二 グリアム
グリアムは、ラダラの街の外れ、極貧の家にて生を受けた。
父親は生まれた時にはもういず、兄弟はない。たった一人の家族である母親は病気がちであった。
グリアムはずっと、不幸だった。
着物はボロボロ、毎日のご飯はままならない。学業なんてもっての他で、たった一つの幸は、母親がグリアムの事を思ってくれていた事だけだろう。
「ごめんねえ、グリアム。私があんまり稼いであげられないからねえ。でもきっとあんたは幸せになれるよ。絶対に、幸せになるんだよ」
それが母親の口癖であった事を、グリアムは強く記憶している。
が、五歳の時、病気で母親も死んだ。
それからがグリアムにとっての苦行だった。
最初のうちは、孤独感だけが彼女を襲っていた。
だがすぐに、空腹感に全てを忘れた。
お腹が空いた。お腹が空いた。川の水じゃお腹は膨れない。食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい……。
気付くと、グリアムはラダラの裏路地で盗みを働くようになっていた。
最初は、ほんの少しだけ。その日、食べる物だけ。
でもどんどん盗むのが上手くなって、服も、金も、盗むようになっていって。
いつの間にか、立派な盗人になっていた。
そんなある日の事。
酒場から酒を盗もうとしていたら、見つかってしまった。
まだ七歳の少女だ。簡単に押さえ付けられ、喉にナイフを突き立てられる。
殺される、そう思った。
「あぁ、そうだ……。殺すのは勿体ないなあ。殺すのは……。うへへ。へへ。ひひひっ」
裸にされる。せっかく盗んだ服を、破られて。
「この後、お前をどうしてやろうか。そうだ、売ってやろう。そうだ、奴隷みたいに働かせても良いなあ。だって、盗人に人権なんて、ないだろ?」
気持ちの悪い笑み。殺される。怖い。怖い。死ぬ。グリアムは本能のままに、泣き叫んだ。でもそれすら許されず、顔を殴り付けられて。
「た、助けて! 誰か。助けて、です……」
諦め半分に、小さく叫んだその時だった。
開けられていた窓から酒場へ、見た事もない少女が現れたのだ。
茶髪の、大柄な少女だった。
歳はだいたいグリアムと同じ。ピンクのワンピースをひらめかせ、頭上の赤いリボンを揺らしている。
彼女は茶色の瞳で仰向けになるグリアムと男を見つめると――。
「やめなさいっ。小さい子を虐めるなんて、感心しないね」
と言って、こちらへ近付いて来た。
彼女からは、不思議な空気を感じた。
「誰だ、お前。おれは今こいつを……」
「虐めてるんでしょ? アタシ、何か間違ってる? 今すぐその子を放したら、見逃してあげるけど」
茶髪の少女の手に握られている物を見て、男もグリアムも息を呑んだ。
それは、幼い少女には似合わぬ、太くて物騒な棍棒であった。
「な、何のつもりだ。ここはおれの」
「――放すつもりはないみたいだね。残念だけど、ごめん、ね!」
次の瞬間、グリアムの頭上に血の雨が降り注いだ。
そして男の頭を見上げたグリアムは、思わず身震いをした。
そこにあった男の頭部は潰れてひしゃげ、見るも無惨な首なし死体と化していたのだ。
「ひっ」
恐怖に頭が真っ白になる。そこへ、茶髪の少女の声が掛かった。「貴方、大丈夫?」
その声はとても優しくて、グリアムの体の震えは一瞬で止まり、どこか凄く心が安らいだ。
「……はいです。ありがとう、です」
「良かった」心からほっとしたような笑みを浮かべると、少女はこう名乗ったのである。「アタシはニユ。男爵令嬢だよ。ねえ、貴方の名前を教えて?」
名前を問われ、ドギマギしながら金髪の少女は答えた。「グリアム……、グリアムです」
それから、少女に望まれて今までの身の上話をした。
「……どうする、つもりです?」
茶髪の少女を見つめながら、裸のままのグリアムは尋ねる。
不安だった。泥棒だと明かしてしまったから、あの男と同じように自分に乱暴を働いたり、殺すのではないかと思った。
でも、少女ニユは違った。
「大丈夫。アタシは貴方を許すよ。ずっと一人で、寂しかったんだよね。お腹も空いたよね。ねえ、アタシの屋敷に来ない?」
