴菜ちゃんが、神妙な声で「澪ちゃんの彼氏さんって、やっぱりすごいね」と言ったから、私は「うん」と頷いた。
きっと彗は、これからどんどんスケールの大きな存在になっていく。そんな努力家の隣を歩くために、私も一つの覚悟を決めたとき、冷蔵庫から卵と牛乳を取り出したアリスが、巴菜ちゃんを振り返ってニコニコした。
「ハナ。先週よりも元気になったみたいね? 私は、ようやく本当のあなたに会えた気がするわ」
「わっ、そうだった! アリスさんにも謝らなきゃ! あたし、先週はいろいろあって……ちょっと卑屈で、ヤな感じだったと思います。すみませんでした!」
「そんなふうには思わなかったわよ? ただ、あなたに元気がなかったことが気になっていたし、ハナがミオと仲直りできて嬉しかったわ」
「えへへ、それはあたしも嬉しいです。澪ちゃんがあたしを許してくれて、本当によかった。失恋で友達まで失くすなんて最悪だし、自己嫌悪が爆発してたと思う」
「巴菜ちゃん。私も、電話で生意気なことをいっぱい言ったと思う。ごめんね」
私は、アリスから受け取った食材をキッチンに並べると、小さな声で打ち明けた。
「今までのこと、反省してたんだ。最近の私は、ちょっと怒りっぽかったかなって……巴菜ちゃんのことだけじゃなくて、ゼミの飲み会で先輩にお酒を飲まされそうになったときも。感情的な断り方をしちゃったから」
「うわあ、最悪じゃん! それは文句を言って正解だよっ」
「うん。自己主張できたことは後悔してないけど、もっと他に言い方があったかなって……私、自分が恥ずかしい」
「あたしだったら、もっと怒ってると思うけどなあ。……そんな澪ちゃんの真面目なところを、あいつも好きになったのかな。悔しいけど、見る目があるところくらいは、褒めてやってもいいかな」
気丈な言い方をしていても、巴菜ちゃんの笑顔は寂しそうだ。以前の私なら、この話題に踏み込めなかったと思うけれど、電話で本音をぶつけ合った日から、私たちは少しだけ、互いの領域に踏み込む勇気を持てた気がする。私は、そっと訊ねてみた。
「私が、星加くんと話した日のこと……巴菜ちゃんは、星加くんからも聞いてる?」
「ふふふ、実は聞いてないんだ」
「そうなの?」
てっきり、また星加くんに呼び出されて、話を聞かされたのだと思っていた。巴菜ちゃんは、さっきよりも強気な笑い方をして、アリスから手渡された卵を銀色のボウルに割り入れた。殻が割れる音はささやかなのに、不思議と清々《すがすが》しく響き渡る。
「大祐から、また話を聞いてほしいって言われたけど、言ってやったの。あんたの恋愛相談なんか懲り懲りだ、って。大祐がもう一回振られたことは、澪ちゃんと電話で話したときに知ったから、失恋の話だって分かってたけど、それでも聞きたくなかったんだもん。大祐、驚いてた。あたしが断るなんて、思いもしなかったんだろうな」
「……そっか」
「澪ちゃんは、あれから大祐に会った?」
「ううん、まだ。でも、ゼミの件で助けてもらったから、次に大学で会うときには、ちゃんとお礼を言いたいな」
自然公園をあとにしてから、私は星加くんと会っていない。今週はゼミが休講になったうえに、講義の教室移動中に顔を合わせることもなかった。ただ、先日の飲み会に参加しなかったゼミの先輩たちが、私を気遣ってスマホに連絡をくれたのは、星加くんが今回のことを先輩たちに話してくれたからだと思う。巴菜ちゃんは「あいつ、正義感が強いもんね」と言って、笑みをほんのりと陰らせた。
「……あたし、やっぱり大祐の話を聞いてあげればよかったのかな。大祐に、かわいそうなことをしちゃったかな。だけど、あたしが大祐の話を聞かなくても、もう別の人に話を聞いてもらったみたいなことを言ってたし……正直、それも悔しかったんだ。あたし以外の人が、あいつの話し相手になってるのって、面白くなくて……」
次第に自信なさそうに囁いた巴菜ちゃんは、卵を一つだけ割り損ねた。ボウルの中で傷ついた卵黄が染み出して、白身の透明感を侵していく。けれど、アリスが隣から菜箸をボウルに突き刺して掻き混ぜたから、仲間外れの卵と先達の卵たちは、あっという間に一つの黄色い渦になった。
「失恋の痛手には、新しい恋が一番だってよく言うものね。ダイスケを振り向かせるチャンスだったかもしれないけれど、ハナはアマネにアタックしていたじゃない。そっちはどうなったのか教えてよ?」
「高嶺さんには、澪ちゃんと仲直りしてから、あたしからすぐに連絡を取りました。今まですみませんでした、って謝りたくて……」
