1-2 彗星と澪標
私が彗と出逢ったのは、ありきたりな家庭不和と、奇跡みたいな偶然が交差した、二月の半ばの夜だった。
あと一か月で高校三年生になる私は、大学受験に備えて書店で参考書を買ってから家に帰り、会社から珍しく早めに帰宅した父と、その隣で沈痛な面持ちをした母の二人から、平凡な未来に罅を入れる言葉を聞かされた。
『澪。父さんと母さんは、離婚を考えているんだ』
物心ついた時から、父と母の関係は冷えていた。私という幼い子どもに気を使った団欒は、誰も言葉にはしなかったけれど息苦しくて、どうして自分の家と他所の家が違うのか、当時の私には分からなかった。ただ、父と母にもっと心から笑ってほしくて、ぎこちなく笑う二人の間で、私もぎこちなく笑っていた。だから、昔の家族写真はひどい笑顔ばかりだったし、冷たい空気を温めようとする努力を、私もいつしか忘れていた。両親が離婚を決めたのは、当然の帰結だったのかもしれなかった。
『大学は、諦めてほしい』
永遠に明けない夜のような父の声を、私はどんな顔で聞いただろう。
『父さんと母さん、どちらについてくるか、選んでほしい』
父さんなら、大学に行かせてやれるかもしれない。父がそんな言葉を呑み込んだことを、私はあとで母から聞いた。すすり泣く母の声にも、明けない夜の気配があった。その夜、私は夕飯に手をつけずに、部屋着からパジャマに着替えもしないで、新品の参考書を床に放り出したまま、ベッドに潜り込んで静かに泣いた。
一年後、私はどこに行くのだろう? 将来の夢なんて、何もなかった。それでもいつかは時の流れに急き立てられるように進路を定めて、高校の同級生たちと足並みを揃えるように、月並みな大学生になるのだろう。そう漠然と信じていた。
そんなありふれた未来が、崩れていった。横たえた身体がどこまでも闇に落ちていくような、深い孤独で心が凍えた。置時計が、時を刻む。文字盤が示す時刻は、午前三時四十分。父と母のどちらに背を向けて生きるのか、答えを出さなくてはならない朝が来るのが、怖くて堪らなくなって――家を飛び出した私は、行く当てなんてどこにもないのに、スニーカーで世界そのものを蹴りつけるように走っていた。
月光の青色に沈んだ街は、深い眠りについていて、出歩く人間なんて誰もいない。通学路の桜並木は、梢に蕾をつけていたから、私の胸に焦りが萌した。新しい春は目前で、高校卒業というタイムリミットまで、一年を切ろうとしている。
もう走ることをやめて、ついでに生きることもやめてしまいたい。白い息を吐いた私が、高校の敷地を仕切るフェンスのそばで、両手に膝をついたときだった。
――午前四時を迎えた満月の夜に、青年の穏やかな声が聞こえたのは。
「こんばんは」
顔を上げた私の視界を、蛍の光に似た黄色が過った。道路沿いの歩道の終わり、曲り角の始まりに位置するフェンスのそばに植えられた樹木に、黄色の正体が灯っていた。銀色がかった葉の連なりは、まるで一つ一つが鳥の翼のようで、細い枝が羽ばたく先に、小さくて丸い黄色の集まりが、雛あられのように実っていた。
この樹木の蕾だ。やがて黄色の花が咲く。この通学路の街路樹は、何の手違いか一本だけ、桜の花を咲かせない。印象的なので覚えていた。
そんな仲間外れの木の下に、一人の青年が佇んでいた。
高校生か、大学生だろうか。体格は細身で背が高く、濃紺のダッフルコートが似合っていた。左手には文庫本を持っていて、空っぽの右手は腰の横に下ろしている。私を見つめる眼差しは、今日の月明かりみたいに優しくて、迷子に名前を訊ねるような声が、静謐な夜の空気に染み込んだ。
「こんな夜明け前に、どうしたの?」
「……分からない」
私も、途方に暮れた迷子みたいに答えた。年上かもしれない相手なのに、私は敬語を使わなくて、普段なら考えられない話し方をしたことが、自分でも不思議だった。一睡もしていなかったから、この出逢いを夢のように感じた所為かもしれない。
「帰らないの?」
「帰るよ。でも」
もうすぐ、居場所を失ってしまう。そんな台詞を、私は静かに呑み込んだ。父が、私にそうしたように。青年も沈黙を守ってから、迷子へ手を差し伸べるように囁いた。
「夜が明ける前に、僕は帰るよ。もしよければ、それまでの間だけ、僕と話をしよう」
「話って、どんな?」
「何だっていいんだ。たとえば、この花のこととか」
青年が枝葉を見上げたから、私も倣って梢を見上げた。束ねた豆電球のような黄色の粒が、私の切り揃えた前髪の先で揺れている。風に運ばれる蒲公英の綿毛みたいな柔らかさで、ふわふわと開花している蕾もあった。
「ミモザ、という花だよ」
青年が、優しい声音で教えてくれた。
「私、この花の名前を知らなかった」
「僕もだよ。桜に交じって黄色い花が咲いていたから、気になって調べたんだ」
「どうして、私と話をしようって言ってくれるの?」
「月が綺麗な夜に、泣いている女の子と出会ったから」
歯が浮くような台詞だったけれど、この青年が口にすると、私たちがここで呼吸をしていることと同じくらいに、なんだかとても自然に響いた。
「僕の名前は、彗。彗星のスイの字で、彗」
私に微笑みかけた青年は、フルネームを明かさなかった。欠けた自己紹介を聞いた私は、すとんと腑に落ちていた。こんな時刻にミモザの木の下に現れた彼も、きっと私みたいにどこかから逃げてきたに違いなくて、私たちは未明の孤独に酔っている。分かっていても、今はまだ現実を夢のままにしておきたくて、私も下の名前だけを名乗った。
「私の名前は、澪。澪標の、澪」
彗と名乗った青年は、少しだけ考え込むような顔をした。
「澪標は……河口や港の航路を示す標識だね。国語の授業で習った和歌では、『身を尽くす』という掛詞で用いられる……難しいね、お互いに」
「何の話?」
「名前のことだよ」
このときの彗の言葉は、私の胸を強く打った。
漢字の表記や、意味の複雑さを指摘しただけの、なんてことない台詞かもしれない。それでいて本質的なことを告げられた気がして、現実を受け止めきれなくて打ちひしがれていた私の心の一部分が、微かだけれど救われた。
「私も……彗と、話したい」
この居場所は仮初めで、いつか夜が明けるように夢から覚める日が来ると知っていても、そう答えずにはいられなかった。