三 臆病者の小さな勇気
一方、疲れ切り、沼の中で突っ立っているグリアムは、歩き出そうとするが力が出ない。
参戦しなければと思う。だがやはり、足が鉛のように重かった。
「なんで私奴はいつも……」
呟いて、グリアムはなんだか泣きたくなる。
歩けないのは、本当は疲れているからではないのだと、彼女自身分かっている。
怖いからだ。足首には、うっすらと、本当にうっすらと、一昨日魔犬に噛まれた跡が残っている。心配をかけたくなかったので言わなかったが、今も少しばかり痛む。
大した事はない。しかしその時彼女が感じた恐怖は凄まじいもので。
本当は旅になんて出たくなかった。あの少年だって、王子とか言うが本当か定かではないし、化け物を引き連れた魔人と戦うなんてあまりに危険過ぎる。でも、ニユがもう決心を固めてしまったていたから。一緒じゃなきゃ、嫌だから。
――足を踏み出そうと、勇気を出したのにこの様だ。
「動くんです……。動け、動け動け、動いてお嬢様の役に立つんですっ」
だが足は言う事を聞かず、震えるばかり。
気付くと、すぐ背後に黒鰐が迫っていた。
肩掛け鞄に手を突っ込み、包丁を探して弄る。ない。来る。間に合わない。
「死ぬ、です?」
嫌だ。死にたくない。だが魔鰐の牙がすぐそこに――。
「グリアムっ」
少女の叫び声が聞こえて、次の瞬間、グリアムのエプロンドレスに大量の血飛沫が飛んだ。
振り向けば、短い茶髪を揺らす少女がこちらを見つめ、笑っていた。
「お嬢、様」
彼女が立つのは、先程までグリアムを殺そうとしていた鰐の死骸だ。それは頭が潰された無惨な姿になって浮いている。ニユの棍棒にはぐっちょりと、深紅の鮮血がこびり付いていた。
「グリアム、大丈夫?」
悪気のない無邪気な笑み。それに心を救われると同時に、ひどく情けないと彼女は思った。
――また、助けられてしまった。
「は、はいです。……、ありがとうです、お嬢様」
「良いって。グリアム、戦える?」
茶色の綺麗な瞳で見つめて来るニユ。
「ごめんなさいです。……足に力が、入らないんです」
もし他の人なら、「情けない」とか「頑張れよ」とか「お願い、一緒に戦って」とか言ったかも知れない。でも優しい彼女は、そんな事は口にせず、すんなりと頷いてくれた。
「そっか。じゃあアタシに任せて」
「はい、です。頑張って下さいです」
屁泥の湖に立ち竦んだままで、走り去るニユをぼうっと眺めながら、グリアムは思う。
いつか自分が、彼女を助けられる日が来るのだろうか、と。
あの時の、そしてそれから重ねた続けた幾つもの恩を返せる日が果たして来るのだろうか、と。
ケビンの活躍ぶりは、凄まじかった。
まるで一流の戦士かのように槍を振るい、突き刺し、時には投げ、その間に足蹴りを食らわせたりする。
ニユだって負けてはいない。
棍棒を振り回し、まるで西瓜か何かのように鰐達の頭部を粉々にして、跳び、黒鰐の背に乗って辺りの魔獣を潰し、走り、血を撒き散らす。
「グリアムの分まで、頑張るんだから」
ニユの中に、グリアムを蔑む気持ちだとかは一切ない。ただ、か弱い彼女を救わねばならないという使命感に駆られているだけだ。
あの日もそうだった。
男爵令嬢ニユは、六歳の時馬に乗れなくなってから、ただひらすら武道を極めた。
と言っても、弓はダメ、剣術もまるで身に付かなかった。そこで選んだのが、この棍棒。
なんと一年で上達、そして今まで、事あるごとにその力を振るっている。
