六 苦悩と決断
目の前の少年を見て、ニユは身震いした。
一見、ニユと同年代の普通の少年に見える。
だが、その表情は憎悪に染まり、立派な衣服や佇まいからも、禍々しい雰囲気が漂っているのだ。
この少年こそが、王族を皆殺しにし、国を乗っ取って――、直接でなくとも仲間三人の命を奪った第悪党、魔人ドンであった。
ニユの中に、強い怒りが湧き出す。
「ドン! よくも……、よくもみんなを!」
「ああ。兄貴達死んじまったのかよ。おお、怖え怖え。笑えよ、そんなに怒っちゃ、可愛い顔が台なしだぜ?」
「それを、言うなあ!」
思わず、少女は絶叫していた。
ケビンが言ってくれた言葉だ。それを、似ても似つかぬこんな奴に言われてたまるか。
彼と同じ黒髪、彼と同じ藍色の瞳だが、悪人、自分勝手に世界を滅ぼそうとした、極悪人の癖に。
「はは、はははははは。ひひっ。へえ。つれないよなあ。なあ、ダフォディル」
魔人が誰かに呼び掛けると、彼の懐から何かが飛び出した。
黒くて小さな物体だ。何なのだろうとニユが目を凝らして見ると、それは漆黒の亀だった。
亀はドンの掌に乗っかるや否や気味の悪い笑みを浮かべて笑い出す。「そりゃそうさ。嫌われてんだろうよ、兄弟は」
「違えねえ。はっはっはっはっはっ」
「貴方、誰?」ニユがきつい口調で尋ねると、黒亀は瞳をギラギラさせ、名乗り上げた。
「俺様は北の悪魔、ダフォディル。ドンの契約悪魔だ、よろしく」
悪魔。その響きには、ニユは覚えがあった。
最初、旅出の夜、ケビンが言っていた。魔獣とは、悪魔が作り出すのだと。
彼自身半信半疑だったが、これで明らかになった。
今までニユ達が戦い、そして仲間達が死した原因――、それを作ったのが、この黒い亀型悪魔、ダフォディルなのだと。
許さない。この否な少年と、悪魔野郎だけは絶対に許さない。
笑い合う魔人と、隣の亀型悪魔を睨み付け、ニユはエジーを走らせ出す。
だが――。
「オレを舐められちゃ困るぜ? オレは、兄貴と違って弓が使えるんだからよ」
直後、無数の弓矢がニユ目掛けて宙を乱舞していた。
「やあっ」
寸手の所で棍棒を振り回し払い落としたが、胸に刺さっても何の不思議もなかった。
弓矢の嵐の中、白山羊が玉座に接近。棍棒を振り下ろし――。
ドンの頭を、割った。
血の雨が降る。
そのあまりの呆気なさに、ニユは驚いた。「も、もう終わり?」
だが無論そんな事はなく――。「ドン」
悪魔が名前を呼び、妙な閃光でドンを射抜く。すると、潰れていた頭が治り、みるみるうちにドンは元通りになった。
「驚いたかよ。今はわざと驚かそうと思って、死んでやったのさ。はは、はは、わははは」
次の瞬間、弓矢が肩に突き刺さり、ニユはエジー共々吹っ飛ばされていた。
宙を舞いながら、ニユは考える。何故、死んだ筈のドンが一瞬にして生き返ったのか、を。
無論、あの亀悪魔ダフォディルの仕業には違いないのだ。考えられる事は二つ。
幻豚のように幻影を見せたのか、それとも実際に、生き返らせたのかだ。
床に右半身を打ち付け、一瞬ニユは動けなくなる。動けないままで、呆然とする。
人を生き返らす能力。それがダフォディルにあるとすれば、それは圧倒的にこちらの不利ではないか。
いくらドンを殺そうと、亀悪魔が生き返してしまうのだから、埒が明かない。
また弓矢が飛んで来た。やっと立ち上がれたニユは、それを棍棒の一振りで回避。
どうすれば良いか、考える。考えるが分からず、再びぶつかって行き――。
今度は肢体をぐちゃぐちゃに潰し、ドンを殺した。
しかし。
「だから、オレは生き返るっつうんだよ。なあお前、馬鹿か?」
今度は足に前蹴りを食らって、先程の所に飛ばされていた。
何度もぶつかった。でも何度も生き返って。考えた。考えて考えて考えた。でも脳内は憎悪に燃えたぎり、思考が焼けてしまっている。
ただただ彼女はドンを叩きのめそうとし続けた。でももうめっきり攻撃は当たらなくなり、ニユの体に矢で射られた跡が増えていく。
それを百回程繰り返しただろうか――。疲れ切り、ニユは座り込んでしまった。
どうやっても、あの魔人には勝てない。
強過ぎる。魔人と悪魔の最悪コンビは、強過ぎるのだ。
足が震える。立てない。
こんな時に仲間がいたら、とニユは思う。でももう誰一人としていない。傍の白く美しい雌山羊以外には、誰もいない。言葉を交わせる相手は、励ましてくれる人は、いないのだ。
「わははは。怖気付いたか、小娘。真の王であるオレに逆らうお前達が悪いんだぜ? これでも食らって死にやがれ!」
そう言って黒髪の少年が弓を射ろうとしたその時、なんと悪魔ダフォディルが待ったを掛けた。「ちょっと待て、兄弟。オメエ、その真面目さ、なんだか気に入ったぜ。それに可愛子ちゃんだしよ。俺様と、契約しねえか?」
柔らかくて妙に気持ちの悪い声音でそう問われ、ニユは身を固くした。
「契約って……?」
