3-6 星加くん
星加大祐くんとは、大学のゼミで知り合った。正確には、巴菜ちゃんがきっかけで知り合ったというべきかもしれない。
――『澪ちゃん、どこのゼミに入るか決めた? 大祐が希望してる笹山先生のゼミなら、澪ちゃんも興味あるんじゃない?』
巴菜ちゃんが会話の中でたびたび名前を挙げる男の子は、同じ文学部の学生でも隣のクラスの生徒なので、そのときの私はまだ会ったことがなかった。面接をパスした学生たちの顔合わせで、初めて名前と顔が一致した。
巴菜ちゃんの茶髪がミルク多めの紅茶色なら、星加くんの茶髪は夕日を受けた稲穂のようなトパーズ色で、雰囲気は少し軟派だった。ゆったりとしたトップスとワイドパンツが似合っていて、ラフな服装を好むところは彗に似ていたけれど、色彩のセンスは絢女先輩寄りで、黒い腕時計の文字盤のビビッドイエローが目を引いた。
――『倉田さんだよな? 巴菜から聞いてるよ。俺は、星加大祐。よろしく』
三年生の生徒だけで雑談を交わしたとき、星加くんは人懐っこい笑顔で私に挨拶した。つり目なところは垂れ目の巴菜ちゃんと対照的でも、笑ったときの太陽みたいな明るさはそっくりだから、『巴菜のやつは、幼稚園も学校も今まで同じだった腐れ縁』と聞いて納得した。二人とも、相手のことをちょっと乱暴に言うところもよく似ている。このゼミを選んだ理由は『笹山ゼミが一番楽だって、先輩が言ってたから』なんて嘯いていたけれど、ゼミの課題の討論では、誰よりも着眼点の鋭さが光っていた。
――『倉田さんが、このゼミを選んだ理由を教えてよ。巴菜に勧められたから?』
ゼミの課題を終えた帰り際に、星加くんに何気ない口調で訊かれたことがある。私は返答を躊躇ったけれど、英語ではなく日本語なら、後にアリス・ベネットに同じ答えを伝えたときよりも、自分の考えを自由自在に表現できた。
――『勉強が好きだから。日本近代文学が、海外とどんなふうに繋がっているのか、歴史とか文化の関係性を分析して研究するゼミに、すごく興味を持ったから』
日本文学を扱うゼミは他にもあったけれど、海外との繋がりに焦点を当てたゼミは、巴菜ちゃんが教えてくれた笹山ゼミだけだ。シンデレラが履いたガラスの靴みたいにぴたっとはまった研究テーマに、私の勉強を後押しされたような奇縁を感じていた。
星加くんは、呆気に取られた顔をしていた。勉強が好きだなんて答えたから、つまらない女の子だと思われたのかもしれない。あるいは、かつての彗が周囲から言われたように、気取っていると受け取られたのだろうか。でも、他に言いようもなかった私は、『またね』とだけ言って会話を切り上げると、星加くんを教室に残して先に帰った。
それからも、週に一度ゼミで関わる星加くんとは、たまに大学の休み時間にばったり会った。そういうときは、私と一緒にいる巴菜ちゃんと夫婦漫才みたいな罵り合いをしていたから、なんだかんだで仲がいい二人の会話を、私は楽しく聞いていた。
――『巴菜、また倉田さんにノート見せてもらってるのかよ。いい加減に一夜漬けでテストを受けるのはやめろよな』
――『何よ、大祐だって似たようなものでしょ! 古典文学の講義のレジュメ、仕上がりが一夜漬けクオリティでボロボロだったじゃない!』
――『いつの話をしてんだよ! 一年生のときの話なんか持ち出すな!』
――『同じ班のあたしも責任を問われたんだから、文句を言って当然でしょー!』
――『巴菜だって「これでいける」って言っただろうが! お前の確認不足だろ!』
――『知りませんー、忘れましたー。大祐くんが言いがかりをつけてきますー』
打てば響くような言葉の応酬はリズミカルで、笑顔を弾けさせた巴菜ちゃんを見ながら、気が置けない間柄の幼馴染っていいな、と私は思った。
そんな星加くんと、大学以外の場所で、しかも巴菜ちゃん抜きで顔を合わせるなんて初めてだ。『フーロン・デリ』のお惣菜のブースを挟んで私の前まで来た星加くんは、八重歯を覗かせて笑った。くすんだブルーのトップスに袖を通した涼やかな佇まいは、今日のゼミで会ったときと同じ格好だ。
「巴菜から聞かされてたんだ。倉田さんのバイト先が、自然公園の近くのお総菜屋だって。中華料理だとは思わなかったけど、ちょうど通りかかったから探してみた」
「わざわざ来てくれたの? 遅い時間なのに、ありがとう」
「ん、明日の朝ごはんにちょうどいいし。大学の友達と話し込んでたら、こんな時間になっただけだから。むしろ、閉店ぎりぎりに来てすみません」
最後の台詞は、絢女先輩に向けられていた。茶髪の頭を律儀に下げた星加くんに、絢女先輩は会釈で応えていた。含みのある笑みが気になるけれど、星加くんが「じゃあ、生春巻きを一つと、エビチリの残りと、青椒肉絲を二百グラムで」と注文したので、私は「はい」と答えてトングを握った。私も彗と昨夜食べた青椒肉絲も、このオーダーで売り切れだ。
