3-14 大好きになった人
十七時を過ぎた頃、バーベキューの会はお開きになった。後片付けをしていると、高嶺さんに笑顔で「僕がやるから、お気遣いなく」と言われてしまった。「アマネはうちに泊まるもんね」とアリスがにこにこして言ったから、そういえばそんな話を最初に聞いたと思い出した。綾木家の駐車場には高嶺さんの車もあるのに、ビールを飲んでいた理由も氷解した。もっと早く気づくべきだったのに、やっぱり私は昨日の出来事から、全然立ち直れていないのかもしれなかった。
食器をリビングに運ぶだけでも手伝わせてもらってから、私と巴菜ちゃんは綾木家を辞した。朱色から薄紫色へ移り変わっていく黄昏時の空の下で、玄関先に立つアリスは「ハナ、またね! ミオは、次の英会話教室でね!」と言って、快活に手を振ってくれた。綾木さんも微笑んで「またおいで」と言ってくれて、高嶺さんも「今日は楽しかったよ」と声を掛けてくれたから、私たちもお礼を伝えて頭を下げた。
今日は、本当にいい一日だった。私が抱えた問題の所為で、この楽しさを曇らせてしまうことに、罪悪感を掻き立てられるくらいに、素敵で素晴らしい一日だった。
蜩が鳴く田園風景を、私は巴菜ちゃんと肩を並べて歩いた。アリスの新居が遠ざかると、人の声は聞こえなくなっていき、遠くの街の賑やかさを、風が仄かに伝えてくる。虫の声だけが存在感を主張している帰り道で、真夏の青い香りを酸素と一緒に取り込む私たちは、二酸化炭素に何の言葉も乗せないまま、駅を目指して黙々と歩いた。
疑惑が生まれた以上、もう気づく前には戻れない。巴菜ちゃんだって、きっと私の様子が変わったことに気づいている。呼吸が浅くなったから、深く息を吸い込み、目を閉じた。星加くんとゼミでまた顔を合わせるように、巴菜ちゃんともまた講義で顔を合わせるのだ。この気まずさに蓋をしたまま、友達付き合いを続けていくのは不可能だ。目を開けた私が、蟠りを払拭しようと口を開いたときだった。
「澪ちゃん。今日は、とっても楽しかったね」
口火を切ったのは、巴菜ちゃんだった。息が止まりそうなくらいに驚いた私が、一拍の間を空けてから「うん」と答えて頷くと、隣で巴菜ちゃんが軽やかに笑った。
「今日は、アリスさんと綾木さんと、それから高嶺さんと知り合いになれて嬉しかった。澪ちゃんのおかげだよね。本当にありがとう」
「ううん、私も、巴菜ちゃんが一緒に来てくれて嬉しかった……」
紛れもなく本音を語り合っているはずなのに、どうして本音を隠し合っている気持ちになるのだろう。数日前までは気兼ねなく話し合える仲だったのに、今は互いに白々しい言葉を並べてばかりいる。本題から逃げたくなくて、意を決して「巴菜ちゃん」と呼んだけれど、「ねえ、澪ちゃん」という巴菜ちゃんの有無を言わさぬ調子の声に遮られた。軽やかさのメッキが剥がれて、鉛のように重い響きが、夕暮れ時の空気を震わせた。
「高嶺さんって、格好いい人だったよね」
「え……? 高嶺さん?」
「知的で、優しくて……別れた彼女さんの話は聞いてあげられなかったって言ってたけど、そんなの絶対に謙遜で、初対面のあたしたちが緊張しないように、話題も振ってくれて……大人の気遣いができるところが、あいつと大違いで、格好いい人だよね」
「巴菜ちゃん……?」
「連絡先、交換したんだ。高嶺さんと。あたしから、どうしてもって頼み込んで」
息を詰めた私は、すぐに声を出せなかった。確かに、庭でバーベキューを楽しんだときも、後片付けをしたときも、高嶺さんに話しかける巴菜ちゃんの姿を何度も見た。やっとのことで「巴菜ちゃん、どうしたの?」と訊ねたけれど、巴菜ちゃんの答えはにべもなくて、「どうもしないよ?」と明るさを糊塗した声で切り捨てられた。
