3-13 バーベキューと文芸翻訳
バーベキューの準備は整っていたので、せめてお肉や野菜を焼く係りを引き受けようとしたけれど、綾木さんとアリスに「いいから、いいから」と笑顔でトングを攫われたから、ご厚意に甘えることにした。紙皿に取り分けてもらった熱々のお肉は、しっかりと焼き目がついているのに柔らかくて、豪快に振られた塩胡椒の味付けが力強くて、さっきまでの煩悶を一瞬忘れてしまうくらいに美味しかった。巴菜ちゃんも感動した様子で「美味しい! 野菜も甘いですね!」と絶賛したから、綾木さんは照れ笑いで「ありがとう」とお礼を言っていた。
「トウモロコシは、うちの庭で採れたんだ。形は歪だけど、味はなかなかでしょ?」
そう聞いて、納得した。ポロシャツから露出した綾木さんの腕は日焼けしていて、庭の手入れが日常に組み込まれているのだろう。アリスが「こっちも食べてみて!」と得意げな笑みで言って、私たちの紙皿に焼きたてのアスパラガスを載せてくれた。
「塩胡椒とオリーブオイルに漬けてるから、タレなしでどうぞ」
「すごく美味しいです。今度、うちでも試してみます」
「この調理方法は、アマネが教えてくれたのよ。前の彼女が教えてくれたのよね?」
「アリスさん、さらっと古傷を抉らないでくださいよ」
バーベキューコンロのそばにいた高嶺周さんが、苦笑の顔で振り向いた。整えられた黒髪がさらりと揺れて、改めて綺麗な人だと実感する。私の隣にいた巴菜ちゃんが、高嶺さんの隣へ物怖じせずに場所を移した。
「彼女さんと、別れちゃったんですか?」
「巴菜ちゃん、そういうことは、訊かないほうが……」
「構わないよ。もうかなり前の話だし、僕がいけなかったことだしね。仕事の忙しさを言い訳にして、彼女の話を聞けなかったから」
「高嶺くんも、僕と同じで、何かに夢中になると周りが見えなくなるからね」
「はは、綾木先輩ほどじゃありませんよ」
旧知の友人そのものの気安さで笑い合って、ビールを飲んでいる高嶺さんと綾木さんを見ていると、昨日の飲み会にはなかった温もりを感じ取れて、初対面の相手なのに落ち着けた。二人の馴れ初めが気になったとき、まるで心を読み取ったみたいなタイミングの良さで、綾木さんがウインナーを焼きながら教えてくれた。
「高嶺くんとは、出身大学が同じなんだ。歳は離れているけど馬が合って、こうして長い付き合いが続いているというわけさ」
「といっても、在学期間は重なっていなくて、知り合ったのはサークルの飲み会でOBを招いたときだよ」
飲み会という台詞に、どきりとした。平静を装って「お二人は、大学でどんなことを学ばれたんですか?」と訊いてみると、高嶺さんは垂れ目を穏やかに細めた。
「僕も綾木先輩も、文学部のフランス文学科出身だよ」
――パチリ、パチリと、バーベキューコンロで炭火が弾ける音がした。「ミオ、お肉ももっと食べてね」とアリスが取り分けてくれたお肉を咀嚼しても、爽やかなテノールが告げた言葉は、意識の片隅から消えなかった。巴菜ちゃんは無邪気に「そうなんですか、すごいですね」と相槌を打って、高嶺さんに尊敬の眼差しを向けている。
「あたし、外国語は本当に上達しなくて。自分から選んで勉強するなんて、何かきっかけとかあるんですか?」
「きっかけというほど劇的なものじゃないけど、昔から本の虫でね。とりわけ好きだったのが海外文学だったんだ。そこに綴られている言葉は、原文の外国語から日本語に翻訳された文章だから、訳者による意訳がなされているかもしれないし、訳者が変われば選ばれる言葉だって変わるよね。そんな当たり前の変化に気づいたときから、自分ならこの言葉をどう訳すか、ということを考えるようになったんだ」
夢と憧れの歴史の言葉が、滔々《とうとう》と丁寧に紡がれる。薄雲の彼方の青空を見出すような高嶺さんの眼差しは、絵を愛する彗の目にそっくりで、私は躊躇いがちに「勉強する外国語の中から、どうしてフランス語を選ばれたんですか?」と訊ねていた。