そう言えば先程も、契約悪魔とか言ってた気がする。でも契約とは何の事なのか、彼女にはさっぱりだ。
まあ、何にせよ乗ってやる気はないが。
「ちょ、ちょっと待て、け、契約ってなんだよ。だ、ダフォディル!?」
ドンが大いに慌てふためき始める。なんとも滑稽で、場違いだと分かっていながらニユは思わず噴き出した。
「心配するなよ、兄弟。俺様は攻撃力が弱い代わりに、悪魔の中でも特別製なんだぜ?」ドンを宥め、黒い亀が首を伸ばしてこちらを見つめてくる。「なあ、オメエ。仲間が死んだんだろ? 悲しいよな? また、会いたいと思うよな?」
「それが、どうしたの! 貴方達が、やった癖に!」
心を読まれたような気がして、ニユは無償に腹が立ち、エジーを走らせ悪魔に飛び掛かって行った。
だが、次に悪魔が発した言葉を聞いて、彼女は硬直する事になる。
「――俺様はなあ、人を生き返す力があるんだよ。さっきも見たろ? なあオメエさんよ。俺様と契約して、仲間を生き返らせたくはねえか?」
またドンの足蹴りを食らって弾き返されながら、ニユは息を呑んだ。
仲間を生き返らせる事が、できると今、悪魔は言ったのか。
そんなの嘘だ、と否定する事もできた。でも先程頭が潰れたドンを、肢体がひしゃげて死んだドンを、元通りに蘇らせたではないか。
それを目にしておいて、誰が、嘘だと思えよう。
「け、契約って……?」
声が震える。得体の知れない感情が全身を駆け抜けた。
「まず俺様の能力を教えてやろうか。俺様はな、人を生き返らせられるんだ。ただし、名前を知らなくちゃならねえがよ。……契約ってのはな、約束を結ぶ事だぜ。そうだな、俺様と兄弟……、つまりドンとの契約内容は、俺様がドンを国王にしてやる代わりに、俺様と仲良くしようぜっていうのだ。それで、オメエと俺様の契約内容はこうだ。――俺様はオメエの仲間を生き返らせる。その代わりに、オメエとその仲間達はドンの事を国王と認めて、平伏せ。……どうだ?」
突き付けられる、条件。
話は簡単だ。ダフォディルと契約を結べば、仲間三人は復活する。でもその代わり、世界はドンの意のままになるのだ。
ニユはそもそも、この世界を救う為に、旅をして来た。
でもそれは同時に、ケビンを助ける為でもあった。みんなと笑い合える、未来の為でもあった。
しかし運命は非情にも、どちらかを選べとにゆに言って来る。
ニユは必死で、頭を回転させた。
正解は、分かっている。それは無論、世界を守ってドンを倒した方が良いに決まっているのだ。
だが、激しく被りを振った。――みんなに会いたい。
クールでしっかり者のケビン。
弱虫で臆病なグリアム。
おっとりで鈍感なルーマー。
ほんの昨日まで、みんないた。そしてそれぞれの、未来があった。
なのに今はない。
ルーマーを幸せにしてやりたい。
グリアムとずっと一緒にいたい。
ケビンと愛し合いたい。
彼らが生き返ってくれれば、どんなに良いだろうか。
世界なんか、このままでも良い。ニユは。
「アタシは……、みんなに会いたい。みんなが死んじゃったなんて、嫌だ。嫌だ。また、話したい。普通に笑って、平和に、平和に……」
平和に過ごしたい。だから。
「契約を……」
結ぶ。結んでやる。仲間の為なら、悪魔に乗じてやる。
ダフォディルの方に歩み寄り、契約を結ぼうと心に決めたその時だった。
ケビンの声が、脳裏に響いたのだ。
「ドンを倒してくれ。お願いだ、みんな、みんな守ってくれ」
グリアムの声も聞こえた。「お嬢様、頑張って、頑張って、全部救って下さいです。絶対に、諦めたらダメです」
間伸びした、ルーマーの呑気な声音がする。「もぉう。そんな事じゃぁ、ニユらしくないわぁ。全部助けて見せなさぁい。世界も、ルー達もぉ」
それは、幻聴だったのだろう。
でもニユは、とても心が安らいだ。と共に、自分の愚かしさに苦笑する。
彼らの言う通りだ。
一つだけ選ぼうなんて、馬鹿げている。
全てを選んでしまえば良いのだ。仲間達の復活も、そして世界も。
それが、最高のお人好し、ドッゼル王国男爵令嬢ニユのあり方ではないか。
「分かった……。みんな、ありがとう。アタシ、頑張るから」
心の奥底から、力が湧いて来る。
それはなんという感情なのか、分からない。だが分かる事は、ただ一つ。
「アタシはもう、悪魔の甘美な誘惑になんて騙されない。……ダフォディル、誘いは断るよ。アタシは、世界を守る。そして貴方の力になんか頼らずに、みんなを生き返らせてみせる!」
叫び、茶髪の少女は真っ直ぐに悪魔と魔人を睨んだ。
「ちっ。失敗したかよ。……兄弟、やっちまえ」
「分かってるぜ、ダフォディル」
不気味に嗤い、武器を構えるドン。
棍棒を手に、白山羊を駆け出させるニユ。彼女はなんだか、今、無敵な気がしていた。だって。
「みんなが見守ってくれてるんだもん」
今から、ニユと彼の本気の決闘が、始まる。




