3-19 怒ってる?
「速水さんに連絡したから。着替えを持ってきてくれるって」
噴水のそばのベンチに私を座らせた彗は、スマホをズボンのポケットに仕舞った。私は「ありがとう……」と蚊の鳴くような声で返事をした。
ぐっしょりと水を吸ったワンピースは重たくて、小学生時代の着衣泳の授業を思い出す。濡れた衣服が肌にぴったりと貼りつく気持ち悪さを、この夏で二回も味わうなんて思いもしない。けれど、先日の飲み会のときとは違って、今回は自業自得だ。身体を縮こまらせていると、私と同じくらいに落ち込んだ声が、背後の芝生から聞こえてきた。
「倉田さんは、悪くないから。俺が、二人の会話に割り込んだからで……」
「悪いけど、君はもう少し離れた所に行ってくれるかな。知人が届けてくれる服に着替えるまでは、澪の前に来ないでくれる?」
「あ、はい……っていうか、今も前じゃなくて後ろにいるんですけど……」
彗に素気無く追い払われた声の主――星加くんが、悄然と遠ざかっていく足音が聞こえる。申し訳ない気持ちはあるけれど、離れてくれて安心した。彗が身につけていたエプロンも貸してもらったので、濡れた身体を隠せたことも救いだった。
でも、星加くんは……かわいそうだけれど、もう貸せる服がないから、そのままだ。そろりと振り返ると、星加くんは彗の言いつけ通りに私たちから距離を置いて、濡れたトップスの裾を扇いでいる。トパーズ色の前髪から、ぽたぽたと水が滴った。罪悪感で、胸が痛んだ。星加くんが彗に手を伸ばしたとき、どうして私が止めたのか、星加くんはまだ知らない。私は、隣に寄り添ってくれた彗に囁いた。
「彗、どうして私がここにいるって分かったの?」
「速水さんが、連絡をくれたからだよ。澪に確認の電話をしても出ないし、折り返しの連絡を待つよりも、直接来たほうが早いと思って」
「……ええっ?」
そういえば、この待ち合わせ場所に来る途中で、私は絢女先輩からスマホに連絡をもらっていた。そのときの返信内容が、彗のスマホに横流しされていたのだ。二人は時々こうして結託して、予想もしない未来まで、私の手を引っ張っていく。
「じゃあ、知ってるの? 私が、ここに来た理由も」
「うん。澪が黙っていたのは、僕に心配を掛けないためだってこともね」
「彗……私……」
「大丈夫。分かってるよ」
彗は、自分の服まで濡れてしまうのに、私の冷たい身体を抱き寄せた。
「澪の気持ちを、僕は疑っていないから」
体温に身を委ねた私が、安堵を通り越して茫然としていると、自然公園の入り口に、絢女先輩の姿が見えてきた。空気が橙色に輝く日向で、大きなバッグを提げた黒いサマーニットとベージュのタイトスカート姿の美女は、濡れ鼠になった私と目が合うと、呆れ笑いの顔で近づいた。
「お待たせ、澪ちゃん。その服を着ている日は、散々な目に遭ってばかりね」
「すみません、絢女先輩……着替えまで、持ってきていただいて」
「いいのよ。服を気に入ってくれたことは嬉しいし。とにかく、これを羽織って」
手渡されたロングカーディガンは、冷えた身体を包み込んでくれた。「着替えも持ってきたけど、どうする? 向こうにお手洗いがあったけど」と絢女先輩が訊いてくれたのは、自然公園と彗の家が近いからだろう。「上着があれば、歩けます。アトリエには自分の服があるので、着替えはそこで。ありがとうございました」と恐縮しながら答えた私に、絢女先輩は優しく頷いたけれど、次に星加くんへ向けた眼差しは冷たかった。
「あなたの分も、私の弟の服を持ってきたから」
「は、はい……」
星加くんも恐縮の顔で頭を下げて、顔を上げて絢女先輩を見つめると「あ、中華料理の」と声を上げた。彗は、私をベンチから立たせると、星加くんを一瞥した。
「澪は、僕と速水さんが連れて帰るから。君は、一人で帰れるよね?」
そう言い渡した彗は、なんだか普段よりも威圧的な態度に見えた。相沢彗らしからぬ押しの強さは、星加くんにも伝わったようで、たじたじと「はい」と答えている。やり取りを見守った絢女先輩が、可笑しそうに言った。
「相沢くん。私はこの子と少し話してから行くから、先にアトリエで待ってて」
「じゃあ、例の件は?」
「もちろん、忘れていないわ。必要なものも、これから買い足す予定だったし。相沢くん、これを持って帰ってくれる? 私を待たずに、先に始めてくれていいから」
絢女先輩は、彗に紙袋を差し出した。蓮の花のロゴが入っているから、『フーロン・デリ』の料理だと分かる。ぽかんとする私をよそに、彗は紙袋を受け取った。
「分かった。ありがとう。今日は暑いから、日差しに気をつけて」
「ええ。またあとでね」
打てば響くように交わされる二人の密談に、私はまるでついていけない。星加くんも目を白黒させていたけれど、私は彗に手を引かれて公園を出たし、星加くんも絢女先輩に話しかけられていたから、私たちは言葉もなくさよならした。こんな幕引きを迎えるなんて、星加くんだって予想できなかっただろう。
茜色に染まり始めた坂道を、彗は急ぎ足で歩いていた。早く私をアトリエに連れて帰ろうと、心を砕いてくれているのだと思うけれど、私への心配とか気遣いだけでは説明できない性急さも感じたから、私はおそるおそる彗を見上げた。
「彗……怒ってる?」
「え? 怒ってないよ」
彗は、びっくりした顔で私を見下ろした。思わずといった様子で立ち止まってから、再び私の手を引き直して歩き出す。
「澪。僕は、怒ってないけど……こういうことは、僕にも話しておいてほしい」
「う、うん。ごめんなさい」
やっぱり、怒っているのかもしれない。気になった私は、彗の顔を覗き込んだ。
しかつめらしい表情で、唇を結んだ彗の横顔は、オレンジ色の陽光に照らされて、ちょっとだけ頬が赤かった。




