三 公爵
湖を渡り切って上陸し、街を伝いながらひたすら北へ歩く事二日。
辿り着いたのは、マーテンという街だった。
南西の空にある日が、街を照らしている。
ちなみに気候は北へ来るに連れうすら寒くなって来ている。南出身のニユとしては、朝夕など身震いしてしまう程だ。まあ、最北端の島へ行くのなら、このぐらいの寒さには耐えなくてはならないとは思っているが。
「食料がそろそろ尽きるな。買わなくては」
「それに、水も足りないです」
旅に必要な物を買い足しに、ニユ達は商店街へ。
そこは、幻の王都並みに活気があり騒がしく、人が通りにごった返していた。
「まさかこれも、幻影だったりして……」
だがニユの心配は無用だった。
「ここは公爵邸のすぐ近くなんだ。王都が滅びた今では、この国一番の都市と言えるだろう」
「へえ……」
公爵という言葉を聞いて、ニユはそう言えばとある事に思い至った。
同じ貴族でも、公爵だけとは会った事がないのだ。
亡き子爵は無論、伯爵や侯爵とも少ないながら面識はある。だが最も上位の公爵だけとは、顔を合わせた事がない。
「もし子爵みたいな奴だったら、どうしよう?」
だが、これまた無用の疑念だったらしい。「大丈夫だ、ニユ。公爵は王族に好意的で、決して悪い人物じゃない」
ケビンに念押しされて、ニユはいくらか安心した。
いつどこにドンの協力者や魔獣がいるか分からない……。そんな毎日を過ごしていたら、元々は結構楽天的で考え足らずなニユですら、少しは疑り深くもなるものである。
「良い人でしたら、私奴もいつかお会いしてみたいです。繋がりを持っていたら、旦那様もきっとお喜びになるです」
「そうだね」
そんな事を話しながら買い物をし終わると、もう夕暮れ時だった。
冷たい北風が、ニユの頬を撫でて過ぎ去って行く。
「そろそろ宿を探そうよ」
ニユの提案にケビンもグリアムも賛成し、三人は商店街の脇道へ入った。
レンガ造りの家が立ち並ぶ通り。
入り組んだ道の中、宿を探して歩いていると、悲鳴が聞こえた。「きゃあ」
「何ですっ」
「警戒しろ」
身を固くするグリアムとケビン。
だが、ニユは一も二もなく声の方へ走り出していた。
角を曲がり、駆け付けてみれば薄暗い路地に、若い男女が立ち竦んでいた。
そしてそれを取り囲むのは、漆黒の体毛の魔犬達。
直後、魔獣達が揃って男女に襲い掛かり、食い殺そうとして――。
それは、叶わなかった。
「危ないっ」
叫び、突っ込んだニユが棍棒を一振りし、魔獣の群れを無惨な肉片へと変え、血の雨を降らせたのだ。
「うぎゃ」「ふが」「がお」「ぐおぉぉ」
裏路地に響く、魔犬達の低い唸り声、苦鳴、怒声、悲鳴。
そして瞬きの後には生き残っている魔獣は、一匹もいず、辺りには血の海が広がっていた。
その光景に絶句する男女。
「大丈夫?」
そんな彼らへ、ピンクのワンピースを血で汚した茶髪の少女が、柔らかい笑みを浮かべてそう尋ねていた。
「お嬢様!」
「ニユ、無事か!?」
その時ようやく、金髪の少女と黒髪の少年が追い付いてやって来たのだった。
顔を蒼白にしながら、おずおずと青年が頭を下げた。「だ、大丈夫だよ。……ありがとう、私は、この辺りを治めている、公爵だよ」
「良かった……。アタシはニユだよ」胸を撫で下ろすニユ。人助けは良い物だ。と、彼が名乗った言葉が引っ掛かった。「えっ、公爵って言った?」
先程、会ってみたいと噂をしていたばかりの公爵が、目の前に立っているなんて、簡単には信じられなくて当然。
だが、ケビンは平然として、「久しいな、公爵」と手を振ったのであるから、信用するしかなくなる。「俺は、第二王子ケビンだ。諸事情会って、今こいつらと旅をしている」
「お、王子様……?」
突然目の前の少年が王子だと知らされて、青年も激しく動揺。「ほ、本当ですか? ……確かに黒い髪に藍色の目、まさしく王族の証! おおケビン殿下、お久しゅう」
