3-5 絢女先輩とソワレ
「最近は、とっても元気みたいね」
翌日の夜に『フーロン・デリ』のレジで、そう声を掛けてきた絢女先輩だけは、私の周りの人たちとは見解が異なるようだった。私は「はい」と答えて微笑んだ。
速水絢女先輩は、彗と同じ大学の経済学部に通っていて、彗とは辛い食べ物を好む者同士、つかず離れずの友人関係が続いている。今度は私も交えて三人で食事に行く約束をしているけれど、アルバイトの掛け持ちをしている絢女先輩も、相当に多忙な人なので、共通の休みをなかなか見つけられずにいる。くっきりとしたメイクと、赤い唇の左下にある黒子が色っぽい美女に、私は軽く頭を下げた。
「その節は、ご心配をおかけしました」
アトリエのミモザが開花を控えた二月に、これからのことに思い悩んでいた私を、気に掛けてくれたのは絢女先輩だ。あの頃を振り返ると、少し面映ゆい気持ちになる。
「いいのよ。お互いさまだもの」
あの時期に恋人とさよならした絢女先輩は、つらい別れなんて何もなかったみたいな顔で凛としている。レジの売り上げを確認している左手は、薬指に銀色の輝きなんてなくても美しかった。そんな絢女先輩の強靭さに、私は何度だって憧れる。
「私のことを元気だって言ったのは、絢女先輩だけです。他のみんなは、私が無理をしてるって思ってるみたいで……」
「無理はしてるでしょ? 自分に足りないものを補おうとすれば、摩擦があるのは当然よ。でも、頑張りたいときの勢いって大事だもの。私は、澪ちゃんを応援したいな。顔色は悪くないし、むしろ生き生きしてるもの」
「絢女先輩は、大学の英会話の講義、彗と同じクラスなんですよね?」
「ええ。相沢くんは英語ペラペラよ。本人に訊いてみたけど、元から英語が得意だったそうよ。英検の一級に受かったのは、高校一年生のときみたいだし」
「私も、そう聞いています。絵のお仕事で、外国の方がアトリエに来られたときも、英語で堂々と話していました。私は、まだあんなふうには話せません」
彗は、高校生の頃から夢を追いかけていたのだ。絵画を学ぶために外国に旅立つ将来を、諦めずに描き続けた相沢彗にも、私はこれからも憧れ続けていくのだろう。
けれど、私は彗の背中に追いつきたいわけじゃない。隣を、一緒に歩きたいのだ。
「絢女先輩が応援してくれて、嬉しいです。勉強しないといけないことが山積みで大変ですけど、楽しい気持ちのほうが強いので、頑張れそうです」
「息抜きがしたくなったら、相沢くんと一緒に『soirée』にいらっしゃいよ。友達を連れてきたら、マスターが少し安くしてくれるから」
絢女先輩のもう一つのバイト先である『soirée』は、瀟洒な雰囲気のバーだと聞いている。彗の油彩画みたいにカラフルなカクテルの写真を見せてもらったこともあるので、私は興味を引かれたけれど、今は気持ちだけを受け取って遠慮した。
「絢女先輩が働いている間には行ってみたいですけど、しばらくはやめておきます。私、まだお酒を飲んだことがないんです」
「そうだったの? ごめんね、気にしないで。飲みたくなったときは、いつでも来てね。私も週一の勤務だから、お客さんとして一緒に行くことになりそうだけど」
「そのほうが心強いです」
「あら、連れが相沢くんだけじゃ心許ないの?」
「そうじゃなくて、お酒を飲んでいる彗を、見たことがなくて……バーにいる彗を想像できません」
「確かに、似合わないわね」
絢女先輩は、小さく噴き出すと「そうだ、ゼミはどう? 楽しい?」と話題を変えた。私もレジ袋の補充をしながら「はい」と応じて、壁掛け時計を見上げた。閉店の二十二時まで、あと五分。窓に夜色を湛えたドアは、さっきまで人がひっきりなしに出入りしていたことが嘘みたいに閉じている。今日は、もうお客さんは来ないかもしれない。
「思ったよりも調べものや発表が多くて、最初は大変でした。でも、今はペースを掴めてきて、楽しめるようになってきました。友達のおすすめも参考にして選んだゼミだったので、面接に受かってよかったです」
「面接があるってことは、人気のゼミだったのね。その友達って、こないだ来てくれたお団子頭の女の子? 杏仁豆腐とゴマ団子を買っていった、活発そうな子」
「はい。巴菜ちゃんです。あと、もう一人……巴菜ちゃんの幼馴染の男の子も、そのゼミを知るきっかけで……」
そう言いかけたときだった。カラン、とベルが鳴り響き、本日最後の来客が現れた。
絢女先輩は、大学四年生のお姉さんの顔から、瞬時に営業用スマイルに切り替えて、「いらっしゃいませ」と声を掛けた。私も続こうとしたけれど、そのお客さんが茶髪の男子大学生で、今日もゼミで同じ時間を過ごした顔見知りだったから、「あっ」と思わず声を上げて、普段の倉田澪の顔に戻ってしまった。
「星加くん」