3-16 偽の友達
次の英会話教室のレッスンは、普段よりも早く切り上げることになった。いつもの個室で私の対面に座ったアリスは、幼い子どもみたいな膨れっ面を作っている。
「今日は、あんまり集中できていなかったみたいね」
「すみません……」
私が肩を窄めて謝ると、アリスは「もう、違うわ! 謝らなくてもいいのよ!」と言って唇を尖らせた。仲のいい友達が隠し事をした水臭さを責めるように、顔を私に近づけてくる。今日は束ねていない金髪の毛先が、白いブラウスの胸元で揺れた。
「勉強にも支障が出るほど、何を悩んでいるの? ハナのこと?」
「どうして……」
訊ねかけた私は、ジーンズを履いた膝に視線を落とす。思えば、巴菜ちゃんを綾木家に連れていったときから、アリスは巴菜ちゃんに元気がないことを見抜いていた。
「巴菜ちゃんのことも、悩んでいます。こないだ、いろいろあって……でも、それだけじゃないんです。アリス、時間は大丈夫ですか?」
「ええ。次の生徒のレッスンはまだ先だから。ミオのバイトはいいの?」
「はい。私も、今日はいつもより一時間遅いシフトなので」
私は躊躇ったけれど、土曜日の出来事をアリスに打ち明けた。秋口先生の名前は出さなくても、私が抱えたフランス語に対する自信のなさは、自分でも驚くほどすんなりと言葉にできた。簡単に言語化できてしまうくらいに、この学びと正面から向き合えていないことが、本当は後ろめたくて堪らなかった。自分自身のことなのに、分かっているようで分かっていなくて、結局どこかで分かっている。そんな心の寄り道と回り道を、これから私は何度繰り返していくのだろう。やるせなくて、情けなかった。
「なるほどね」
アリスは、話を聞き終えると頷いた。膨れっ面からレッスンのときの表情に戻ったけれど、返ってきた言葉は、土曜日に出会った翻訳家の高嶺周さんに『フランスで英語は通じるか』と私が訊ねたときと同じだった。
「フランス語を流暢に操れなくても、英語が話せることで助けられる場面は多いわ。だけど、もしフランスで暮らすことを考えるなら、それなりの備えが必要ね」
当然の答えだ。だけど、二か国語を同時に学ぶことが、本当に可能なのだろうか。そんな私の不安を和らげるように、アリスは微笑んで「今のミオに助言できることが、いくつかあるわ」と穏やかに言った。
「まず、英語とフランス語を同時に学ぶことは、可能よ。フランス語はラテン語の子孫だし、英語もラテン語起源の言葉をたくさん持っているから、この二つの言語には似ている言葉がたくさんあるわ」
アリスは席を立つと、ホワイトボードに向き合った。黒いマーカーのキャップを外して、英語とフランス語の単語を書き連ねていく。
「ただし、いくら言葉が似ているといっても、意味やニュアンス、それに発音が異なるものが少なくないわ。例えば、英語の『College』が『大学』を意味する一方で、フランス語の『Collège』は『中学』という意味を持つの。英語の『library』は『図書館』だけど、フランス語の『librairie』は『本屋』を指すわ。こういった違いは、綴りが全く同じ単語にもあって、英語の『car』は『車』だけど、フランス語の『car』は『長距離バス』よ。ちなみに、車を示すフランス語は『voiture』ね。区別が難しいこれらの言葉は『偽の友達』と呼ばれていて、フランス語では『faux-amis』と書くわ』
アリスは、ホワイトボードのてっぺんに『faux-amis』と書き終えたところで、マーカーのキャップを閉めて振り向いた。楽しそうな表情は、英会話教室の体験入学で、私に語学の楽しさを説いたときと同じだった。
「『faux-amis』は『同じ綴り・あるいは似た綴りの言葉だけれど、意味が異なる』もので、フランス語と英語の勉強を両立させるうえで要注意の言葉よ。でも、ミオだって大学の第二外国語の講義でフランス語を選んだなら、私がいま話したことだって、いくつかはもう知っているはずよ? 勉強を一から始めるわけじゃないんだし、身構えなくても平気だとは思わない?」
