3-3 アリス・ベネット
三限目の授業を終えた私は、巴菜ちゃんと大学図書館で自習をしてから、午後四時のレッスンに備えて駅ビルに向かった。七階を目指して上昇するエレベーターからは、カラフルな街並みと、青い海が見渡せた。一時間後に再び眺めるときは、きっとオレンジジュースみたいな夕焼け色に染まり始めているはずだ。
目的のフロアに降り立つと、さっきまで過ごしていた大学とよく似た匂いが、エアコンの冷えた風に乗って、私の長い髪を微かに揺らした。使い込んだ教科書と、本を守るために温度を調整された空気と、そこで学びを追求する人たちの意思と努力が、混然一体となって堆積した匂いだ。ベージュを基調とした空間に観葉植物を配置したカジュアルな雰囲気の受付を通過すると、廊下には個室の扉がずらりと並んでいる。老若男女の生徒たちが、語学力を研鑽している声が聞こえた。指定の個室の前に立った私は、深呼吸で心を整えてから、扉をノックした。
「Excuse me. May I come in?(失礼します。入ってもいいですか?)」
すぐに応答があり、「Yes, please come in(はい、どうぞお入りください)」と促される。個室に入ると、金髪碧眼の女性が椅子から立ち上がり、人懐っこい笑みで私を迎えてくれた。くるんと巻かれた綺麗な髪が、サマーニットの胸元で揺れる。
「Hi Mio(こんにちは、ミオ)」
「Hello Alice(こんにちは、アリス)」
「How was your day?(今日は一日どうだった?)」
ハスキーなソプラノが、私に質問を投げかける。大学の一限目の講義よりもピリリとした緊張感が、私の喉を締めつけた。けれど、覚悟を決めて話し出せば、この壁は必ず乗り越えられることを、私はここで教わった。
――アリス・ベネット先生は、私より六歳年上のアメリカ人で、日本人の旦那さんと入籍したばかりの新婚だ。知り合ってまだ二か月ほどの外国語講師を、私は『アリス』と呼び捨てにしている。気後れせずに大胆なコミュニケーションを取れたのは、英会話教室の体験入学に来たときに、アリスと交わした言葉がきっかけだった。
――『それじゃあ、ミオ。実際のレッスンを軽く体験してもらうわね。――My name is Alice Bennett .(私の名前はアリス・ベネットです)I am a teacher in an English conversation class(私は英会話教室の先生です)』
流暢な日本語が、ぱっと英語に切り替わる。私生活でもオンとオフの切り替えがはっきりしているというアリスの性格を表すような会話の運びに、私はとても戸惑った。けれど、恐怖は感じなかった。アリスが『ミオ』と呼ぶ声には、行きつけの喫茶店で暮らす猫を可愛がるような愛嬌があって、緊張をほぐしてくれたからだろう。おかげで『What's your name?(あなたの名前は?)』と続いた声に、私はなんとか答えられた。
――『My name is Mio Kurata.(私の名前は倉田澪です)I am a third year college student(私は大学三年生です)』
――『What do you like to do in your free time?(時間があるときに何をしますか?)』
すなわち、趣味を問われている。想定していた質問なのに、言葉に詰まった。私の趣味とは、何だろう。考えてきたものはどれも、高校二年生の冬の出逢いの影響で、私の世界を彩ってくれたものばかりだ。読書に、美術館巡りに、料理に、それから。
――『learning. I love learning(勉強です。私は学ぶことが好きです)』
アリスの青い目が、見開かれた。この町の海原みたいに綺麗な瞳に、好奇心の星影がきらきらと泳ぐ。『learning?』と復唱したアリスは、桜色の紅を引いた唇を、楽しそうな笑みの形にきゅっと吊って、さらに深く訊ねてきた。
――『What kind of study do you like?(あなたはどんな勉強が好きですか?)』
――『I like to learn the language(私は言葉を学ぶのが好きです)』