シンクで手を洗った巴菜ちゃんは、照れ臭そうにはにかんだ。初耳の話題なので、私はつい、きび砂糖を計量する手を止めてしまった。
「あたしみたいな子ども、高嶺さんとは釣り合わないことくらい、最初から分かってました。それに、アプローチしてるくせに、本当はその気がないことだって、高嶺さんは分かってたと思います。でも、失礼な気持ちで言い寄ってるのに、あたしを傷つけないように、子ども扱いもしないでくれて……本当に、素敵な人だったから。こういう人を、本当に好きになれたらよかったのに……」
巴菜ちゃんの目に、じわっと涙が滲んだ。ペンダントライトが照らす雫の光を、慌てた様子で指で拭う巴菜ちゃんに、アリスはハンカチを差し出した。
「ハナも、なかなかお目が高いと思うわよ? アマネは、とってもいい人だもの」
高嶺周さんは、巴菜ちゃんが言うように、全て見抜いていたのだろう。私の勉強に対する迷いも、的確に読み取っていた気がする。誰かの痛みに寄り添える優しい人が、巴菜ちゃんの力になってくれてよかったと、私も心から思った。
「本当に優しい人だったなー、高嶺さん」
ハンカチを目頭に押し当てた巴菜ちゃんは、気を取り直した顔で笑った。
「高嶺さんに電話で謝ったときに、あたしの失恋の話も聞いてくれたんだ。お仕事で忙しいのに、こんな個人的な話に付き合ってくれて……迷惑を掛けっ放しで申し訳なかったけど、すっごく嬉しかったなあ」
「互いに失恋した者同士、積もる話があったのね」
アリスは、私から受け取ったきび砂糖を卵のボウルに入れて、どこかで聞いたことがある台詞を口にした。ホイッパーでボウルの中身を混ぜながら「アマネも、新しい恋人と出会えたらいいのにね。今は仕事が恋人みたい」と続けたので、巴菜ちゃんも鍋に牛乳と生クリームを注ぎながら「あんなにモテそうな人なのに、フリーだなんて信じられない」と話している。私は、バニラのさやに包丁を入れて、黒い種子を取り出しながら、二人のやり取りを聞いていた。
「アマネも、うちの人にそっくりなところがあるものね。好きなものが絡むと目をキラキラさせて、仕事に没頭しちゃうんだもの。そんなアマネみたいな人には、好きなものを追いかけてもサポートしてくれる面倒見がいい器量良しで、冷静沈着で知的なタイプで、けれど大胆な奔放さも併せ持った、時には仕事じゃなくて自分を追いかけさせるくらいにミステリアスな魅力がある、大人っぽい女性が似合うんじゃない?」
「アリスさん、ひどい。全部あたしにないものばっかりじゃないですかぁ。いくらアマネさんが素敵だからって、ハードルが高すぎません?」
「いいじゃない。ハナはダイスケに未練があるんだし、ハナにはハナの魅力があるんだから。といっても、隣の芝生は青く見える、という日本の言葉もあるものね」
「器量良しで、知的で、奔放で、ミステリアス……」
「ミオ、どうしたの?」
「えっと、アリスが挙げた条件に、全部当てはまる人を、知ってるから……」
「澪ちゃん、その人ってもしかして」
巴菜ちゃんは、何かに気づいたような顔をした。やがて不服そうに唇をへの字に曲げて、私がまな板ごと渡したバニラビーンズを、牛乳と生クリームの鍋に投入して、強火で加熱しているので、アリスが呆れ笑いで「温めるのは、沸騰する直前までね」と諫めている。巴菜ちゃんの不機嫌の理由が分からなくて「どうしたの?」と訊ねると、巴菜ちゃんは「だって」と拗ねた口調で言った。
「その人って、大祐の話を聞いてあげた人でしょ? ……なんとなく、新しいライバルが現れた気がするから」
「ライバル? 絢女先輩が? 私には、あんまり想像できないけど……」
「甘いよ、澪ちゃん! 大祐が面食いだって今回のことで分かったし、あんな美女が相手じゃ、あたしに勝ち目なんてないもん!」
巴菜ちゃんが、ホイッパーで力任せに鍋の中身を混ぜたから、濃密なバニラの香りが湯気に乗って揺蕩った。リビングの彗も甘い空気に気づいたようで、キッチンの私たちを振り向いた。綾木さんが長閑に「楽しそうだね」と言ったから、巴菜ちゃんが赤い顔で「この話は、もう終わり!」とひそひそ声で訴えて、アリスが小さく噴き出した。
「ハナってば、可愛い。面白いことになってきたじゃない」
「全然、面白くありません!」
またしても聞き覚えのある台詞が飛び出したので、私もアリスと一緒に笑ってしまった。かつて私をからかった絢女先輩の気持ちを、小さじ一杯分くらいなら理解できたかもしれない。




