2-8 この気持ちが愛なら
鳥の囀りが、遠くから聞こえる。一度、二度と、私は瞬きを繰り返す。焦点がぼやけた瞳が像を結んだ世界は、眩い純白に輝いて見えた。出窓の飾り格子をたどって見上げた青天からは、砕いた水晶みたいな日差しが降り注ぎ、毛布へ投げ出した腕の上で、金魚が泳ぐ水面みたいにキラキラした。
しばらくの間、私はぼうっと目覚めの輝きを眺めていたけれど、空の青色が早朝のものよりずっと濃いことに気づいて、一気に目が覚めて跳ね起きた。
慌てて、辺りを見回した。枕元に置く習慣にしていたはずのスマホがない。そういえば、昨日は不貞腐れているうちに眠ってしまって、こまごまとした記憶がない。それ以前に、彗に連れられてアパートを出たときに、私はろくに荷物を持たなかった。着替えなどをバッグに詰めている途中で、足りないものは貸すからと彗に押し切られたあのとき、スマホをアパートに置いてきた? さあっと血の気が引いた。今日は『フーロン・デリ』のアルバイトを、昼過ぎから入れていた日のはずだ。
どうしよう。顔が青ざめたのが、自分でも分かる。窓から見上げた太陽の高さが、私に絶望を突きつける。遅刻なんて、初めてだ。いや、まだ間に合うかもしれない。とにかく時間を確認したいのに、なぜか枕元の棚にあったはずの置時計まで見当たらない。イーゼルとキャンバスの周辺にも、備え付けの衣装箪笥の上にも、どこを見回しても時計がない。焦った私が、クッション張りの出窓から、急いで下りようとしたところで――彗に借りたスウェットの裾を思い切り踏んで、転んだ。
眩暈で、世界が文字通り回る。昨夜は夕飯を抜いたのだから、当たり前だ。
「大丈夫?」
ちかちかする視界に、天井からぶら下がる星形のペンダントライトが映る。それから、差し伸べられた大きな手。軽く屈んで、私を見つめる彗の、困ったような笑顔。
「おはよう。澪」
「……おはよう。彗」
手を取っていいのか、迷った。だけど、ここで彗の手を取れなければ、私はこれからどんな未来に続く扉も、自分で閉ざしてしまう気がした。
おそるおそる手を掴むと、彗は私の身体を片手で難なく支えて、毛布が乱れたままのクッションに座らせた。彗の服の裾を握った私は、震える声で訊ねた。
「彗、今は何時? 私……」
きっと酷い顔色をしているに違いない私へ、彗は「大丈夫だよ」と堂々と言った。
「澪はバイトのことを気にしてると思うけど、気にしなくて大丈夫」
「どういうこと? 私、早く行かなきゃ……」
「いいんだ。澪のシフトは、速水さんが昨日のうちに代わってくれたから」
「え……絢女先輩が?」
びっくりした私は、目を瞬いた。しかも、「僕から速水さんにお願いしたんだけど、ごめん。昨夜は言いそびれた」と懺悔されたので、もっと驚いて呆然とした。
「二人で話す時間が欲しかったから、速水さんに協力してもらえないか頼んだら、僕がびっくりするくらいに乗り気だったよ。ああ、速水さんから澪に伝言。『シフトを代わったことは気にしないで』だって」
「でも……」
「こないだはちょっと意地悪な言い方をしたから、その罪滅ぼしだ、って付け足してたよ。僕がどういう意味か訊ねても、澪に言えば分かるからって、教えてもらえなかった。僕が知らない間に、澪は速水さんとずいぶん親しくなっていたんだね」
「……うん。私、絢女先輩に会えてよかった」
私は、俯いて囁いた。絢女先輩は、不安に押し潰されかけていた私に、笑顔しか見せなかった。自分の中の寂しさと折り合いをつけて進んでいける、絢女先輩のようになりたい。今の私は、あまりにも彼女から遠い所にいる。
「まさか彗が、そこまでするなんて思わなかった」
私の予定を勝手にキャンセルするなんて、彗にそんな行動力があったなんて初めて知った。彗は、少しだけ可笑しそうに「僕も、変わったってことかな」と言って、立ち上がった。そのときになって私は、ラフなシャツ姿の彗が身に着けているエプロンが、いつもの絵具まみれのものではなく、料理をするとき用のものだと気づいた。
