3-7 おやすみ
店長と話し込んでいた絢女先輩より一足先に『フーロン・デリ』を出ると、海を臨む自然公園の街灯の下に、ゼミ仲間の顔を見つけて驚いた。
「星加くん?」
さっき見送ったばかりの男の子は、私を振り返ると片手を上げて、街灯が作る丸い光の輪の中から歩いてきた。生暖かい夜風が、トパーズ色の髪を海の方角へ靡かせる。彼方の漁船の光を頬の輪郭に纏う星加くんは、爽やかな笑顔を私に向けた。
「もう閉店だったから、待ってたんだ。途中まで、一緒に帰らない?」
「う、うん」
絢女先輩が変なことを言うから、少しぎくしゃくした返事になってしまった。肩を並べて歩き出すと、星加くんは小柄なほうとはいえ私よりも肩の位置がだいぶ高くて、可愛いという言葉よりも、格好いいという言葉のほうが似合っている。つい目線を煉瓦タイルに落とした私が、プリントシャツとショートパンツ姿の自分の影ばかりを見つめていると、星加くんが自然な声音で訊いてきた。
「倉田さんは、バイトはいつもこの時間まで?」
「いつもじゃないよ。夜の九時までのときもあるし、土日は明るい時間にシフトを組んでもらってるから、今日みたいに閉店までいるときのほうが珍しいかも」
「そっか。じゃあ、俺ってラッキーだったな。倉田さんがいるときに、お店に行けて」
顔を上げた私に、星加くんは屈託なく笑った。強張った気持ちをほどく笑みは、ほんの少しだけ余所行きで、幼馴染の巴菜ちゃんに向けるような気安さは鳴りを潜めていた。他人行儀な笑い方が、かえって私を安心させた。やっぱり、絢女先輩の思い過ごしだ。星加くんが、私を好きなわけがない。
「でも、あんまり帰りが遅いと危なくない? 俺や巴菜みたいな実家暮らしと違って、倉田さんは一人暮らしじゃん」
「心配してくれてありがとう。気をつけるね。でも、巴菜ちゃんのほうが私よりも遅くまで働いてるから心配かな。居酒屋さんのバイト、トラブルも多いみたいだし」
「あー、あいつは接客に向いてるけど、喧嘩っ早いところもあるからな。そのくせ泣き虫だし、すげえガキで、危なっかしいっていうか。こないだも、今から愚痴を聞けって呼び立てるし……」
巴菜ちゃんの話題になったとたんに、星加くんは渋い表情になった。言葉は悪ぶっていても饒舌で、声音も軽やかだったから、私は普段のように楽しく耳を傾けていたけれど、自然公園を道なりに歩く途中で、はっとした。この場所は、絢女先輩がかつての恋人とデートしていた場所だ。今だって、海に面して等間隔に置かれた白いベンチや、遠くに見える円形の噴水の周囲は、カップルたちで埋まっている。
周りの恋人たちの目には、私と星加くんはどんなふうに映るのだろう。清涼な潮風にバニラエッセンスを染み込ませたような夜のデートスポットに、私は今すぐ巴菜ちゃんを呼びたくなった。そうすれば、幼馴染の二人が交わす星屑みたいに明るい言葉の応酬が、噎せ返りそうなほど甘い息苦しさをはねのけて、正しい呼吸を取り戻せる気がした。
「倉田さん、大丈夫? 疲れてない?」
星加くんが、ふと心配そうに言った。今の私は、そんなに無理をしているように見えるのだろうか。ちゃんと返事をしたいのに、なぜか今までのように答えることはできなくて、「うん、大丈夫」とだけ声を絞り出すと、残りの体力で空元気の笑みを作った。住宅街方面に続く坂道の入り口にたどり着くと、私は足を止めた。
「星加くん。私は、こっちの道だから」
「え?」
星加くんは、少し驚いたみたいだった。私も意表を衝かれて「どうしたの?」と訊いてみると、「いや、えっと」と歯切れの悪い声が返ってくる。
「倉田さんの家って、大学の近くだって言ってなかったっけ? そっちは、大学からだいぶ遠くなるけど」
「うん、そうなんだけど、今日は寄る所があるから」
「そっか。送っていこうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
「あのさ、倉田さん。今週の金曜の夜、空いてる?」
星加くんが、改まった口調で言った。私が「え?」と訊き返すと、星加くんはさっき通り過ぎたばかりの噴水のほうへ目を逸らして、普段通りの口調で言った。
「笹山ゼミのメンバーで飲み会があるんだ。倉田さんって、あんまりこういう集まりに参加しないだろ? 一回くらい顔を出してくれるように頼んでこいって、先輩がうるさくてさ。もちろん、忙しかったら断ってくれていいんだけど」
「飲み会……」
私は、困惑を顔に出してしまったと思う。その日は大学の講義があるだけで、他に予定はないけれど、自宅でおかずの作り置きをしたいし、勉強のおさらいも必要だ。その翌日の土曜日には、アリスの家でバーベキューをする予定もある。
それに、何より――飲み会というアルコールが絡んだ社交の場に、抵抗を感じた。気心の知れた絢女先輩からの誘いなら、気兼ねなく自分の考えを伝えられたのに、その絢女先輩から受けた指摘が、とっさの判断を鈍らせた。私は、個人的な忙しさを言い訳にして、ゼミの交流をおざなりにしてきたのだろうか。私がゼミのメンバーにプライベートな時間を割かなかったことは、紛れもない事実だ。
一回だけなら――行くべきなのだろうか。店長が持たせてくれた『フーロン・デリ』のレジ袋をぎゅっと握った私は、まだ余所見をしている星加くんに返事をした。
「お酒は飲まないし、遅くまでは付き合えないけど、それでもいいなら」
「ほんとに? やった」
ぱっと振り向いた星加くんは、幼い子どもみたいに笑った。無邪気に喜びを表現してくれたのに、私はどんな顔をすればいいのか分からなかった。遠い昔に母が観ていたドラマで、出会い頭にぶつかった男女が抱えた紙袋から、坂道を転がり落ちていったオレンジを、なすすべもなく見送ってしまったような気分だった。
「それじゃ、帰りは気をつけて。おやすみ」
手を振って微笑んだ星加くんに、私はおやすみと返せなかった。一日を終える言葉を、彗ではない男の子に言われたのは初めてだった。トパーズ色の髪の艶めきを流れ星みたいに夜風に遊ばせた星加くんは、街の灯りがキラキラと瞬く駅舎の方角へ歩いていく。
私がどこに寄ろうとしているのか、星加くんは訊かなかった。詮索されなかったことに安堵したけれど、「彼氏と夕食を取るから」と言えばよかったと遅れて気づいた。でも、わざわざ申告するのも自意識過剰な態度に思えて、胸の奥がギシギシした。