3-1 モーニングコール
スマホのアラームが、枕元で電子音を響かせる。午前七時三十分。私は、ベッドから起き上がった。
急いでアラームを解除して、一息ついてカーテンを開け放つ。純白の鋭い光が、1Kの薄闇を照らし尽くす。気を抜けばまた閉じそうになる瞼をぐっと開けて、窓も思い切って開けてみた。むっとした七月の風が、切り揃えた前髪を揺らしていく。
色とりどりの屋根が拡がる街の彼方で、入道雲のソフトクリームが、ちょっぴり欲張ってコーンにクリームを多めに載せたみたいに、もくもくと青空の高みを目指している。一階下の植え込みから、蝉がシャワシャワと元気よく鳴いていた。
今日も、暑くなりそうだ。一日の始まりの風を浴びた私は、窓を閉めて鍵を掛けると、パジャマのまま台所に向かい、冷蔵庫からピザトーストの具を取り出した。豚挽肉とみじん切りの玉ねぎ、トマト、ピーマンを炒めて塩胡椒を振ったものを、冷凍してストックするように工夫してから、慌ただしい朝が楽しくなった。色鮮やかな具材を食パンに載せて、チーズを気分に任せてトッピングすれば、朝食の準備は万端だ。トースターがチーズを溶かしている間に、洗顔を済ませた私は、クローゼットの前に立つ。
白いトップスに藤色のロングスカートか、それとも、絢女先輩が選んでくれた水色のワンピースか。少し悩んでから、ワンピースをハンガーから外した。
服を着替えたタイミングで、軽快なメロディがピザトーストの焼き上がりを教えてくれた。カフェオレを急ピッチで用意した私は、ローテーブルに朝食を運んだ。その頃合いを見計らったかのように、窓際でスマホが鳴った。
画面に表示された名前は、一文字だけ。――『彗』だ。私は通話ボタンをタップすると、起き抜けの掠れた声で挨拶した。
「おはよう、彗」
『おはよう、澪』
「また、彗に先を越されちゃった」
『そうだね。今日も、僕のほうが早かった』
電波に乗って届く彗の声は、ほんの少し得意げだ。彗が大学四年生になったばかりの頃は、私がモーニングコールを担当したのに、たった三か月で立場が逆転してしまった。あと五分でも早起きできたらいいのかもしれないけれど、たかが五分、されど五分。しっかり眠っておかないと、私は大学三年生という新しい毎日に挑めない。
『澪。今日はバイトだったよね』
「うん。遅くなるけど、アトリエに行けるよ。行っても平気?」
『もちろん』
彗は、すぐに答えてくれた。『楽しみにしてる』と付け加えてくれたから、私は我ながら弾んでいると分かる声で「うん」と返した。最近知ったことだけれど、私は自分が思っているよりも、ずっと単純な人間だったみたいだ。
『じゃあ、いってらっしゃい。いつもの時間より遅いときは、迎えに行くから』
「うん、ありがとう。彗も、いってらっしゃい」
通話を終えた私は、ピザトーストに齧りついた。焦げたチーズと胡椒の風味と、じっくり炒めた肉と野菜が持つ甘みを、じんわりと幸せな気持ちで噛みしめる。以前にアトリエで彗と食べたときは、画壇の知り合いから頂いたという黒オリーブも輪切りにして加えたから、彩りと味わいがより豊かだったことを思い出した。今度スーパーで買ってみよう、と心のメモ帳に書き込んでから、私は身支度を整えると、勉強道具がぎっしり詰まったリュックを背負って、玄関に急いだ。お気に入りのパンプスを履いて、備え付けの飾り棚を振り返る。鳥籠の形をした写真立てを、ここに先月から飾っていた。
銀色のフレームには、昼下がりのアトリエの庭と、満開の黄色の花を描いたポストカードが収まっている。彗が三月に完成させた油彩画が、ありふれたインクジェット紙に魔法をかけて、おおらかな色彩を吹き込んでいた。
個展で評判が良かった絵画のうち数点が、先日ポストカードになったのだと、私に報告した彗の声には、このミモザが持つパウダリーな甘さのような、ほんのりとした自信と嬉しさが宿っていた。けれど、なんとなくモーニングコールで主導権を握ったときのほうが、より誇らしげに感じたのはなぜだろう。
ともあれ――約束の絵とは異なるけれど、彗の夢が叶う日に、また一歩近づけた気がして、私も嬉しい。自然と笑みが零れたけれど、腕時計を見て少し慌てた私は、一人暮らし三年目のアパートを飛び出した。