「まだ作ってる途中だから、少し待ってて」
そう言い置いて、すらりとした長身痩躯はキッチンに向かった。とろ火にかけられたミント色の小鍋から、バターの温かい香りが流れている。甘さを含んだ香ばしさは、玉ねぎとブイヨンの匂いだ。懐かしさを覚えた私は、小鍋の中身を理解した。
「彗……」
「うん?」
振り返った彗は、悪戯っ子みたいな顔をしている。私は、どんな顔をしたらいいのか分からなくなり、「顔を洗ってくる」とぼそりと言って、アトリエを出た。ふらつく足で洗面所にたどり着くと、鏡に映った私は、以前と同じ冴えない顔色をしていたけれど、もう迷子の顔はしていなかった。
道標なら、もう見つけている。たくさんの人たちが、示してくれた。例えば、私に大学生を続けさせてくれた両親が。例えば、私を気遣ってくれた絢女先輩が。例えば、私が昨日、ここで作るはずだったものを、私のために作ってくれた彗が。冷たい水で顔を洗った私は、鏡像の私と見つめ合う。
私は、私が、怖かった。だけど、私は、私から、逃げられない。たとえ彗と離れ離れになるのだとしても、その寂しさと向き合えるのは、私だけだ。私は唇を引き結んで、モロッカンタイルが敷き詰められた洗面所を出て、アトリエに戻った。
そして――鮮やかな黄色に、出迎えられた。
イーゼルの近く、二人掛けのソファの向こう、細長いローテーブルの上に、その色彩はあった。東雲の空に昇る太陽みたいに熟した黄色が、大皿に盛られたほうれん草のソテーに花びらを散らせて、私たちに冬の終わりを知らせている。輪切りのプチトマトの赤色と、焼き目の付いたベーコンの桃色が、深緑と黄色の花畑に華やかなアクセントを添えていた。私は、ぽつりと呟いた。
「ミモザサラダ……」
「ああ、澪も知ってたんだ」
ミモザサラダの隣に、ことんとスープのカップが置かれた。湯気が柔らかく立ち上るスープは黄金色で、仕上げに振られた胡椒の粒が、鶏肉とほうれん草と一緒に揺れている。バターの香りが、ふわんと漂った。
「彗、これ……」
「絵を仕上げてたら、僕も朝ごはんが抜けたから、ブランチにしよう。澪がせっかく作ろうとしてくれたのに、その機会を昨日は台無しにしてごめん。僕も澪への罪滅ぼしのつもりで作ってみたけど、自信がないんだ。チキンスープは初めてだし。食べてみて」
彗に導かれてソファに座った私は、しばらくスープを見つめてから、スプーンを握った。ひと掬い分を唇に当てて流し込むと、小さく切り分けられた鶏肉と玉ねぎの旨味が、スープにぎゅっと溶けていて、昨日の昼から何も食べていなかった身体に染み渡る。温かさが涙腺まで緩めそうになったから、私はすっかり困ってしまった。
彗は、やっぱりずるいと思う。昨日のことで、まだ文句も言えていないのに。
「……私が大学生になってから、初めて彗に作った料理だね」
「うん」
彗も私の隣に座ると、スープを一口飲んで、首を傾げた。「悪くないけど、澪が作ったほうが美味しい」と呟いて、当時を懐かしむように目を細めている。
「あの頃の僕は、まだここに引っ越す前で、左手で絵を描くことが楽しくなって、がむしゃらに打ち込むようになって……自分の生活そっちのけだった」
「え?」
私は、スープのカップを持ったまま彗を見る。彗は苦笑の顔で、覚えたての手品の種を明かすように、白状した。
「実を言うと、澪が家に来るまで、すごくいい加減な生活をしてた。自炊は、簡単なことしかできなかった。出来合いのお惣菜とか、カップ麺とか、ゼリー飲料を買った日はまだいいほうで、絵に夢中で食事を忘れるときもあったんだ」
「うそ。時々、作ってくれるのに? 今だって、こんなに……」
「澪が来たから、このままじゃまずい、って焦って身に着けたんだよ。僕が一人のままだったら、今の僕になれていたか分からない」
その告白は、衝撃的だった。焦るという言葉が、これほど似合わない人もいないだろう。何でも器用にこなしそうな彗にも、苦手なものはあったのだ。彗はサラダを小皿に取り分けると、唖然としている私の前に置いてくれた。
