七 決着
ドンの頭を殴る。生き返る。飛びすさり、再び攻撃を仕掛ける。
ニユの頭は今、非常に冴えていた。
一挙一動が洗練されていて、相手の不審な行動を何も見逃さない。
それは、彼女の胸を満たしていた不安、困惑、悲哀などの感情が晴れたおかげだろう。
もう迷いはない。後はただ、魔人達を倒す事のみに集中する。
「よしっ」
叫び、ドンの弓をへし折った。
「ごあああああああああああ」怒り狂い、ドンが今度は膝蹴りを食らわそうとする。
だが。「見飽きた!」
華麗に跳躍し、攻撃を回避。広間中を山羊に乗って走り回り、隙あらば、飛び掛かる。
そうして彼女が狙っているのは、ドンではない。悪魔、ダフォディルだ。
あの忌々しい黒亀がいる限りは、この戦いに決着は着かない。まずは彼が目標である。
「ああっ、クソっ。小娘ごときがああ」
「怒るな、兄弟。俺様は今、魔獣を作ってるとこだ。もうすぐ完成するから、俺様だけを守ってろ」
ダフォディルは現在、どういう原理でか知らないが、魔獣を製作中らしい。
跳ぶ。走る。エジーから飛び降りては飛び乗り、広間中に血を散らせた。
しかし後もう一歩という所で悪魔を殺すのはドンに拒まれてしまい、叶わない。
「ようし、できたぜ。……出て来いよ、魔獣ども」
手乗りサイズの小さな黒亀が呼び掛けると、どこからともなく魔犬達が現れた。
その数およそ一万匹を超える。それが一気に王の間に溢れ、ニユを取り囲んだのだ。
けれどニユは可愛く小首を傾げる。「こんなので、アタシが怯むとでも思った? 今のアタシは、無敵だよ」
瞬きの後、辺りは朱色の鮮血が乱舞し、魔犬どもの高らかな断末魔が響き渡っていた。
ピンクのワンピースを噛み破る魔犬を殴り殺す。エジーの足に飛び掛かって来たのは粉々にした。ニユの跨るエジーも負けじと跳躍を繰り返し、逃げながら踏み潰して殺すという軽業を見せている。
気が付けば一面死体だらけで、生きている魔物は一匹たりともいなかった。
「うえっ」
あまりに驚いたのであろう、ダフォディルが奇怪な呻き声を漏らしたその時。
「隙あり!」
ニユの可憐な叫び声がして、ドンの掌の上の黒い亀が、叩き潰されていた。
「ぎにゃあああああああ」
次の瞬間、この世の物とは思えぬ絶叫が、世界を震わせたのだった。
ドンは、ドッゼル王国第三王子として生を受けた。
家族は父母、そして兄が二人。
彼の人生は、決して幸せとは言えなかった。
まず、王位継承権はない。だから王族であるものの、特別扱いはあまりされなかった。
そして自分はどこまでも凡人だった。優秀な兄二人に比べ、ドンは秀でた所がない。弓だけで言えばケビンには勝ったが、長兄トミーには負けるし、頭の良さなんててんでダメ。
だから拗ねて貴族の女と遊ぼうとしたら、ひどく怒られた。
生まれてからずっと、ドンは父母の愛を受けなかった。
事実、受けてはいたのだが彼は気付いていない。自分はただの嫌われ者だと殻に閉じ籠るようになった彼が思った事は、一つ。
王様になれたら、良いのに。
それが叶わない事だとは知っている。でも、王様になりたかった。自由になりたかった。みんなに平伏して欲しかった。自分がこの世で一番、偉くなりたかった。
だから十三歳の時、兄を殺そうと企んだ。
だが、失敗に終わってしまった。みんなに恨まれるようになり、城を追放され、贅沢な暮らしをも失って二年、貧しく乞食としてあちらこちらの街を彷徨い続けた。
幸せになりたい。
ドンの願いは、それだけだった。
父のように尊敬されたい。兄達のように強くありたい。だから、王になりたい。
「王になりたい。王になりたい。王になりたい王になりたいぃぃぃぃぃっ」
そんな十五歳のある日の事だった。
大陸最北端の雪山、スノーマウンテン近くの小さな村にいた時、こんな噂を聞いた。
この近くには、『神』が眠っている。
神がいるなら願いたい。王にしてくれと。
だからドンはスノーマウンテンへ行って、ただひたすらに『神』を探した。凍えそうになった。冷えた体は死の感覚を訴え続けた。でも、諦めず、何日も何日も探し続けた。
そして――、洞窟への入り口を見つけたのだ。
飢えていた。飢えて飢えて、死にそうだった。でも洞窟の中に飛び込んだ。
そして洞窟迷宮の奥、小さな祠を見つけたのだ。
中に入ると、そこで待ち構えていたのは、漆黒の亀であった。
そいつは出会うなり、陽気に喋り掛けて来た。「よう。オメエ、俺様に何の用だい?」
驚きつつも話をしているうち、彼が悪魔である事が判明した。
「俺様と契約しようぜ。……ただしなあ、悪魔っていうのは己より強い者としか契約できないっていう決まりがあるんだぜ。それでもやるかい?」
この亀に勝つなら、楽勝だと思っていた。
でもすっかり貧弱になってしまった体ではなかなか大変で、血を吐きながらやっとの事で勝利する事ができた。
そして契約を交わしたのである。
亀型悪魔――ダフォディルの活躍は、凄まじかった。
ドンの願いを叶え、北の島に城を建てた。
そして何人もの忠実なる亜人やら魔獣を作り出し、王城を攻め落としてドンは国王になれたのである。
嬉しかった。