「でも、今の勉強をただ続けるだけでは、海外で通用する会話力は……自分からもっと上達する努力をしないと、身につかないと思います。二か国語を話せるバイリンガルにだって、私はまだなれていないのに……三か国語のトリリンガルなんて」
バイリンガルは、二つの言語で話せる能力を持つ人のこと。そしてトリリンガルは――三つの言語で話せる能力を持つ人のこと。どれほどの時間をかけて努力すれば、外国語を自由自在に操れるようになるのだろう。想像するだけで気が遠くなった。
「ミオのフランス語の成績は、どんな感じ?」
「……普通です。悪くはないけど、良くもありません。フランス語で話しかけられたら、頭の中で文章を組み立てるのに精いっぱいで、受け答えはできないと思います」
「なるほどね」
アリスは再びそう言って、謎は全て解けたとでも言わんばかりに、笑みを深めた。
「今のミオは、『faux-amis』に振り回されているのね」
「え?」
私が、『faux-amis』に――『偽の友達』に、振り回されている? なんだか本質的なことを言われた気がして、ぎゅっと胸の奥が委縮した。
「ミオ。あなたはハナと話すときに、日本語を頭の中で組み立ててから話しているわけではないでしょう?」
巴菜ちゃんの名前が挙がってどきりとしたけれど、「はい」と私は頷いた。アリスは頷き返すと、「私と英語で話すときには、まだ時々考え込んでいるけれど、反射で受け答えをする感覚を掴んでいるわ」と続けた。
「でも、ミオはフランス語の会話には苦戦していて、英会話のような反射の感覚がまだ掴めていないのよね? その理由は、まだミオがフランス語を勉強中だから、ということに尽きるけれど、上達を妨げている原因なら、私は『発音』にあると思うの」
「発音、ですか?」
意外な指摘を受けた私は、復唱した。新しい着眼点を示したアリスは、ホワイトボードの『faux-amis』を指でさして、ちょっとおどけた笑い方をした。
「英語とフランス語を同時に学ぶ者にとって、二つの言語で『意味』と『発音』が異なる『faux-amis』は、話し手に混乱を齎すわ。この『意味』と『発音』のどちらのほうが、『faux-amis』によって引き起こされる混乱が大きいと思う?」
アリスに問われて、私は考える。言葉の綴りが似ていても、それらが示す『意味』の暗記は、時間を掛ければ可能だろう。けれど、反射の受け答えを求められる会話では――アリスが言わんとしている意味が分かり、私は瞠目した。
「そっか……英語で覚えた単語の発音とか、アルファベットの読み方が……同じ綴りのフランス語の単語……『faux-amis』と混ざって、頭の中で邪魔をするから。反射の会話が難しくなって、どうしても考え込んじゃうんですね」
「そういうこと。フランス語で『本屋』を意味する『librairie』と言いたいのに、英語で図書館を意味する『library』と言い間違えるかもしれない。言葉の『意味』を覚えるだけなら、脳の仕事だからまだ容易なの。でも、実際に発声して会話に臨むとき、とっさの『発音』の修正は、脳だけじゃなくて筋肉も関わる仕事になる。難しさの理由は、学習の記憶に『発音』が引きずられるところにあるのよ。……ミオ、やっと表情が少し明るくなってきたわね?」
「えっ、そうですか?」
「分かることが増えてくると、不安は薄れていくものよ。英会話でそれを実感してきたミオなら、分かるでしょう?」
「……アリス、ありがとうございます。おかげで、少し楽になりました。フランス語から逃げてきたみたいで、苦しかったから……」
「焦ることはないじゃない。学ぶことにタイムリミットはないんだから」
「でも……」
次の二月にアトリエのミモザが咲き誇り、私が大学四年生になる春が来れば――彗は、フランスに発ってしまう。あと一年と半年ほどの学生生活で、私は『faux-amis』に翻弄されない会話力を習得できるだろうか。