「ミモザサラダ。澪も知っての通り、ゆで卵の白身と黄身を分けてから、それぞれをみじん切りにしたりザルで濾したりしてサラダに振りかけた見た目が、ミモザの花に似ていることから、名前がついた料理だよ」
私は、こくりと頷く。ミモザサラダのことは、以前から知っていた。その花は、私たちにとって特別な花だから。黄身の花びらに隠れた白身は、よく見れば形が不揃いで歪だった。チキンスープだけではなく、このサラダだって彗は初めて作ったに違いなかった。まだまだ痛みと付き合っていかなければならない、右腕を使って。
綺麗なサラダをフォークで一口食べると、塩胡椒で味を調えられたゆで卵と、火を通しても瑞々《みずみず》しさを損なわないサラダが、透明な水みたいに私の渇きを潤していく。色で世界を表現する人が作るものは、人の命を支える料理だって美しい。
「不摂生な毎日を送っていた僕に、澪がスープを作ってくれたとき。食べ物の美しさと、色彩の豊かさを、改めて教わった気分になったんだ。僕は、絵描きなのにね。描く対象に敬意を持とうと、心掛けていたつもりでいたけれど、どこかに驕りと慢心が生まれていたんだと思う。そんな僕が描く世界に、澪は深みを持たせてくれたんだ」
深み――その台詞は、秋口先生の言葉と同じだ。昨年の春に聞いたときには、気持ちがあんなに乱れたのに、彗の言葉は春風みたいに温かくて、私を脅かさなかった。
「……スープは、お母さんがよく作ってくれたんだ」
短期大学への入学が決まり、初めての一人暮らしを始める前に、私は母から自炊を教わった。短い春休みの間に覚えたメニューの中に、このチキンスープはあった。父の好きな料理だったと、今になって思い出す。肉も野菜も摂れる、身体に優しい健康スープだから、時々作ってみてね。そう言って微笑んだ母のスープを、彗のアパートで作ったとき、私は確か緊張していた。別れの日から一年ぶりに再会した彗が、少し痩せていて心配になったからだ。それに、誰かに食事を振る舞うなんて、初めてのことだったから。
「そっか。それなら、澪のほうが美味しく作れて当然だ」
相好を崩した彗は、あの日の絢女先輩みたいに、あどけない笑い方をした。午前四時に、私と記号みたいなやり取りを交わしていた人は、こんな笑い方もできるのだ。止まっていた時間が、動き出していくように感じた。昼下がりの眩さが、アトリエをいっそう白く染めていく。彼方の空を行く鳥の影が、室内をさっと過っていった。
「澪。本当は、明日の夜中に話したかったんだけど、やっぱり今、伝えたいことがあるんだ」
おもむろに、彗が言った。珍しいことに、しかつめらしい顔をしている。
「一緒に来てほしいって、言おうと思ってたんだ」
「来てほしいって……留学に? 海外に?」
「うん。離れたくないから」
私はびっくりして、平然と話す彗を凝視した。
「どうして? だって私は、モデルにだってなれてない」
「モデルであるか否かは、一緒にいたいと思う理由とは、特に関係ないと思うけど」
「それは……」
珍しく理詰めで論破されて、私は口ごもる。彗は、少しだけ逡巡するような顔をして、スープを一口飲んでから言った。
「本で知ったんだけど、画家とモデルって、恋愛関係に発展しやすいそうだよ。二人で長い時間を同じ空間で過ごすことが、画家とモデルという二人の関係性を、徐々に変えていくらしい」
「どうして今、そんな話をするの」
もう我慢できなかった。私が彗を睨みつけると、彗は驚いた顔をした。まさかと思ったら、そのまさかだった。私が小声で「彗は、昨日のあの人のことを言っているの?」とモデル事件のことを追及すると、顔に浮かぶ驚きの色が深まった。私がそれを気にするということを、初めて知ったような顔だった。もはや呆れて声も出ない。
「いや、昨日のモデルの話じゃなくて、僕は自分の将来の話をしてたんだけど……見てもらったほうが早いかな」