「一番好きな海外文学が、サン=テグジュペリの『星の王子さま』だからかな」
高嶺さんは、さらりと答えて微笑んだ。素朴な告白と、飾らない笑い方が、出会ったばかりの一人の大人を、一気に身近な存在にしてくれた。
「フランス文学には、人間が抱えた喜びや悲しみ、人生の哲学がたくさん詰まっているんだ。一生学んでも学び足りないくらいに深くて、もう抜け出せそうにないくらいに魅了されているよ」
「高嶺くんは、仕事にも選ぶくらいだからね」
綾木さんの台詞を受けて、私が「仕事?」と復唱すると、高嶺さんは「僕は、翻訳家なんだ」と打ち明けてくれた。
「翻訳の仕事にもいろいろな種類があるけど、僕が携わっているのは文芸翻訳だよ」
「文芸翻訳……小説を、翻訳されているんですか?」
「うん。雑誌やノンフィクションも扱うし、僕はそっちのほうが多いかな。さまざまなジャンルに浸れて楽しい仕事だよ。僕にとっての天職に巡り会えたのは、綾木先輩みたいに好きなものを追求する人に出会えた影響も大きいね」
「おいおい、いつもはそんなことを僕に言ってくれないじゃないか。若い子がいるときだけ、そうやって僕を持ち上げるんだから」
「そんなことはありませんよ。ああ、倉田さん、西村さん。綾木先輩は、出版社に勤めていて、学生時代に培った知見を活かして、辞書の編纂に携わったこともあるんだよ」
「それも、フランス語関係なんですね……」
話のスケールが大きくて、私は圧倒されていた。楽しそうに話す高嶺さんも、まんざらでもなさそうに微笑む綾木さんも、好きなことを仕事にした二人の顔は、キラキラしていて眩しかった。やっぱり、そういうところが彗と同じだ。そんな憧憬を言葉にしたわけではなかったのに、高嶺さんは私を見ると、ふわりと朗らかな笑い方をした。
「倉田さんも、もう見つけてるんじゃないかな。僕らにとっての、そういうものを」
「え?」
「なんとなく、そんな気がしただけだよ」
受け取った言葉は透明なのに、それでも思いが伝わるのは、目には見えない情緒が翻訳されているからだろうか。私が口を開きかけたとき、巴菜ちゃんが「あの!」と大きめの声を上げて、私たちの会話に割り込んだ。
「フランス文学科出身ってことは、フランス留学も経験されたんですか?」
「うん、短期間だけどね」
「留学中の毎日って、どんな感じですか? 現地の方々と、コミュニケーションは取れましたか?」
巴菜ちゃんの態度は性急で、高嶺さんを見ているようで、違うところを見ている気がする。少し心配になったけれど、巴菜ちゃんが質問したことは、私も気になっていたことだ。ハムに箸を伸ばした高嶺さんは、快く「楽しかったよ」と答えてくれた。
「文化も暮らしも違うから、戸惑うことも多かったけど、そういう驚きや苦労も含めて、貴重な時間を過ごせたよ。コミュニケーションに関しては、かなりボロボロだったけどね。当たって砕ける度胸とか、失敗を恐れない勇気とか、机に齧りついているだけじゃ学べないことを学べたよ」
――フランス文学を専攻していた高嶺さんでも、言語の壁にぶつかるのだ。私は密かな驚きを胸の奥深くに仕舞ってから、おずおずと質問した。
「あの……フランス語が通じないときって、英語は代わりになりますか?」
「ん? 英語か……」
高嶺さんは、柳眉を初めて少し顰めた。その反応を見ただけで、望む回答が返ってこないことを先に知った。高嶺さんは案の定「難しいね」と私に言った。
「英語は、通じるときもあるけど、そうじゃない場面のほうが多かったな。僕も、拙いフランス語が相手に伝わらなかったときに、苦し紛れに英語を使ったことがあるからね。観光客向けのお店なら、英語で問題なく通じる場所が多いから、日本語しか話せない状態よりは、心強いのは確かだよ。でも、現地で暮らしている人たちとの対話は、英語だと厳しいかもしれないね」
