2-7 本当の気持ち
浅い眠りの中で、両親の夢を見た。
消灯したリビングに、台所の蛍光灯が、淡い光を届かせる。父と母は、ダイニングテーブルを挟んで、向かい合って座っていた。二人の仲は、昔から冷えていた。
けれど、よくよく見たら二人の顔は、両親ではなかった。絢女先輩と、絢女先輩の彼氏だった人だ。かと思いきや、やっぱり違った。女性のほうは、たぶん私だ。では、男性のほうは彗? 出鱈目な夢は、月を隠す叢雲みたいに、壊れかけの恋人たちの顔を、薄墨の靄で覆っていく。
こんなふうに、愛は壊れていくのかもしれない。だから、私の両親だって、一度は壊れかけたのだろうか。だけど、そもそも、私の彗への気持ちの名前は、愛だろうか。未明のミモザの木の下で、二人で温かい紅茶を飲んでいた頃には、朝ぼらけの日向の道を歩いた先に、こんなにも綺麗じゃない感情があるなんて、知らなかった。
「澪。眠れない?」
凪いだ海みたいに穏やかな声が、私の視界をクリアにした。薄墨の靄が晴れて、青い月明かりが瞳に射し込む。微睡から覚めた私は、顔を横に傾ける。イーゼルの前に座った彗は、顔に淡い微笑みを湛えていた。
「……ううん、寝てたよ」
私は、掠れた声で答えた。クッション張りの出窓で毛布に包まった私は、あんなことがあったのに、どうして彗のアトリエに泊まっているのか、寝ぼけてすぐには思い出せない。けれど、徐々に思い出した。
あれから――アパートへ帰った私に、彗は付き添い、言ったのだ。
――『うちに来てほしいんだ』
落ち着いた笑い方も、優しい声も、普段と変わらないように感じた。彗の告白を聞いた私は、何も言えなかったのに。言葉を返さなかったら、あの話題はそれきりになってしまった。代わりに、彗は私をアパートからアトリエに連れ帰った。二人で坂道を上りながら、一緒に戻ろうとしている古民家を、いつしか私も帰るべき場所だと思い始めていたことに、今さらになって気づかされた。あんなにショックを受けたのに、平屋の赤い屋根が見えてくると、ほっとした。そんな自分の単純さも、私をひどく滅入らせた。
モデルの女性は、いなくなっていた。夕陽が射し込むアトリエは、昼間の事件を過去に変えて、泰然とした時の流れの中にあった。夕飯は、彗が何かを作ってくれようとしたけれど、私は食欲がないからと断った。彗が何のために私をここに連れてきたのかは分からないけれど、私は自分が思う以上に疲れていたらしかった。気づけばクッション張りの出窓で眠っていて、彗が毛布をかけてくれていた。
「もう一度、眠れそう?」
真夜中に流れるピアノソナタみたいな柔らかさで、彗は言った。いじけた子どもみたいな私は「……うん」と小声で返事をした。
「そっか。澪が起きてるなら、連れていきたい場所があったけど、今度にしよう」
「……それ、どこ?」
「きっと、澪も分かってるよ。でも、今日はいいんだ。明日のほうが、綺麗だろうし」
彗は、何の話をしているのだろう。疑問に思うはずなのに、確かに彗の言葉通り、私は答えを知っているのだ。不安が私の内にあるように、この気持ちへのけじめのつけ方だって、私は知っているはずだ。
だって、もう、午前四時の迷子じゃない。
だけど、今はまだ、気持ちの整理がつかなかった。
毛布を頭からかぶって、出窓のほうへ寝返りを打った私は、彗に背中を向ける。月明かりを遮断した毛布越しに、おやすみ、と声が聞こえた。私は、何も言わなかった。言えなかった。絢女先輩は、私の不安を最初から見抜いていたのだ。
彗は、平気なのだろうか。二年前から今の形に変わった生活が、ばらばらに分解されて、また新しく変わっても、平気でいられるのだろうか。
二年前の私は、平気だった。高校三年生の一年間、彗に会えなくても平気だった。
でも、今の私は。記号ではない生身の私は、もう平気ではいられなくなっている。
私は、彗と、離れたくない。