1-3 印象・日の出
放課後の空は薄曇りで、とろんと暈けた陽光が、高校のグラウンドを照らしていた。授業を終えた私は、寝不足でふわふわする意識の手綱を緩く握って、校門を出た。
早く自室のベッドで横になりたいほど眠いのに、真っ直ぐ帰る気にはなれなかった。かといって、昼夜を問わず行く当てもない私の足は、高校の敷地を囲うフェンスに沿って進んでいき、桜並木の仲間外れの前に到着した。
――『ミモザ、という花だよ』
午前四時に出逢った青年の声が、脳裏で柔らかくエコーする。梢を覆う丸い蕾が、二月の風に揺れていた。長閑な日差しを浴びる黄色の真珠を眺めても、失くしたリアリティは戻ってこない。
この現実は、まだ夢の続きだ。私の夜は、昨日から明けていない。孤独の象徴のような木の下にいた彗だって、浮世離れした人だった。本当は実在しない人だと誰かに耳元で囁かれたら、つい信じてしまいそうになるだろう。
でも、彗は実在する。この木の名前という記憶が、夜明けの訪れと共に消えてしまいそうな現実感の欠片を、シンデレラが落としたガラスの靴みたいに残してくれた。歩道を行き交う学生の数が増えたから、私はミモザの木に背を向けて、短い寄り道を切り上げた。すれ違った生徒たちは、大きな油彩画のキャンバスを抱えている。美術の授業で描いたものだろう。私も、自分の作品を美術室まで取りに行かなくてはならない。覚束ない足取りで歩いていると、誰かの視線を感じたけれど、夜更かしの所為でくらくらしたから、私は振り返らなかった。
家に着くと、リビングにいた母は「おかえり」と小声で言った。私に気を使った微笑のぎこちなさが、胸をぎゅっと締めつける。私も「ただいま」と返事をしてから、普段通りの足取りを意識して自室に引っ込み、息を吐いた。
今朝の両親は、いつも通りの顔をしていた。真面目な表情で新聞を読んでいた父は、私に挨拶をしてから会社に向かった。朝食を作ってくれた母は、泣き腫らした目が赤かったけれど、普段と同じ控えめな笑みを作って、私を家から送り出した。
私が未明に家を出て、夜明け前に帰ってきたことに、二人は気づいていないようだ。ひとまず安堵したけれど、二人とも離婚の話なんて何もなかったふりをして、私の答えを待っている。言葉で急かされたわけではないのに、決断を迫られているような息苦しさが強まって、学校指定のピーコートを脱いだ私は、黒いブレザーと赤いチェック柄のスカートの制服を着替えると、ベッドに寄り掛かって、泥のような眠りに落ちていった。
*
午前四時が近づく夜中に、私は再び家を抜け出した。
日中は太陽が照らしていた通学路を、今は月明かりが照らしている。蛍光灯が暗闇を切り拓いた歩道には、今日も誰一人として存在しなくて、私は少しホッとした。夜に居場所を求めているのに、夜を恐れてもいる私は、本当は何がしたいのだろう。
放課後にも訪れたミモザの木の下に、彗は今夜も立っていた。左手は今日も文庫本を持っていて、同じ左手の指だけで、器用にページを捲っている。月があんまり明るいから、暗闇でも文字を追えるのだろうか。私に気づいた彗は、閉じた文庫本を右手に持ち替えてから、空いた左手を軽く上げた。
「こんばんは。澪。今夜も来たんだね」
「こんばんは。彗。あなたと、約束したから」
私もミモザの木の下に立つと、彗を見上げた。
「また明日、ここで出会えたら。話の続きをしよう、って」
「うん。僕は、そう言ったね」
睫毛を伏せた彗の目元に、月光が青い影を落とす。こんな時間に家を抜け出してきた私のことを、この人は心配してくれている。それでも私をすぐには帰さないで、居場所を分けてくれたのは、私たちが似た者同士だからだろう。そんな予感は、ぽつりぽつりと身の上話を交わすうちに、ゆっくりと確信に変わっていった。
「大学に行きたいの。でも、両親が離婚を考えていて、私も進学を諦めてほしいって言われて……どうして大学に行きたいのか、ちゃんと考えてこなかったことに気づいたの。私が大学に行きたい理由は、ただ居場所がほしいだけかもしれない」
私は、今夜も名字を明かさなかった。このミモザの木の隣に建つ高校の生徒だとも言わなかった。夜の間だけ会える夢の人との間に、そんな現実の情報は必要なかった。
「澪は、真面目だね」
相槌を打つ彗には、独特の落ち着きがあった。透明な水と澄んだ空気、それから夜空の星や甘い金平糖みたいにキラキラと光る綺麗なもので、身体が作られているような気がする。きっと流れ星が人の形を願ったら、こんな青年の形になる。
「真面目かな。よく言われる。融通が利かなくて不器用、のほうが近いと思う」