私が相槌を打てないでいると、高嶺さんは優しい表情に戻って「ごめん、怖がらせちゃったね」と言って、申し訳なさそうに微笑んだ。焼き上がったウインナーを紙皿に移した綾木さんも、おっとりとフォローを入れてくれた。
「大丈夫だよ。十人十色という言葉が示すように、僕ら日本人だって、さまざまな考え方を持つ人間が、同じ国で暮らしているよね? 物事の捉え方は、人それぞれ。そう考えたら少しは安心できるし、海外で言葉が通じなかったことで、他者から辛辣な態度を取られても、それを外国の所為にはしないで、気楽に構えていられるはずだよ」
「はい……」
綾木さんの言葉を、しっかりと記憶に刻み込む。勧められたジャガイモのホイル焼きを食べるうちに、バターの豊かな風味と熱さが、喉に閊えた焦りを溶かしてくれた。
そこからは、高嶺さんのフランス留学時代の話を、巴菜ちゃんが訊き出していく流れになった。フランスの朝食は甘いものが多いとか、ガラスの天井を持つ細い通路に昔ながらの商店が連なったパッサージュと呼ばれる場所が素敵だとか、パリで食べたとびきり美味しい苺のアイスクリームとか、高嶺さんと同じ留学を経験した綾木さんも会話に加わって、異国の思い出話に花が咲いた。
やがてバーベキューコンロからお肉と野菜が消えた頃、ようやく薄雲が晴れた空は、水色と茜色のグラデーションを描いていた。アリスが「デザートにしましょ!」と陽気に言って、自宅から庭に運んだトレイを見て、私と巴菜ちゃんは歓声を上げた。
「クレームブリュレですか? すごく綺麗」
「そうよ、ミオ。クレームブリュレも、フランス語だって知ってた? 意味は『焦がしたクリーム』で、フランス語が堪能なヤスヒコとアマネにぴったりなデザートね。アマネも一緒に作ってくれたのよ」
「高嶺さんが?」
「留学時代に、向こうの友人に教わったんです。他にも、トゥルトーフロマジェっていうフランス西部の伝統菓子で、上半分を真っ黒に焦がしたチーズケーキとか、日本人にも身近な例なら、ガトーショコラとかもね。現地の人たちの味には敵わないけど、教えてもらえてよかったよ」
――また、フランス語なのだ。白いカップに収まった手作りのプリンは、洒落た名前が示す通りに、表面をバーナーで焦がしているのだろう。薄氷のように繊細なキャラメリゼは飴色で、赤みを帯び始めた日差しを宝石みたいに跳ね返した。
スプーンで飴色をこつんと叩くと、硬質の冷たい音がした。力をほんの少し加えるだけで、砂糖の薄氷はパキンと割れて、キャラメリゼが隠した卵色と、星屑みたいに散りばめられたバニラビーンズの黒が顔を出す。リビングの甘い香りの正体は、高嶺さんの思い出の味だったのだ。一口食べると、焦がした砂糖のシャリシャリした食感と、プリンの滑らかな舌触りが、外国語が齎した小さな胸騒ぎを薄めてくれた。心の整理ができた私は、隣のガーデンチェアに腰かけたアリスに頼んでみた。
「アリス。このクレームブリュレ、あとで作り方を教えてもらえますか?」
「もちろんよ。アマネのレシピがあるから、ミオの分も用意するわ。表面の砂糖を焦がすときに、バーナーを使うのが怖かったら、ケイに手伝ってもらったら?」
「それは……彗ならできると思うけど、私もできるようになりたいです」
首を横に振った私は、アリスに笑みを返した。
「彗の手は、絵を描くための、大切な手だから」
アリスは青色の目を見開くと、とびきり楽しそうな笑顔で、私をぎゅっと抱きしめた。
「うふふ、可愛いわね!」
「アリス、苦しい」
「ああ、でも本当に残念ね。今日は、ケイも来られたらよかったのにね」
「はい。彗も、残念がっていました」