「でもまさかこんな所で使うなんて、ね!」
ブーツの中に泥が詰まっているのにもかかわらず軽快に走り、武器を叩き付けながらニユは思う。
暴力は好きではない。なんでも力で解決しようとするのは、良くない事だと思う。
だからと言って、ニユは頭が特別良い訳ではない。でも、守りたい物は多くて。
その為、彼女は持てるだけの力を振るう。
今は世界を、ケビンを、グリアムを、そして自身や家族を守る為に。
「ぐわっ」「ぐおっ」「ごおおお」
奇怪な悲鳴を上げ、鰐どもが浮いて行く。
気が付けば千匹はいただろう鰐の群れは、二、三十匹しか生き残っていない。
「最後の仕上げだよ!」
乗っていた鰐の死骸を蹴り、次の鰐へと渡ってまた頭を叩き割ったその時だ。
「うわ、ああ」
黒髪の少年の悲鳴が聞こえたのだ。
ニユが振り返ると、少し遠くの鰐の上、少年が黒鰐に半身を呑まれていた。
「ケビン!」
次の瞬間、彼は完全に鰐の口の中へ消えて行ってしまった。
すぐに彼の方へ駆け出そうとするが、他の魔鰐が邪魔して行けない。
「このままじゃ……」
ケビンが殺されてしまう。
ニユがそう思い、鬱陶しい鰐を黒い塊へ変えたその瞬間。
彼方から日の光にキラリと光る包丁が飛んで来て、黒鰐の背中に突き刺さっていた。
そして一つ三つ編みにした長い金髪を揺らす少女が、とてもゆっくりとした足取りで歩き出したのである。
「グリアム……」
驚きと同時に、ニユはなんだか嬉しさを覚えたのだった。
彼女を邪魔しようとする鰐達は、ニユが全部退治する。
そして重い足でやっと背中に包丁が突き立つ鰐の死骸まで辿り着くと、グリアムは包丁を手に取り、すぅーっと線を引くようにして鰐の硬い皮膚を裂いた。
「ケビン様を……、お救いするです」
彼女は恐ろしかった。
こんな事、とてもいつものグリアムにはできないし、今もひどく足が震えている。
でも、勇気を出さなくてはならない。だってこの少年が死んだら。「お嬢様が、悲しむです」
彼女の泣き顔だけは、見たくなかった。
それが一番怖くて。
鮮血が噴水のように吹き上がる。
そして、真っ二つになった鰐の体内には、「ぐ、グリアム、か」きちんと少年が、ほとんど無傷で収まっていた。
「ケビン様。出て来れるです?」
「ああ。――ありがとう」
お礼を言われて、グリアムは思わず笑顔になった。「私奴なんて……。これは全部、お嬢様の笑顔の為です」
「そう、か」
そこへニユがすっ飛んで来て、魔鰐の中から引き出されたケビンを茶色の瞳で心配そうに見つめる。「大丈夫?」
「ああ。幸い鰐に噛まれず丸呑みにされたので、平気だ」
「そう。良かった。グリアムありがとう。安心して、こっちはちゃんと全部やっつけたからね」
そう言う茶髪の少女は、まるで満開の花のような、可憐な笑みを浮かべた。
それだけでグリアムは、とても満ち足りた気持ちになったのだった。
鰐の死体を渡って沼を抜け切り、夜、三人はやっと森向こうの街まで辿り着いた。
宿を取って泥まみれの体を洗い、夕食を囲んでいる。
「今日は大変だったね」
「……、そうです。本当、疲れ切ったです」
そんな少女達を見て、ケビンは苦笑。「お前達、この先の旅はもっと過酷なんだぞ。これしきで大変だと言っていて、大丈夫か?」
「うん大丈夫。大変だけど、きっと何でも乗り越えられると思うから。ねっ」
そうニユが笑い掛けると、グリアムは満面の笑みで「はいです!」と答えた。
こうして、旅出直後の困難の日の夜は、穏やかに更けていくのだった。