彗は立ち上がると、イーゼルの向こうに置かれた画材ケースの前で屈み、中からスケッチブックを取り出した。ソファに戻ってきた彗が、それを私に差し出してくる。
ここには、あのモデルの女性が描かれているに違いない。私は小さな覚悟を決めてからスケッチブックを受け取ると、躊躇いながらページを開いた。
最初のほうのページは、このアトリエの素描だった。庭の木々や草花の絵に、鉛筆でさらりと濃淡がつけられている。次に、日差しを照り返す洗面所のモロッカンタイル。ローテーブルに置かれた一輪挿しで、ふわふわした黄色の花をつけた小枝。『フーロン・デリ』の杏仁豆腐に、日没を迎えた出窓の風景。そして――昨日の、モデルの女性のスケッチ。
ソファにしなだれかかった女性は、物憂げな横顔をテーブルの一輪挿しに向けているように見せかけて、絵描きの彗を意識しているようで、どこでもない場所を見つめていた。私には、彼女がどこを見ているのか一目で判った。
――自分を見ているのだ。媚も、愛嬌も、自信に裏打ちされた強気の目も、アクセサリーで己を飾り立てた彼女は、何でも持っているように見えるのに、研ぎ澄まされた感情の刃を、己の内面に向けている。冴えた共感が、胸を衝いた。彼女は、私と同じなのだ。世界を睨みつけるような瞳の色が、光を見つけようともがく心の切なさが、眠れない夜の瞼の裏と、同じ闇色に染まっている。
「彼女は、秋口先生が連れてきたモデルだよ。今までモデルを取らなかった僕に、一度描いてみるように言われたから。澪が昨日アトリエを出てすぐに、僕のスケッチを見た彼女は、怒って帰っていったよ。酷い絵だ、って言い残して」
「酷くなんかない。でも」
残酷かもしれない。そんな言葉を、私は静かに呑み込んだ。彗がどうして、秋口先生に認められたのか。その理由の本質に、私の手も届いた気がした。
「澪。後ろのページから捲ってみて」
言われるままに、私はスケッチブックを後ろのページから捲り、息を詰めた。信じられない気持ちで絵を眺めて、彗を見る。ばつが悪そうに微笑んだ彗が、目で合図をしたから、私はさらにページを捲った。見開きのページのそれぞれに、鉛筆で描かれたスケッチがあった。次のページにも、その次のページにも、同じモデルのスケッチがあった。
「いつの間に……?」
「ごめん。いつか白状しないとって思ってたけど、怒られる気がして」
「怒らないよ」
私は少しだけ憮然として答えながら、本当に怒らなかっただろうかと、自分の気持ちに向き合ってみた。昨日のモデルの彼女が、アトリエから怒って出ていったように、私にもそんな未来が、ひょっとしたら訪れたのではないだろうか。
彗という画家の卵を拒絶する自分は、私には想像できない。けれど、このスケッチブックに描かれた昨日のモデルが、私に教えてくれている。
――全部、見られてしまうのだ。独りよがりな寂しさも、できれば目を逸らしたままでいたい、人間としての醜くて生々しい部分も、全部。
彗と一緒にいるということは、そういうことなのだ。
「僕が画家としてきちんと成功したときに、また改めて言うよ。だから、澪。これからも、そばにいてほしい。画家とモデルの関係じゃなくて、ただの彗と澪として」
声が、頭上から花びらのように降ってくる。私は顔を上げて、彗は私を見下ろして、二人であの頃みたいに見つめ合った。琥珀色に澄み切った瞳の中に、幽かに揺れた不安の影を、今の私はちゃんと見つけられた。彗は、透明に微笑した。
「不安だったんだ。澪も、僕と一緒にいることを選んでくれるか。僕らはもう、出逢った頃の僕らではないから」
――彗も、私と同じだったのだ。最初から、知っていたはずだった。だって、私たちが似た者同士だという事実は、二年の月日が流れたところで、そう簡単には変わらない。
「うん。私は、彗と一緒にいる」
この気持ちが愛なら、また時々濁るかもしれない。彗の描く油彩画のように、澄んだ色彩を取り戻すときもあれば、夜色に渦巻くときだってあるかもしれない。
だけど、それでも。
私は、彗と、生きていきたい。