今日のバーベキューは、アリスと綾木さんに高嶺さんを交えた三人の予定だったに違いなくて、外国に所縁のあるメンバーなら、同じく外国に関心を向けているうえに画家として活動している相沢彗に、強い興味を持ったはずだ。彗だってこの場にいたら、きっと綾木さんと高嶺さんから、留学の話を熱心に訊き出していただろう。
焦がした砂糖みたいにほろ苦くて甘い気持ちに浸っていると、アリスの隣に座った綾木さんが、私を振り向いて「倉田さんの彼は、絵のお仕事をされているんだよね」とおもむろに言った。私よりも先にアリスが「そうよ!」と自慢げに答えると、立て板に水のごとく説明した。
「大学の経済学部に通いながら描いた絵が、日本の油彩画の巨匠・秋口柳生に見初められて、めきめきと頭角を現した希代の画家! これからさらに有名になるでしょうね」
「アリス、そんなに彗のことに詳しかったんですね」
秋口先生のフルネームまで知っていることに、私は驚嘆した。確かに画壇で名を轟かせた巨匠だけれど、絵画の世界に関心がなければ、知らない人も多いだろう。アリスは胸を張ると「ケイの絵を見たことだってあるのよ。ねえ、ヤスヒコ?」と楽しげに言って、綾木さんに水を向けた。
「え? ああ、ということは、そうか。彼が……」
綾木さんは、丸い目を眼鏡の奥で瞬いた。得心した様子で頷いているので、私は不思議に思ったけれど、そのとき高嶺さんが「僕も、ぜひお会いしたかったな」と言ってくれて、さらに巴菜ちゃんが「澪ちゃんの彼氏さんって、すごい人なんですよ」と同調したから、質問の機会を逸してしまった。茜色の空から灰色の雲は消えたのに、なんだか無理をしているような巴菜ちゃんの笑みは、まだ曇り空のままだった。
「ほんと、澪ちゃんの彼氏さんみたいに、勉強熱心で、一途で、きちんとしてるところ……あいつにも、見習ってほしいよね」
――星加くん。昨日の告白を思い出した私は、デザートを食べる手を止めた。あんな別れ方をしたけれど、告白のお返事は伝えられた。これからゼミ仲間の一人に戻れるように、仲直りができたらいいけれど、どんな顔で会えばいいのだろう。渦を巻く思考に囚われていると、アリスがにやりと巴菜ちゃんに笑いかけた。
「ハナ。その話、もっと詳しく聞かせてよ」
「あっ……いえ、今のなし! なしでお願いします!」
「ふふ、はいはい。なんだか分かるわ、ハナの気持ち」
「あたしの気持ち?」
「ええ。あなたの気持ち」
丁寧に答えたアリスは、遠い目をした。
「新しい友達とか、恋人とか。大好きになった人のことって、親しい間柄の人に、たくさん話したくなっちゃうわよね」
情感のこもった言葉が、心の琴線に触れたとき――昨夜の星加くんの台詞が、一つの疑惑を生み出した。
――『知ってるよ。倉田さんには、二年付き合ってる彼氏がいるって。相手は、別の大学に通いながら、画家をやってるってことも聞いてる。それに、そいつは倉田さんに、はっきりと告白したわけじゃないことも』
星加くんの言葉はハキハキしていて、絶対の自信に裏打ちされた声だった。私は、硬い動きで首を動かした。私の真向かい、高嶺さんの隣の席で、巴菜ちゃんはアリスに照れ笑いを返している。まさか、信じたくない、だけど。
――『好きだって伝えないくせに、倉田さんのことを大事にしてるって言えるのかよ』
他人に言いふらされて困ることは、友達にだって話していない。だから、秘密にしていたわけじゃない。星加くんに知られても、本来なら構わないはずだった。
でも、まさか――全て筒抜けになっていたなんて、思わない。訊かれるままに答えた言葉が、彗を非難する材料にされると分かっていたら、私は絶対に言わなかった。
――もしかして、巴菜ちゃんなの?
大学三年生になってから友達になった同級生を、高嶺さんと談笑している女の子を、私は自分でも青ざめていると分かる顔で見つめ続けた。
――私と彗の関係を、星加くんに詳しく話したのは、巴菜ちゃんなの?




