二 沼地の鰐
「北へ向かうって言ってたけど、どこを通って行く?」
翌朝早く、朝食を食べながらニユがそう尋ねた。
机の上に広げられた地図には、青い海を背景に大陸が描かれている。
現在地は大陸の最南端に程近い街、ラダラ。まっすぐ北へ進めば大陸最北端、海を渡れば目的地、ドンの城のある島へ辿り着く事ができるだろう。
「今日は、あの森を通るです?」
グリアムはラダラの街のすぐ北、昨日ケビンが飛び出して来たあの森の所を指差した。
確かに、それが最も近道である。しかし、ケビンは首を横に振った。
「あそこは入り組んでいるから、もしドンの魔獣に襲われれば戦うのも逃げるのも大変だろう。あの森はやめた方が良い。だから今日は、森を迂回して丘を越え、沼を渡って森の向こうの街まで行こうと思う」
聞くだけで随分大変そうな道のりだが、ニユはちっとも反論せずに頷いた。「遠回りだけど、ケビンがそう言うならそうしよう。ご飯食べたら早速出発ね」
「……、了解です」
朝食を終えると支度をし、三人は宿を後にした。
そしてニユ達は、昨日ケビンと出会ったあの川沿いの道までやって来た。
正面には美しい川と、奥に青々とした森が見える。しかしそれには目もくれず、川に沿って東側へと進む。
まだ日は東南東の空にあり、街を柔らかく照らしていた。
ちなみに、この街の気候は温暖だ。ニユはほとんど男爵邸かラダラの街しか知らないが、北へ行く程寒くなるし、西へ行く程暑くなる。東と南というのは、随分と過ごし易い土地なのであった。
歩く事半時間。
街の中心部からはうんと離れ、随分と寂れた風になって来た頃、まっすぐだった道が左に分かれている場所が現れた。
そしてその道の奥に、下草に覆われた、碧の丘が見える。否、丘ではない。小山と呼んだ方が良いだろうか。
男爵邸からそう遠くはない。だがニユは、その小山を見るのが初めてだった。
「世の中知らない事だらけだな」と、改めて実感させられる。
ニユは広い世界が見たいが為に、この旅に出た部分もあるのだ。――きっと、様々な物が待ち受けているのだろう。そう思うとニユは、とてもワクワクした。
「ささ、早く行こう!」
そんな心持ちのまま、彼女は両脇にいるケビンとグリアムの手を引いて、颯爽と駆け出したのだった。
現在、小山を登っている最中である。
「ひぃ、ひぃ。はぁ、ふぅ。もうそろそろ、休むです?」
喘ぎ、苦しそうにグリアムがケビンに問う。
だが、彼は首を振って肩を竦めた。「お前、体力がなさ過ぎるぞ。まだ登り始めて半時間かそこらだろ。もうすぐ頂上だから、頑張るんだ」
「ひぃっ。はぁっ。もう、ダメ、ですぅ」
そんな金髪の少女を嘲笑うかのように、ニユは赤いリボンを風に靡かせながら、軽い足取りで先を行っていた。
「お嬢様は、はぁ、凄い、です。ふぅ。私奴も、ひぃ。もっと強ければ、はぁ、良かったです。ぜぇ、ぜぇ」
「大丈夫か? 貧弱だな。仕方ない、おぶってやる」
溜息を漏らしたケビンは、次の瞬間、つまずいて今にも倒れそうなグリアムの手を引っ掴み、ひょいと背中へ。
「うわっ、わあ」
急な事で驚くグリアムだが、すぐさま「ありがとうです……」と彼の背中を受け入れたのだった。
一方その時、ニユは頂上に達した。
「ふぅ。疲れた」
小さく息を吐いて、景色を眺めようとして視線を下へやった彼女は、「あっ」と思わず叫んでしまった。
眼下に、灰色の水溜りが広がっていたのだ。否、水溜りではない。それは明らかに沼だった。
沼がある事は知っていたが、ニユが驚いたのは、小山の頂上が断崖絶壁だった事。
「ニユ、どうした」
彼女の声を聞き付けたケビンが、グリアムを背負ったままで走って来た。
そして、ニユが指差す方向を見て、彼は絶句する。
「どうする?」
随分と、困った事になった。
崖から沼までの高さは恐らく百メートル以上。まさかここから落ちる訳にはいかないし、小山を降りて森を行くしか――。
「飛び降りよう」
だが、ケビンはニユが第一に排除した答えを述べた。
「えっ、でも……」
戸惑うニユ。だがケビンは「大丈夫だ」と彼女に笑い掛ける。「確かに高いから不安なのは分かる。が、下は沼だから死ぬ事はないと思う。今更森にも戻れない。そうだろう?」