「ああ、それは僕もかもしれない。気取っているみたいだから、あまり言わないようにしているけど、勉強が好きなんだ」
「じゃあ、何か教えて。何でもいいから、私が知らないようなことを」
「それは、難しい注文だね」
彗は、夜空を仰いだ。紺青の海に問いの答えを探すように黙してから、疎らに輝く星の一つを両手で掬い上げるような敬虔さで、言葉を丁寧に紡いでいく。
「ミモザは、別名『銀葉アカシア』と呼ばれていて、房状の小さな花が満開になると、枝が隠れるくらいになるんだって。花の色が異なると、花言葉も変わるらしい」
「ミモザって、この黄色以外の色もあるの?」
「そうだよ。オレンジのミモザもあるんだ。花言葉は、エレガント」
「オレンジ。金木犀みたい。それじゃあ、黄色のミモザの花言葉は?」
「秘密の恋」
私たちの会話は、まるで頭上で咲き始めたミモザの花びらや、誰かが夜明け前に見た夢みたいにふわふわしていて、地に足がついていなかった。おぼろげな浮遊感に惑うように、「彗が勉強を好きになったきっかけって、何?」と訊ねると、彗の視線は夜空から右手の文庫本へ、流れ星みたいに落ちていった。
「それはきっと、僕が絵描きだったから、かな」
「絵描き?」
「うん。幼い頃から静物や風景画を描いていて、特に油彩画が好きだったよ。技法を勉強するうちに、海外の画家にも興味の幅が広がったんだ。この本も、印象派の画家たちについて書かれているんだよ」
彗は、文庫本を私に差し出す前に、右手から左手に持ち替えた。さっきも彗がこの動作を挟んだことが気になるけれど、今は疑問を挟まずに、私は文庫本を受け取った。海外の画家に焦点を当てた内容は、高校の教科書よりも専門的で、彗の告白に実感を持たせてくれた。――私の隣にいる人は、絵筆を握ってきた人なのだ。
「印象派、あるいは印象主義は、学校の美術の授業でも扱うテーマだね。その名前が示す通り、画家の目が捉えた人物や風景の『印象』を描画する、フランス発祥の芸術運動だよ。時の流れによって変わる日差しの色や温度、被写体というモデルを通して知覚したことなどを、画家の感性で表現する手法は、ダイナミックな筆致なのに、繊細さも併せ持っていて鮮やかなんだ。代表的な画家は、クロード・モネ」
「モネは、睡蓮の絵を手掛けた画家だよね?」
「そうだね。晩年のモネは、終の住処となる自邸で、睡蓮をモチーフにした連作に取り組んでいたことで知られているね。水生植物の絵の他には『散歩、日傘をさす女性』も有名で、好きな絵の一つだよ」
「その絵、私も好き。草原で日傘をさした女性の白いドレスが、日差しの逆光で青く見えて、綺麗だから……」
油絵具の草原で、こちらを振り返る女性の顔は、白いベールに暈かされていて、表情が捉えづらかった。けれど、凛とした意志と憂いがないまぜになった眼差しには、見る者の心を捉えて離さない切なさがあった。そう感じる一方で、この『印象』は私個人のものなのだと不意に気づいた。十人十色の『印象』は、夜空に瞬く星々みたいに、絵画と向き合う人の数だけ存在する。初めての発見が、視野を大きく拡げてくれた。
「澪は、着眼点が鋭いね。モネは、光の描き方が秀逸な画家として名を馳せていて、印象派の名前の由来になった絵も、モネの『印象・日の出』という油彩画なんだ」
彗は、私から文庫本を左手で受け取ると、ページを片手でぱらぱらと捲った。
「風景を通して情緒を描いたモネのような、印象派の影響を受けた美術家には、グスタフ・クリムトも挙げられるね。有名な油彩画は『接吻』だけど、僕が好きな絵は『へレーネ・クリムトの肖像』で……ああ、ごめん。つい夢中で、僕ばかり喋っていたね」
講釈をやめた彗は、文庫本のページも閉じてしまった。私の胸が、小さく痛んだ。
――幼い頃から静物や風景画を描いていて、特に油彩画が好きだった。
絵画について豊富な知識を持っているのに、彗は絵描きとしての自分について、過去形の台詞で語っている。頑なさを感じる言い方が寂しくて、閉じられた文庫本をもう一度開くように、私は一つだけ質問した。
「彗の一番好きな絵を、教えて」
夜風と、互いの息遣いしか聞こえない静寂が流れた。不意を打たれたような顔をしていた彗は、ミモザの梢越しに月を見上げて、囁いた。
「一つに絞るのは難しいけど、たった一つしか選べないなら、この絵を選ぶしかないってくらいに大切に思っている絵なら、あるよ」
彗が、私に向き直った。月光の青いミストの中で、穏やかな微笑を取り戻した青年は、問いの答えを明かすときを、少しだけ未来へ先延ばしにした。
「続きは、また明日、ここで出会えたら」