やっと、王になれる。
黒い亀だけが、ドンの希望だった。
彼さえいれば、何があっても幸せになれる。
死んだって大丈夫。だって生き返らせて貰えるのだから。
ドンはただ、満足のいく幸せな人生を送りたいだけ。だから、彼と出会えて人生が薔薇色になった。
運命が変わってしまったのは突然だった。
邪魔者の小娘が、無謀にも王の間に飛び込んで来たのだ。
弱かった。最初は弱っちくて、後一歩で殺せた。
あの時殺しておけば良かった。あの時殺しておけば良かった。
しかしダフォディルはドンの手を止め、小娘に契約を持ち出した。
最初は慌てたが、ドンも安心した。確かにこいつと契約を結べば、奴隷のようにしてやれると思った。
だが、小娘は、なんと契約を結ぶのをやめてしまったのだ。
どうしてだったのだろう。
あんなにたじろぎ、契約を結ぼうと歩み寄って来ていた彼女が、何故、突然にこちらへ敵意を向け直したのか。
分からない。分からないが、それ以降の彼女は強過ぎた。
何度も殺された。痛くはなかったと言えば嘘になる。でも、怖くなかった。だってダフォディルがいてくれたから。
なのに。
「隙あり!」
声がして、目の前で、掌の上で希望が――、漆黒の亀が棍棒の衝撃に弾け飛んでいた。
その時、ドンは思ったのだ。
化け物だ、と。
こいつは化け物だ。化け物だ。化け物なのに、侮ってしまった。
だから希望が。
希望が、失われた。
憎悪が湧いて来る。不安が胸を締め付ける。あった筈の安定、幸せ、それが描き消えて、全てが怒りに染まって行く。
掌を砕かれた痛みなんて、分からない。少女から棍棒を奪い取り、殴り掛かる。
だが、驚きつつも小娘はうまくかわして逃げまくる。逃げまくり逃げまくり、追いまくり追いまくる。
そして、やっと追い付き、茶髪の少女へと振り下ろそうとしたその時――。
胸に、深々と包丁が突き刺さっていた。
棍棒を取り落とす。全身から力が抜けて、鮮血が噴き出す。
痛い。痛い。痛みで思考が焼ける。死ぬのか。オレは死ぬのか――。
「よ、くも。小娘の、分際、で。許さ、ない。許してやる、もんかあああああああああ」
「最後に」と、小娘はこの場にそぐわぬ笑みを浮かべた。「最後に、アタシの名前を教えてあげよっか。アタシはニユ。ドッゼル王国男爵令嬢にして、ケビンの愛しの人!」
ケビン。ケビンとは、誰の事だったろう。
朦朧となる意識の中で、ドンは最後の最後に、「いつかきっと復讐してやるぜ、ニユ」と誓ったのだった。
グシャリと音がして、目の前で悪魔の硬い河原が割れ、肉片が飛び散った。
その時チラと横目で見た、少年の藍色の瞳が何の感情を宿していたかは分からない。
だが、次の瞬間、握りしめていた筈の棍棒がするりと手から抜け落ち、魔人が手にしていた。
「化け物だ。化け物だ化け物だ化け物だ。殺してやる殺してやる殺してやるぅぅぅぅぅぅ!」
雄叫びを上げ、殴り掛かって来る。
危なかった。一瞬反応が遅かったら、今頃悪魔と同じ末路を辿っていた事だろう。
「エジー、走って」
跨る白山羊に命じ、広間中を駆けさせ始める。
その後を追って来て、適当に棍棒を中空に叩き付ける黒髪の少年は、明らかに狂っていた。
「うおおおおおお。殺す、殺してやるぜええ」
身の毛がよだつ悍ましい怒号が、何度も何度も王の間を揺らす。
ニユは逃げ続けながら考えた。棍棒が奪われた今、どうやってドンを倒そうか、と。
そして、ふと閃いてリュックサックを漁ってみると――。
あった。彼女が手にしたのは、大好きだった金髪の少女の包丁だった。
「グリアム、お願い。力を貸して」
包丁に向かって、否、持ち主だった少女に語り掛けて、ニユは背後を振り返る。
チャンスは、一度きり。
そして覚悟を決め、大きく振りかぶって、真っ直ぐに包丁を宙へ投じた。
クルクル、クルクル回りながら、包丁が魔人へ向かって落ちて行く。
棍棒を振り回し、仮にニユであれば避けられたその攻撃を、だが、ドンはかわせなかった。
次の瞬間、血が辺りを舞い散り、黒髪の少年が膝を付いて地面に倒れ伏していた。
「うぐう、うがっ」
血を吐き、身悶えする彼の胸には包丁が突き刺さり、深紅の鮮血が流れ出している。
「オレは、ただ王になりたかった、だけ。よ、くも。小娘の、分際、で。許さ、ない。許してやる、もんかあああああああああ」
憎悪に塗れ、怒りに震えた視線が、茶髪の少女を射抜く。
だがそんな負け惜しみは聞き入れてやる必要もないと、彼女は切り捨てる。彼は魔人。この世界を揺るがした、身勝手な出来損ないの魔人なのである。道場の余地はない。
だが最後に一言、言ってやらねばならない事があったのを思い出した。
「最後に、アタシの名前を教えてあげよっか。アタシはニユ。ドッゼル王国男爵令嬢にして、ケビンの愛しの人!」
それを、彼が聞いていたのかどうかは分からない。
だが最後に、何か呟いて、彼は動かなくなった。
これが、魔人戦の終幕であった。
「みんな、ありがとう。やっと……」
長い長い旅、幾つもの悲しみ、苦しみを越えて、やっと。
ドンを、倒せた。
その安堵感に溜息を吐き、知らず、ニユはうっすらと微笑んでいた。




