2-3 アトリエと画家の卵
クッション張りの出窓で本を読んでいると、サイドテーブル代わりに寄せた椅子の上に、ココアの入ったマグカップが置かれた。見上げると、ラフな長袖シャツとスウェットに着替えた彗が、私の本を覗き込んでいる。
「今日は、何を読んでいるの?」
「次のレジュメ作りに必要な資料。近代日本の文豪について、班ごとに発表があるから。ココア、ありがとう」
「うん。ちょっと見せて」
私の隣に座った彗は、積み上げた本の一冊を手に取ると、やがて熱心に目を通し始めた。きっと、私の存在を忘れかけている。知識を求めることに貪欲で、どこまでも真面目な彗らしい。私はココアに手をつけながら、描きかけの油彩画を載せたイーゼルを振り返る。このアトリエを描いた絵は、もうじき完成するのだろう。
「あの絵、完成したらどこかに飾るの?」
訊いてみたが、返事がない。やっぱり私の存在は忘れられている。特に気にしないでココアの甘さを楽しんでいると、だいぶ時間がたってから「たぶんね」と穏やかな声が返ってきた。隣を見上げると、彗はまだ本に視線を落としている。
「たぶん?」
「秋口先生に頼まれた絵なんだ。まずは個展に出すけど、そのあとは先生に渡すよ」
その名前が、私の時間だけを止めた気がした。一秒だけ世界が寸断されて、一秒後の世界に時間が繋がる。私はどちらにしても彗に忘れられていたようなものだから、存在しない一秒間に私が居た事実なんて、私も忘れたら消し去れる。私は「そっか」と答えると、ココアの残りを飲み干してから、マグカップを洗うために、立ち上がった。
「澪」
キッチンでカランを捻った私の背中を、彗の朴訥な声がノックする。
「今日はもう遅いから、泊っていって」
こういうとき、彗はずるいと思う。シンクを叩く水音に紛れた声が、さっき失われた一秒間を、私に忘れさせてくれなくなる。断るつもりでいたはずなのに、カランを捻って水の流れを止めた私は、どうして違う言葉を選ぶのだろう。裏腹な心の機微を表す言葉も、私はまだ探せていない。
*
月光のミストが、クッション張りの出窓から柔らかく降り注ぐ。夜空は漆黒ではなく、多様な色彩に満ち溢れていることを、私はとうに知っていたけれど、見上げる場所が違うだけで、新しい色彩を見つけたような気分になる。
窓のそばで寝返りを打った私は、毛布の中で膝を抱えた。
彗は、隣にある元応接室のソファで眠っている。ベッドを置いていないアトリエで、彗はいつも、このクッション張りの出窓を寝床にしている。もう一度寝返りを打つと、夜色のアトリエに佇むイーゼルと、描きかけの油彩画が視界に入った。
秋口先生という人について、私が知っていることは少ない。顔を合わせたのは一度だけだ。見事な白髪の老人で、今も画壇では影響力のある偉人。三度の離婚を経て、今は年の離れた妻と四度目の結婚をしたのだと、大学の友人からいくつかゴシップを聞かされた。それから、彗の才能を見抜いた人。大学の経済学部に在籍しながら左手で絵画を学び直していた彗の絵は、秋口先生に絶賛されたことで、一躍有名になったのだ。このアトリエも、秋口先生の口添えで借りられた古民家だ。
相沢彗の描く絵は、私たちの世界の最も清らかで透明な部分を、泉に両手を浸して掬い上げるようにして、キャンバスの真白へ顕現させる。そう滔々《とうとう》と語った秋口先生の熱っぽさを、私はまだ忘れられない。
去年の春、彗の引っ越しを手伝いに来た私は、この出窓の前で秋口先生と対面した。すらりとした長身の彗よりも背の低い秋口先生は、瞳にぎらぎらと精力的な輝きを宿した画家だった。彗が世界の最も清らかな部分を見つける画家なら、秋口先生はきっと、世界の最も醜い部分から目を逸らさずに、じっと凝視する人だ。
――『モデルかね。相沢くんの。君も、いつでもここに来なさい』
相沢くんの絵に深みが出る、と。唇の片側を吊り上げて笑った秋口先生は、別の部屋にいた彗に呼ばれて去っていった。生々《なまなま》しく揺れた感情を持て余した私は、日当たりのいい出窓の前で、呆然と立ち尽くしていた。キッチンの飾り窓の向こう側では、黄色の花を全て散らした梢が、ざわざわと風に揺れていた。
「澪」
はっとして、私は目を開けた。月光の青色に霞んだ視界に、繊細な容貌の青年が屈んでいる。黒髪は月影の一滴を落としたような深い瑠璃紺に染まっていて、少しだけ心配そうに細められた瞳には、きっと幼い迷子みたいな私が映っている。
「起こしてごめん。なんだか寝苦しそうだったから」
「ううん」
「水でも飲む? 待ってて」
「彗」
私は、彗の袖を引いた。裏腹な気持ちの機微を、言い表す言葉は知らなくても。寂しさを誤魔化す言葉だけなら、知っている。
「今日は、ここで眠って」