「星加くんが話し込んでた大学の友達って、巴菜ちゃん?」
「なんで巴菜? ゼミのやつらだよ。あいつは関係ないって」
少し焦った顔をした星加くんは、きっと辟易した口調をわざと作っている。昨日の巴菜ちゃんとシンクロした反応が、幼馴染らしくて微笑ましい。私は小さく笑ってから、気を取り直して接客に集中することにした。お惣菜をプラスチック容器に移して量りに載せる間、くすぐったい沈黙が店内に降りた。巴菜ちゃんが来たときにも感じたけれど、働いている自分の姿を友達に見られていると、お腹の底がふわふわして落ち着かない。絢女先輩に会計を済ませてもらった星加くんは、私から蓮の花のロゴが入ったレジ袋を受け取ると、口角を少し上げてはにかんだ。
「ありがとう。それじゃ、またゼミで」
「うん。またね」
私は手を振ってから、『フーロン・デリ』の店員として「ありがとうございました」と礼を言って、星加くんを送り出した。星加くんは、私にもう一度笑いかけると、お惣菜の袋を持って帰っていった。ドアが鳴らしたベルの残響が消える頃、絢女先輩が興味津々の顔で、私に一歩近づいた。
「あの子が、お団子頭の彼女の『幼馴染』なんだ? 可愛い男子ね」
「可愛い、ですか?」
私は、きょとんとした。確かに星加くんには巴菜ちゃんに似て小型犬を彷彿とさせる人懐っこさがあったから、可愛いと言われても違和感はないけれど、細身でも私よりは背が高いし、身体つきだって年相応にがっしりしている。可愛いという言葉はしっくりこない。シベリアンハスキーやゴールデンレトリバーみたいな可愛さなら想像できたので、私なりに無理やり納得していると、絢女先輩もなぜかきょとんとした。
「だって、あからさまに澪ちゃんに気があるんだもの。そういう気持ちを全然隠せてない初々しさが、なんだか真っ直ぐで可愛いじゃない」
「え?」
「ちょっと、気づいてないの?」
絢女先輩の爆弾発言は、私から数秒のあいだ思考力を奪った。閉店を知らせるチャイムが店内に流れて我に返り、「そんなこと、ないと思います」と私は言い返した。
「星加くんは……巴菜ちゃんの幼馴染だし、私のことは同じゼミの友達としか思ってないはずです。今日来てくれたのだって、通りかかっただけって言ってましたし……」
「それを額面通りに受け取っちゃうんだ? 澪ちゃんの純粋なところは好きだけど、鈍感も行き過ぎると嫌味になることは、覚えておいたほうがいいんじゃない?」
「そんな、本当に星加くんは、私よりも巴菜ちゃんと話してるときのほうが生き生きしてるのに……好きな人がいるとしたら、相手は巴菜ちゃんだと思います」
「ふうん? 面白いことになってきたじゃない」
「全然、面白くありません」
私がむくれると、絢女先輩は悪びれることなく妖艶な笑みを返してきた。本当に面白がっているのが手に取るように分かったので、やっぱり絢女先輩は意地悪だ。それなのに、嫌いになれないのはなぜだろう。理由を表す言葉を今日も探し出せないのは、表現の枠に囚われない絢女先輩の奔放さに、とっくに魅せられている所為かもしれない。
「澪ちゃんがこんなに疎いなんて、意外だったな。相沢くんって彼氏がいるのにね」
「彼氏……」
彗は、私の彼氏。間違いではないけれど、相沢彗という捉えどころのない人を定義する言葉として、その表現はあまりにも浮いている。だから私はいつも、彗との関係を誰かに訊ねられたとき、一瞬だけ言い淀む。そんな今までの逡巡と煩悶を、絢女先輩はすぐさま見抜いてきた。切れ長の目を珍しく見開いて、怪訝そうに訊いてくる。
「彼氏って言い方に、まだ慣れてないの? 好きとか、付き合おうとか、相沢くんに言われたでしょ? それとも、もしかして澪ちゃんから?」
私は、口ごもった。絢女先輩は、きょとんを通り越して呆れ顔になった。
「嘘でしょ? まさか、何もなし?」
「何もないわけじゃ、ありませんけど……彗は周りに私のことを、彼女だって紹介しますし。私だって……でも」
好きとか、付き合おうとか、他人同士が恋人同士になるための通過儀礼みたいな言葉を、互いに掛け合ったことはなかった。必要だと感じたこともなかったけれど、絢女先輩は嘆息すると、ビターチョコレートみたいなほろ苦さで微笑した。
「俗っぽい言葉は、あなたたちには必要ないのかもね。変人の相沢くんらしいと言えば、らしいけどね。そんな関係に付き合えるのは、澪ちゃんだからでしょうね」
私まで変人のくくりに入れられたのは初めてで、ほんのりと顔が熱くなる。
私たちの関係は、傍から見て少し不思議なのだということを、たぶん初めて自覚した。