何が何やら分からぬニユだが、どうやら彼らが顔見知りらしい事だけは理解できる。
その後少し話して貰った所によると、どうやら青年が若公爵、そして連れの女性が公爵夫人との事。まだ二十代半ばだろうに、立派である。
彼らはこの街のすぐ近くにある公爵邸で暮らしており、今日たまたま外出した際、魔獣に付け狙われたとの事。護衛が喰われてしまい、困った所をニユに助けられたらしい。
「ありがとう。本当にありがとう。君がいなかったら、妻も私も死んでいただろうね。――、ケビン殿下、それからニユさん、メイドさん。お礼がしたいんだ。もし良かったら、私の屋敷へ来てくれないかい?」
「良いよ。お礼なんて」
困った人がいたら助ける、当然の事をしたまでだ。ニユは首を振り、明るい調子で断った。
だが、公爵夫人が頭を下げ、「ご迷惑でなければ、どうかお礼をさせて下さい。恩人の方に何もしないなど、私の心が許しません」などと言うものだから、ニユはどうしようかと悩む。
「妻もこう言っているから」
二人がかりで説得されてしまえば、特段断る理由もないのでケビンは折れる事に決めたようだ。
「では、招かせて頂こう。色々、話したい事もあるからな」
ニユも、ケビンがそう言うならと元気よく笑う。「じゃ、お願い、連れてって」
公爵夫妻は頷いて、静かに案内し始めた。
「お嬢様とそっくりな、人の良い方達です」夫婦とニユを見比べて、グリアムがそう呟いたのは誰にも聞こえなかった。
現在、公爵邸の応接間のソファに掛け、男爵夫妻と少年少女三人が向かい合っている形だ。
「さて。私達の命の恩人であるケビン殿下達にお礼とご協力がしたい。殿下、何でも結構ですのでお申し付け下さい」
ニユというよりはケビンの方に頭を下げる公爵に、王子自身は苦笑して首を振った。「礼ならニユにしろ。俺は、家族も守れぬ弱い男だ」
そう話の矛先をニユに向けられるが、彼女は困ってしまう。「アタシは別に、お礼は気持ちだけで良いよ。だって人助けは当然の事でしょ?」
「しかし」
そこへ割って入るのは、メイド服で金髪の少女、グリアムだ。
「失礼ながら、私奴としましてはこの度の旅にご協力頂きたいと思うです。公爵様達がドンに狙われている事もあるです、きっとお話した方が良いと思うです」
話というのは、旅に出た経緯やら目的の事だろう。
確かに、公爵達が魔獣――すなわち、ドンに狙われていたのだ、教えてあげないと彼らが危険かも知れない。
頷いて、ニユは「知ってるかもだけど……」と前置きし、男爵夫妻に今までの事を簡単に語り始めた。
そして聞き終わった二人は、納得と憐れみ、それに関心の色を瞳に宿して少女達を見た。
「そうだったか……。ドン殿下がそんな事をね。ケビン殿下、大変だったでしょう。ご苦労様です。それにニユさん、男爵の娘さんなのかい。男爵には私も世話になった事がある。お父さんと似て、立派なお嬢さんだね」
「世界を救おうだなんて、立派な事ですね」
夫妻に褒められて、ニユは照れ笑い。「そんな程でもないよ。だって世界が滅びちゃったら、みんなが悲しむし、アタシも嫌だもん。――ところでケビン、公爵さん達に何を頼むの?」
藍色の瞳を閉じ、思案する少年。そして目を開けた彼は厳かに言った。「では、三つを頼もう。一つは、王家への忠誠だ。滅びたとて、俺がいる。決して裏切ったりするな。二つ目は、今晩この屋敷に泊める事。そして二つ目、これが重要だ。――国民を、ドンの手から守れ。俺達があいつを倒しても、国民がいなければ話にならないからな。これだけを、頼んだぞ」
ケビンの言葉は、公爵にとって驚きでしかなかっただろう。
思わずといった様子で目を見開き、口をあんぐりと開けた。「そ、それだけですか」
「ああ。それだけだが?」