確かに彼の言う通り、その方法が一番かも知れない。ニユはすぐに頷いた。「分かった。ケビンを信じて飛び降りるね」
微笑み合って、少年と少女はぎゅっと固く手を繋ぐ。
「さあ、行くぞ!」
「や、やめるですお嬢様。そんな事は危険……」
グリアムが言い終わる前に、二人は崖を蹴って、宙に飛び出していた。
「ぎゃああ。死ぬです死ぬです死ぬですぅ」
そんな絶叫を聞きながら、ニユの意識は遠のいていった。
気が付くとそこは、灰色の水が広がる沼だった。
ニユの全身はねっちょりとした泥水に沈んでいて、とても不快だ。
「ニユ、大丈夫か。……、この選択しかなかったとはいえ、我ながら愚かだったな」
ケビンの声がし、振り返るとそこには屁泥塗れになった彼の姿があった。そして――。
「うぐ、があ、ぷは。ふぅ、ふぅ……。ひどい目に、あったです。本当にお嬢様は困った人です」
彼の背後におぶられるのは、灰色の目に怒りの色を浮かべたグリアムだ。彼女はこちらを鋭く睨み付けていた。
綺麗だったメイド服はすっかり汚れ、金髪やら口の周りやら耳やら、至る所が泥塗れという哀れな姿である。
「ごめん」珍しく憤慨しているメイドの少女に、軽い調子で頭を下げてニユは謝罪。
辺りは一面が泥沼――ではなく、沼の向こう、陸が見えている。
「あそこまで行ければ良いのだが……、さて、どうしたものか」
ニユは周辺を見回してみるが、何も見当たらない。「仕方ない、ヌメヌメした泥水の中を歩いて進むしかなさそうだね」
「はぁ……」溜息を漏らすグリアムも、ニユの意見に従うしかないと判断したようだ。「はいです、お嬢様。早くこの沼を抜けて、臭い屁泥を落とすです」
立ち上がり、胸から上を突き出した三人がズブズブ、ズブズブと沼を歩き出したその時だった。
遠くに、黒い影が見えたのだ。それはどんどんこちらへ接近している。
――直後、その正体が分かったニユは、身の毛がよだった。
黒い鰐だ。黒い鰐が、群れをなしている。その数は恐らく、千匹近くだろうか。
黒鰐達は金色の目をギラギラ光らせ、こちらを睨み付けている。間違いなく、取って食う気だ。
「魔獣だ」
「ひぃっ」黒鰐を目にしたグリアムが悲鳴を上げ、思わず脱力したのだろう、まだ背負われていたのだが、ケビンの背中を滑り落ちて一瞬泥水に沈んでしまう。「ごぼ、ごぼ、がっ、ぐおっ。た、助けて下さいですぅ」
溺れてじたばたする彼女を助け上げながら、ケビンが小さく呟いた。「魔獣」
魔獣。その響きを聞いて、ニユはある程度の驚愕を得た。
ケビンを魔獣達が付け狙っているのは知っているが、まさかこんな沼に魔獣が現れるなんて、想定していなかったのだ。
「ドンの奴め、どこまで執拗いんだ。それにしても……、多いな」
黒髪の少年がそう言い終わるか言い終わらないかの時。
ニユは意を決し、すぐに走り出していた。
このままでは、魔獣に取り囲まれて餌食となり、死んでしまう。
疲れているらしいグリアムと、彼女を背負っているケビンには任せられないからと、率先して戦う事を選んだのだ。
足が重い。転びそうになる。でも足を止めない。進む、進む、ただひたすらに走る。
彼女が手に構えるのは、丸太の如く太い棍棒。これ一本で戦おうというのだから、何とも無謀だ。
駆けるニユへと、次々に襲い来る魔鰐。
だが直後それらの頭は粉々に砕かれ、すぐ絶命する。
懲りずに狙って来る鰐達をバッタバッタと薙ぎ倒し、沼だというのに信じられない軽快さで鰐の死骸に飛び乗り、跳ね回ってニユはダンスを始める。
漆黒の魔鰐は咆哮でそれを迎え、棍棒に叩き潰されて美しい朱色の花を咲かせ、飛び散った。
牙が怪しげに光って、泥に濡れたピンクのワンピースを揺らす少女のすぐ背後を狙う。
だがそれは、鋭い槍の先端に阻止された。「お前の相手は俺だ」
新たに少年が血みどろの舞踏に加わって、鰐の死骸から死骸へと、グルグル、グルグル跳んで舞い踊り出した。
あちらこちらで上がる魔獣の悲鳴、宙を乱舞する血、沼上に散らばる黒鰐の死体。
「ケビン、やるじゃん」
「ああ、ニユもな」
しかしまだまだ、魔獣の群れが押し寄せて来ている。
「もっと派手にやろう! 旅出を祝う血の大パーティーにしちゃうんだから」