そんなふうに考えたとき、学習の期間を在学中に限定していた自分に気づかされた。焦りが可視化された実感を得られたとき、「ねえ、ミオ」とアリスが言った。
「私はね、ミオが英語の勉強に力を入れてきたのは、フランス語から逃げていたからではないと思うの」
「アリス……」
「今までに、いろいろな生徒を見てきたもの。外国語を使ったコミュニケーションスキルを、わざわざお金を払って身につけようとしている人は、仕事で外国語を使うとか、転勤や転校とかで、必要に迫られて教室に通う人が多いの。あとは、純粋に外国語を学ぶことが好きだから、という人たちね。私にとっては、ミオも間違いなくそんな一人で、英語を極めることをフランス語から逃げる免罪符にしているようには見えなかったわ。『好き』の気持ちって、損得勘定で維持できるほど、単純なものではないでしょう?」
外国語を学ぶことが、好きだから。――そうだった。彗と出逢った夜明け前に、私は言葉が持つさまざまな色彩や思いに惹かれ始めて、二人で朝の街を歩いたときには、もう今の私に繋がる方角を向いていた。英語で話せることが増えていくと、新しい楽しさも増えていった。上達が嬉しかった私の気持ちに、嘘なんて一つもなかったのに。
「ここからは、英会話教室のアリス・ベネットとしての言葉ではなくて、あなたの友人の綾木アリスの言葉として聞いてほしいんだけど、あなたは優しくて賢いから、自分のことを時々責めていると思うの」
「そんなふうに、自分に甘く考えてもいいんでしょうか」
まだ自信が足りなくて小声で訊ねると、アリスは爽やかに笑って「いいのよ! あなたは自分に厳しすぎるわ!」と言ってくれた。
「ミオの焦りと後ろめたさは、あなたが言うなら本物なんでしょうね。でも、英語を学び始めたときの純粋な気持ちだって、絶対に本物よ。あなたを見てきた私が保証するわ。それでも不安になって、あなたの『現在』の感情が、『過去』の行動の理由を、焦りと後ろめたさで上書きしそうになったときは――初心に帰って、楽しい気持ちと向き合ってみて。きっと『faux-amis』に振り回されないあなたになれるわ」
アリスは花のように微笑むと、ふと思い出した様子で「話は戻るけど、ハナのことも悩んでいたのよね?」と訊いてくれた。私は唇を開いたけれど、壁掛け時計が視界に入り、タイムアップを悟った。私の視線を追ったアリスも、次のレッスンが迫っているのだろう。肩を竦めて見せてから、ホワイトボードのイレーザーを手に取った。
「今日はここまでみたいね。またいつでも相談してね」
「アリス。最後に一つだけ。アリスも、フランス語に詳しいですよね。フランス語に興味を持つようになったきっかけを、今度聞かせてくれますか?」
青色の目を細めたアリスは、心から楽しそうに「うふふ」と笑った。そして「お安い御用よ。いま聞かせてあげるわ」と続けると、学習の秘訣を教えてくれた。
「愛している人が、愛している国の言葉だもの。ヤスヒコが見ている景色を、私も一緒に見てみたかったからよ」
旦那さんを想うアリスの顔は、バーベキューの日の綾木さんと高嶺さんみたいにキラキラしていた。目から鱗が落ちた私は、アリスにつられて微笑んだ。
この答えは、私の心の中にもあったはずだ。にもかかわらず、自力では見つけられなかったことが悔しくて、まだまだ学び足りないのだと思い知った。
「本当に、ありがとうございました。アリスと話せてよかったです」
頭を下げてから、アリスに見送られて個室を出た。廊下に出て扉を閉める刹那、こちらに背中を向けたアリスは、ホワイトボードにイレーザーを掛けていた。『faux-amis』の文字が、消されていく。マーカーの跡が薄く残っていたけれど、次の授業で新たな文字を上書きすれば、『偽の友達』は完全に消えてなくなるだろう。
初心のようにまっさらな光景を目に焼きつけた私は、踵を返して歩き出した。足取りはまだ重いけれど、この駅ビルに来たときよりも、少しだけ軽くなっていた。