悪気なく首を捻ったケビンを見て、グリアムが何故か噴き出し、大笑い。「ふふ、ふふふ、け、ケビン様。ふふ、ふ、ふ」
それにつられてか、公爵夫人もけたたましく笑い出した。「ほほほ、ほほ。ほほほ」
「みんな、何がおかしいの?」
王子を代弁するかのように茶髪の少女が小首を傾げる。それに女性陣はさらに笑い転げた。
「だ、だって、ケビン様ったら……、腕っぷしの人を貸してもらうとか、したら良いのにです。ふふ、ふふ」
「ほほ、ほ、ほほほほほ。なんて、よ、欲のない人、なんでしょうか、殿下は。ほほ」
女性二人から笑われて、ケビンは心外そうに肩を竦める。「別に良いじゃないか。何か文句でもあるのか?」
「妻のご無礼、お許し下さい。――了解致しました、王家への忠誠を改めて誓いましょう。そして、国民を全力で守ります。……無論、今晩は泊まって行って下さい。たっぷり、ご堪能頂けましょう」
「やったー! ご飯もあるよね? 久し振りのご馳走、楽しみだな」
ニユは大はしゃぎで、部屋を飛び出して行く。
この時ばかりは何もかも忘れて、ただ晩飯に期待で胸を躍らせていたのだった。
料理は最高で、どれも舌鼓を打たずにはいられない味。余程メイドの腕が良いに違いなかった。
だが食べてばかりではいられない。
夕食の席では、ニユはグリアムに勧められて、男爵との色々を公爵に話した。
「この魔人騒ぎが収まったら、一度話してみて欲しいな。父さんきっと喜ぶから」
満面の笑みでそう言うニユに、優しい笑顔で公爵は頷き、「いつか会って話してみるよ」と約束してくれた。
しかし、話題は楽しい物ばかりではない。
「最近、ドン殿下……いや、今は便宜上新国王だが……、彼に少しでも反抗的な貴族が次々に襲われていてね。伯爵と侯爵が奇怪な黒い動物に狙われて、前者は重症を負い、後者は亡くなってしまったんだ。そしてとうとう私の所へ獣がやって来た時、ニユさんが助けてくれたようだね。ありがとう、きっと君がいなければ私と妻は殺されていたに違いないよ」
その話を聞いて、ニコニコ笑っていたニユは途端に複雑な心境になる。「ううん。……でも、それじゃあ」
男爵の身も危ない、という事ではないか。
子爵のように狡賢い貴族であれば良い。だが、男爵はそんな国家を裏切るような人間でない事を、ニユは重々承知している。
だから、狙われるのは確実で。
「父さんと母さんを、守らなくちゃ」
別れも言わずに屋敷を出たのだ。死なれては困る。――絶対に、男爵邸に戻って、両親と抱き合うのだ。
そう強く決意するニユの手を、金髪の少女が優しく握っていた。「お嬢様、私奴も一緒に、お嬢様の大切な方々を守るです」
彼女がそう言ってくれるのがなんだか嬉しくて、茶髪の少女はその手を握り返した。
そんな少女達の姿を眺めながら、「――大事な人、か」と、黒髪の少年が呟いた声は、彼に自信にすら届かず口の中で消えてしまった。
「さあさ、デザートにしましょう」
デザートが運ばれて来て、湿っぽい雰囲気は一転して明るくなり、いそいそとみんながデザートを食し始める。
こうして、この静かな夜は更けて行ったのだった。
翌朝。
公爵邸でぐっすり眠った三人は、荷物をまとめて玄関前に立っていた。
開け放たれた石造の玄関ドアの向こうでは、公爵夫妻が見送りに来てくれている。
「ニユさん、どうかドンを倒して来てくれ。ケビン殿下、私達は国民を守ります。お互い無事で、またお会い致しましょう」
「ニユさん、殿下、メイドさん、さようなら」
微笑み、手を振る夫妻。
「またな!」
「きっと、再開するです」
「――。じゃあね。さよなら!」
元気よく別れの言葉を告げ、一行は公爵邸を後にして、北へと歩き始めた。
この世界のみんなの為に、魔人ドンを必ず打ち倒す。
そう改めて心に誓い、ニユは旅を続けるのだった。