「素敵な人だなーって気になったから、もっと話してみたくなっただけ。高嶺さんを困らせちゃったし、あたしみたいな子どもなんて恋愛対象外だって分かってるけど、これからも会えたら変わるかもしれないでしょ?」
「でも、巴菜ちゃん、前に合コンとか興味ないって言ってたし……本当に、高嶺さんともっと話したいって思ったの? そんなに急ぐなんて、巴菜ちゃんらしくない……」
「じゃあ、あたしらしいって、何?」
重さを増した言葉の棘が、胸に突き刺さった。こんなふうに魂を型にはめるような物言いをされたら悲しいことは、私だって昨夜知ったばかりなのに、自分が言われたらつらい言葉で、友達を傷つけてしまった。「ごめん」とすぐに謝ったけれど、巴菜ちゃんは返事をしなかった。代わりに、ばつが悪そうな小声で言った。
「あたし、アリスさんに言われたことを、あれからずっと考えてたんだ。新しい友達とか、恋人とか……大好きになった人のことって、親しい間柄の人に、たくさん話したくなっちゃうよね……って話」
その台詞が、再び私の心を揺さぶった。畦道が終わり、緩く蛇行した車道の隅で、いつしか立ち止まっていた私たちの頭上で、街灯が瞬いて白く光った。
「あいつ、澪ちゃんに告白したんでしょ?」
――息が、止まった。でも、こんな糾弾を受けることを、私はたぶん覚悟していた。それでも「知ってたの?」と訊ねると、「うん」と乾いた声が返ってきた。
「あいつが、澪ちゃんのことを好きになった話は、こないだ聞かされたから」
「こないだって……」
大学の昼休みに、偶然にも絢女先輩と顔を合わせた巴菜ちゃんを、星加くんが呼び出した日――間違いない。あの日だ。
「あいつが、振られたことも知ってるよ。昨夜、電話で聞いたから」
巴菜ちゃんは、俯いた。機械的な声に、昏い情念が、血液みたいに滲んだ。
「澪ちゃんのことを、まだ諦めてないことも」
「えっ……?」
――諦めてない? 何を言われたのか、すぐに理解できなかった。「あたし、馬鹿みたい」と囁いた巴菜ちゃんが、か細い笑い声を立てた。
「あたしだって、澪ちゃんが素敵だってことを知ってるのに。なのに、どうしてあんなに、のんきでいられたのかな。どんなに澪ちゃんの話をしても、澪ちゃんと彼氏さんの間に割り込む隙があったとしても、あいつが割り込むわけないって、絶対に好きになるわけないって……思ってたのに……」
「巴菜ちゃん」
「分かってるの、あたしが悪いってことくらい……真面目で優しい澪ちゃんのことが大好きで、友達になれて嬉しかった。一緒にいると楽しくて、新しい友達の話をするのも楽しくて、大祐に澪ちゃんのことをたくさん教えたのは、あたしだもん。澪ちゃんの彼氏さんが、少し不思議な人だってことも。二人の付き合い方が、あたしにはよく分からないってことも。……分かってるの。時間を巻き戻せたら、あたしが一番、あたしを止めたい」
「巴菜ちゃんっ」
「取らないで」
顔を上げた巴菜ちゃんの声が、ぱしんと夕闇の空気を叩いていく。目に涙を溜めた友達は、切なくなるほど小さな声で、けれどはっきりと私に拒絶を突きつけた。
「あたしから、大祐を取らないで」
啖呵を切った勢いのまま、唇を噛みしめた巴菜ちゃんは、涙を散らして駆け出した。お団子頭の後ろ姿が小さくなっても、私は追いかけられなかった。
星加くんのときと、同じだ。私は、誰かを傷つけてばかりいる。