文学部の学生だから。日本語だけでなく、外国語にも興味を持ったから。どうしても、会話力を身に着けたいから――言いたい台詞はたくさんあるのに、言語を必死に翻訳している脳の中枢が、限界を訴え始めたのが分かる。思いのほか続いた会話のラリーに、体力と思考力をすり減らしていたことを実感した。言葉を思うままに操れない歯痒さが、その日の曇り空から降り始めた雨のひとしずくみたいに、私の声に滲んだ。
――『I should have studied harder(もっと勉強しておけばよかった)』
――『You can do it from now on』
意表を衝かれた私に、アリスはとびきりチャーミングに笑いかけた。大胆な会話運びは絢女先輩に近しいものを感じたのに、同い年の女の子みたいな可愛らしさは巴菜ちゃんにも通じる親しみやすさがあって、挫けかけていた私に英会話を続ける勇気を与えてくれた。個室に通されたときから悩んでいたことを、思い切って訊いてみた。
――『What should I call you?(あなたを、どう呼べばいいですか?)』
――『Please call me Alice.(アリスと呼んでね)――ここの先生たちのことは、ファーストネームやニックネームの呼び捨てで大丈夫よ』
言語が日本語に切り替わると、私は露骨にホッとした。先が思いやられたけれど、アリスは慣れているようで、『今の段階でそれだけ喋れたら、上等よ。もっと磨きをかければ、自信を持てるようになるわ』と言って、ニッと楽しげに笑った。
――『ミオは、勉強が好きなのよね? 私の〝アリス〟という名前は、国によってさまざまな呼ばれ方をするって知ってた?』
突然の問いかけに、私は面食らった。首を横に振ると、アリスは説明してくれた。
――『ドイツ語で「高貴」を意味する「adal」という言葉が由来の女性名に「Adelheid」があって、それを古フランス語の形にした名前の短縮形や愛称が、現在〝アリス〟と呼ばれている名前だそうよ。込められた意味は、由緒ある家柄、高潔さ、気高さ、上品、貴族』
異国の知識を受け取った私の脳裏に、未明に咲くミモザの花が過った。午前四時の青い闇の中で、ちょうど今のアリスのように、彗もミモザの花言葉を教えてくれた。私たちの周りに存在するものは、さまざまな過去や意味を持っている。
――『他国にも同じ綴りの名前があって、イタリア語では〝アリーチェ〟と読むし、英語・フランス語圏では、高貴な女性を示す名前の一つよ。ちなみに古フランス語は、フランス北部を中心に九世紀から十四世紀頃に使用されていた言葉で、私の名字の〝Bennett〟も、古フランス語で「祝福された」という意味を持つ言葉「Benedict」が由来なのよ。――どう? 面白いでしょう?』
迷宮のような歴史を名に冠した女性は、見る者の心を掴んでやまない微笑みで、まだどこかで覚悟を決められていなかった私の背中を押したのだった。
――『学習は、国境を越えて、どこまでも突き詰めることができるのよ』
その言葉が、私に英会話の習得を決意させた。決して安くはないレッスン料は、『フーロン・デリ』のアルバイト代の貯金を充てた。ひとまず短期間の三か月コースで申し込んだので、今後続けていくかどうかは、私の英語力次第だ。
「Let’s call it a day(今日はここまでにしましょう)」
アリスの台詞で、私は腕時計が午後五時を示していることに気づいた。礼を言ってから手早く帰り支度を済ませた私を、アリスは微笑ましげに見守っている。
「これからバイト?」
「はい。すみません、いつもバタバタしてしまって」
「構わないわ。それよりも、ちゃんと身体を労わってる?」
「大学の友達にも、同じ心配をされました」
「ああ、前に話してたハナね」
「巴菜ちゃん、アリスと仲良くしたいみたいです」
「あら、本当に? 週末の土曜日に、自宅の庭でバーベキューをするんだけど、ミオもハナを連れていらっしゃいよ! もちろん、手ぶらでいいからね」
「いいんですか?」
「ええ。ぜひ、ケイも連れてきてね。一度会ってみたいもの。大学とバイトで忙しくても、英語を話せるようになりたいって、あなたに一大決心をさせた彼にね」
「だから、私が勉強する理由は、彗だけが理由じゃなくて……」
こんな追及の仕方まで、アリスは巴菜ちゃんに似ているのだ。エアコンが利いているはずなのに、体感温度が上がった気がして、私は「ありがとうございました!」と改めて日本語で言ってから、にこにこしているアリスに見送られて個室を出た。
急いで乗り込んだエレベーターから見下ろした街並みは、眩い陽光を浴びて、オレンジ色に輝いていた。