3-10 初めての飲み会
先輩たちに連れていかれた居酒屋は、ダークブラウンを基調とした内装の広いお店で、十九時の時点で盛況だった。スーツ姿のサラリーマンよりも、私たちみたいな大学生のほうが多いようだ。客層の若さが料金の安さに直結しているような空間で、金曜日の酔客たちの悲喜こもごもを乗せた声と、次々と配膳される揚げ物や炒め物の油の匂いが、熱々のスクランブルエッグみたいにかき混ぜられて、独特の喧騒を形作っている。
三年生と四年生の七人で集まった私たちは、奥まった席に通された。窓からも厨房からも離れた席は、橙色の照明もくすんでいて、他の席よりも酸素が薄い気がした。
笹山ゼミの学生は、全員で十五人いる。飲み会を欠席した八人は、予定が合わなかったわけではなく、今までの私のように参加を断ってきたメンバーなのだということを、私はここに来る途中で知らされた。
「倉田さん、何を食べたい? 好きなものを頼んでいいよ」
四年生の男の先輩が、私の右隣で訊いてきた。左隣から私にメニューを差し出す先輩も、あんまり話したことがない男の人だ。数少ない女子生徒仲間の上級生は、私から離れた席で星加くんとしきりに話し込んでいる。私が待ち合わせ場所に着いたときから、あの二人は楽しげに雑談を交わしていた。
――『フーロン・デリ』からの帰り道を一緒に歩いた日の夜から、私は星加くんと話していない。それでも、飲み会では同じ三年生同士、近くの席に座ると思っていた。けれど、いざ席に通されたとたんに、最初から席順の取り決めが秘密裏になされていたみたいな素早さで、星加くんから離された席で、私の両側は固められてしまった。
「私、あんまりこういう所に来ないので、皆さんにお任せします」
気が引けたけれど、私は先輩の申し出を固辞した。お言葉に甘えるべきなのかもしれないけれど、私が選ぶまで他の人は何も選べない空気がなぜか作り上げられていて、この居心地の悪さに対処しないと、何かに負けてしまう気がした。
左隣の先輩は面白くなさそうな顔をしたけれど、右隣の先輩はへらっと笑って「じゃあ、食べたいものある人、どんどん注文していってー」と仕切り直してくれたから、私は太腿に置いた両手に力がこもっていたことにようやく気づけた。
――今朝、私は久しぶりに寝坊をした。一限目に講義はないから遅刻したわけではないけれど、この日までの勉強の復習で夜更かしをした所為だと思う。それに、学食で巴菜ちゃんと絢女先輩が出会った日のことも気掛かりだった。
結果、いつもの起床時刻に起きられなくて、彗からの電話で目を覚ました。そのときに私が今日の予定を報告すると、彗は意外そうな声で言った。
――『ゼミ仲間と夕食? うん、分かった。あんまり遅くならないようにね』
いつも通りの声音の中に、私を案じている響きを感じ取れたから、私は勇気をもらえたけれど――寝坊が原因で身支度を急いだ所為で、クローゼットの前で衣服をちゃんと吟味しないまま、絢女先輩が選んでくれたお気に入りのワンピースに袖を通した瞬間から、散々な会合になることは決定づけられていたのかもしれなかった。
「乾杯!」
右隣の先輩が音頭を取ると、みんながビールやハイボールのジョッキを掲げるなか、私は烏龍茶のグラスで乾杯に応じた。私たちの席から生まれた喧騒が、店内の熱気の一部になる。四年生の男の先輩が、左右から代わる代わる声を掛けてきた。最初はゼミの課題の話題を振られたけれど、勉強の話は早々に見切りをつけられて「趣味は?」とか「どこに住んでるの?」とか、私を構築している情報のピースを、少しずつ奪っていく質問に変わっていった。私はなんとか答えようとしたけれど、次第に途方に暮れてしまった。もしも全てを正直に教えたなら、私はきっと、何も残らなくなってしまう。
「倉田さんって、可愛いよね」
「ありがとうございます」
絢女先輩のように受け流したいのに、答えた声は自分でも分かるくらいに硬かった。右隣の先輩が、喉の奥を鳴らすみたいな笑い方をした。なんだか急に怖くなって、ワンピースを握る両手の力が強くなる。私は、どうしてこんなに弱いのだろう?