彼女の誘いを聞き、グリアムがどれ程驚いたかは筆舌に尽くし難い。
「お屋敷……、です?」
「そう。ご飯を食べさせてあげる。家のご飯、美味しいんだから。それでさ、父さんに頼んで、屋敷で働かせて貰ったらどうかな? 広いし掃除は大変かもだけど、きっと楽しいよ」
何を言っているのか、分からなかった。「どういう、事です……?」
「ずっとずっと、一人だったんだよね。不安だよね。アタシにはきっと分からないぐらい、辛かったんだよね。でも辛いままでいるなんて、ダメだと思うんだ。だからさ」少女はこの世の何よりも華やかな、そして最高にお人好しな笑みを浮かべた。「アタシと、友達になろう」
「友達……」
混乱していた。でも、グリアムは彼女が自分の事を助けてくれようとしているのだけは、分かったから。一人になるのは、嫌だから。「はいです」と、答えていた。
仮の服を着て立派な屋敷に連れ帰って貰うと、男爵という人物と話した。
この人物、またまた人が良くて、なんとグリアムをメイドとして屋敷に置いて貰う事になったのだった。
「これからよろしくね、グリアム」
嬉しかった。
これで漸く不幸の中から抜け出せるのだと思って、本当に、飛び上がるぐらい嬉しかった。
メイドとして働き始めて、大変で、何度も挫けそうになった。
またいつか一人になってしまうのではないかと、不安な夜があった。
そんな時、ニユが言ってくれたのだ。「大丈夫。心配しないで、アタシが付いてるから、ね?」
「……了解です。ずっと、一緒です」
「約束」
「約束です」
彼女にどれ程、救われ続けたか分からない。
最初はあの酒場で、命を救われて。
次はどん底の人生から、救い上げられて。
それからは何度も支えられて、助けられた。
だから、グリアムは思うようになった。
「いつかお嬢様に」恩返しがしたい、と。
それから何年も後、ニユとグリアムが、互いに十五歳になったある日。
厄介事に巻き込まれた――否、正確に言えば、ニユの人の良さがそれを受け入れたとも言える。
黒い犬どもに襲われている少年と遭遇してしまったのだ。
そしてあれよあれよという間に、ニユは旅に出るという決心を固めてしまった。
怖かった。怖くて怖くて、仕方なかった。
でも旅に出ると聞いて、傲慢だとは分かっていたが、一緒について行く以外の選択肢はグリアムの中になかった。
だって、彼女と二度と会えなくなってしまっては、自分はどうやって生きて行けば良いか、分からないではないか。
無理を押して仲間にして貰い、長い時を過ごした屋敷を後にした。
旅は苦労の連続だった。ニユばかり頑張らせて、自分は何の力にもなれなくて。
情けなかった。そんな情けない自分を許してしまう彼女に、非常に申し訳なく思っていた。
本人には言えないけれど。「私奴はいつも、お嬢様の足手まといです」
順調に旅は続いたが、ルーマーという少女が死んでしまった。
別に、グリアム自身、それ程衝撃は受けなかった。薄情かも知れないがグリアムは、ニユを泣かせてしまった事の方に心が痛んだ。
「私奴は、お嬢様のお力になれない……。本当に、碌でもない人間です」
自分は、役立たずでしかないのか。
そう思っていた時、奇怪な人馬との戦いが起きて――。
茶髪の少女が、炎の矢に狙われているのを見て、強く思ったのだ。
「お嬢様を、お守りするです」
彼女の命だけは、決して失わせてはならないと。
そしてグリアムは咄嗟に、ニユの前に飛び込んでいた。
メイド服を着た胸に灼熱の矢が突き刺さる。
直後、痛みが全身を駆け抜け、熱が金髪の少女の身を焼き焦がした。
そしてグリアムは自覚する。「死ぬ、です……」
でも彼女には、何の後悔もなかった。
だってやっと、ニユを守る事ができたのだから。やっと、恩返しができたのだから。
最後の瞬間、目を丸くする愛しの少女の無事を確かめて――。
「お嬢、様、ご無事で、良かった、です」
場違いな喜びを抱きながら、グリアムはゆっくりと虚無の中に沈んで行く。
果てる直前、ずっと彼女の傍にあれたら良かったのにと、ほんの少しだけ残念に思ったのだった。