「倉田さん、なんで今まで飲み会には顔を出さなかったの?」
「勉強で忙しかったからです」
ゼミに入ったばかりの頃、私は英会話教室にも通い始めて、新たなルーティンを定めていくことに必死だった。ゼミ仲間には不義理を働いたと受け取られても、参加は難しかったと思う。そう釈明したいのに、私が言葉を尽くす前に、次の言葉が飛んでくる。
「全然来てくれなかったからさぁ、俺たち寂しかったんだけど?」
――寂しいって、なんだろう? ゼミでも、必要以上の会話はなかったのに。
「勉強なら、俺たちが教えるよ? なあ?」
――教えるって、何を? 互いが履修している講義を、私たちは知らないのに。
「これからは、もっと参加してよ。俺たちが嬉しいからさあ」
――俺たちが、嬉しいから? 私の気持ちは、どこにあるの?
恐怖心が、すとんと消えた。この場所では、他人の気持ちなんて誰も尊重しない。私の気持ちは、私が守らないといけないのだ。そんな当たり前のことを、どうして忘れていたのだろう。みんなが言うように、私は疲れていたのだろうか。
「澪ちゃん、全然食べてないじゃん。あ、もしかして緊張してる?」
二人の呼び方が、急に『倉田さん』から『澪ちゃん』に変わった。お通しの枝豆は、味が全然しなかった。短い食事を終えた私の中で、決意が固まり始めていた。
――帰ろう。この店を一人で出ることで、今後はゼミで居づらい思いをするかもしれない。それでも、ゼミでチームワークが必要なときは、互いに個人的な感情を排して団結できると信じたい。意を決して「あの」と言いかけたときだった。
「澪ちゃん、なんで酒を飲まないの? 遠慮してないで飲もうよ」
ビールジョッキが、いきなり目の前に突き出された。泡のクリームがたっぷり乗ったオレンジ色から、私は反射的に身を引いた。椅子が床と擦れた音は、みんなの喋り声に潰されて、私の耳にも届かない。予想もしない展開に意識がついていけなくて、掠れた声しか出なかった。
「私……まだ飲んだことがないから」
「へえ? じゃあ、ちょうどいいじゃん。いま飲もうよ」
「でも」
お酒を初めて飲むときは、実家に帰省したときか、あるいは――彗と二人がいい。自分がお酒に強いか弱いかどうかも分からないのに、自宅のアパートから数駅も離れた居酒屋で、しかもよく知らない人たちの前では飲めなかった。
「ごめんなさい。飲めません。それに、今日は飲まないって、事前に言って……」
「いいじゃん、ちょっとくらい。一口、一口だけ」
「本当に、飲みたくないんです。……嫌っ、やめて!」
唇にジョッキが近づいてきて、抵抗した私は先輩の腕を押し戻した。大きく波打ったビールが白い泡の堰を切って、私のワンピースの襟からお腹にかけて濡らしていく。
愕然として、瞼が震えた。絢女先輩が選んでくれたワンピースを袈裟切りにしたお酒の染みから、アルコールの匂いが立ち上る。さっきまで私を囃し立てていた二人の男の先輩は、親に叱られた子どもみたいな顔で黙り込んだ。
そのとき、「おい、やめろよ。倉田さん、嫌がってるだろ!」と声がして、濃紺のシャツを着た男の子が、私たちの席に割り込んだ。トパーズ色の髪が、店内の照明を流れ星みたいに跳ね返す。先輩に掴みかかった同級生を、私は茫然と呼んだ。
「星加くん」
いつの間にかそばにいた星加くんは、すごい剣幕で先輩たちを睨んでいた。先輩は星加くんの手を振りほどいて「えっ、何? ただの冗談じゃん。俺たちが悪いの?」なんて負け惜しみみたいな震え声で言ったから、星加くんが文句を言おうとしたけれど、私は「星加くん」と呼んで立ち上がった。私のことは、私が言うべきだ。
「先輩たちにとっては冗談でも、私は、本気で嫌でした」
静まり返った宴席で、ゼミ仲間たちは顔色を失っていた。やっぱり私は、ここに来るべきではなかったのだ。同じ決断を下した先輩たちだっているのだから、誰と一緒に、どんな時間を過ごすのか、もっと自分の選択に自信を持てばよかったのだ。
「困ります。もう二度と、お酒を強要しないでください」
言い終えた瞬間に、星加くんに腕を引かれた。「行こう」と低い声で言った星加くんは、空いた方の手に二人分の鞄を持っていて、私は少し迷ったけれど、参加費はすでに先輩たちに徴収されているから、おとなしく星加くんに従った。
他の先輩や同級生たちが、気まずそうに私たちを呼び止めたけれど、私は振り返って頭を下げただけで、星加くんは振り向きもしなかった。