二 王都の魔獣戦
黒い羽を広げる鳥女を見て、ニユは思わず身震いした。
鳥女の容貌を事細かに説明すれば、裸の美女に、腕の代わりに黒い翼が生えたような姿だ。
彼女は背筋が凍る程の妖美さを放ち、氷の如く冷たい笑顔でこちらを見つめている。
だが、ニユが身震いしたのはその容姿のせいではない。――彼女の言に、少なくない戦慄を抱いたのだ。
「幻って……」
つまり、先程まで見ていた美しい城も、そして賑やかしい街すらも、現実の物でなかったという事。
そんなのが一体、信じられるだろうか。
でも目の前に広がる光景を見てしまえば、それを肯定するしかない。
全てはまやかし。それを解いたのが――。
「グリアム」
血の付いたメイド服を揺らし、右手に握る包丁を煌めかせている少女こそが、幻術を破った張本人だ。
何故、彼女は幻術を――。
「危ないですっ」
思わず我を忘れていたニユがグリアムの声で我に返ると、すぐ背後に鳥女の炎の息吹が迫っていた。
「ひやっ」妙な悲鳴を上げて飛び退るニユ。
危なかった。もしグリアムが教えてくれなかったら、真っ黒焦げにされていた所だ。
「ありがとうグリアム!」
感謝を叫びながら、茶髪の少女は身を翻して鳥女と対峙する。その手には無論、やたらに太い棍棒が握られていた。
「女の子にしては、物騒な武器ね」
にたりと笑う鳥女が空へと飛び、その小さな口から灼熱の炎を吹き下ろす。
攻撃を見事にかわしながら、ニユは茶色の目で鳥女を睨み付けた。「みんなして何か文句あるの? これは、使いやすいから、使ってるだけだ、よ!」そして目にも留まらぬ速さで棍棒を宙へ投げ放った。
先端を炎の舌に舐められる棍棒。しかし確実に真っ直ぐ鳥女の黒羽に達し――。
「ぎやああああああっ」
甲高い悲鳴を上げながら、右羽を棍棒に射抜かれた鳥女が地面に激落。
その隙に荒野を駆け抜けて、ニユは棍棒をキャッチ。「我ながら、凄い軽業だよね」
怒り狂い、羽から朱色の鮮血を撒き散しながら、火の息吹を無茶苦茶に吹き付ける鳥女。「よくもよくもよくもよくも。私の自慢の羽をやってくれたわね、この小娘が!」
「ぼうっとしては、いられないです」
呟いて、包丁を片手に、グリアムが戦いに加わる。
片羽を失った鳥女は地面から二メートル程の高さで浮遊し、血の雨を降らせたままで炎を吐きながら、ニユを追っている。
「お相手は、私奴です!」
立ちはだかり、優美な血の舞を披露し始めるグリアム。
彼女の包丁で足先を切り取られ、脇腹を軽く裂かれた鳥女は、痛みを堪えるようにしながらけたたましく笑い、「ははは。面白いわ。面白いわ。幻豚ってね、呼吸するだけで幻想を見せる事ができるの。みんな、なかなか気付けないのだけれど、貴方は幻豚の幻術を解いたんでしょう。ねえ、どうして分かったの?」とやけに艶っぽい声で問い掛けて火を放った。
それを避けながら跳び回り、グリアムは人鳥を灰色の瞳で睨み付け、答える。
「そんなのは簡単です。……匂いです。全く人や生活の匂いがしないのに、焦げ臭い匂いと死臭しかしていなかったから、おかしいとは思っていたんです。でもお城で、国王から獣の匂いがしたのでピンと来たんです。……こいつは、気持ち悪い魔獣だってです!」
そしてまた包丁を天高く掲げ、鳥女の尻に傷を付けた。
グリアムの言葉を聞いて、ニユは納得する。
そうか。そういう事だったのか、と。
ニユは鼻が特別に良い訳ではない。ケビンもきっと同じだろう。だから、気付けなかった。
だがグリアムは鼻が良い方だ。だから気付き、上陸したての時から不審げに辺りを見回して警戒していたのである。
「それに比べてアタシは呑気に……」
少し情けない気持ちになり俯くニユ。だがすぐに顔を上げ、勝気に笑った。
「その情けない分まで、この戦いで取り戻すだけ。――本気出して、やっちゃうんだから」
そして、荒地中から集まって来た漆黒の、猿、犬、牛など様々な魔獣達に突っ込んでいったのである。
「えいっ、とやっ、それっ、てやっ」
ニユは真紅の鮮血の花を咲かせ、荒野を見渡してみる。
ざっと千匹前後の多種多様の魔獣の群れ――それを、たった五分足らずで皆殺しにし、今、王都跡には魔獣の亡骸が散らばっていた。
そして王城跡だろうか、瓦礫の山の所で、やたらとでかい半獣女と小柄なグリアムが、激しい戦いを繰り広げている。
そしてもう一人、この場にいる人物が、膝を抱えて座り込んでいた。
ケビンだ。
彼は俯き、きっと色々な感情に浸っている事だろう。
本当はニユだって、参戦して欲しい。でも、それを頼めないのは、彼の心情に同情してしまっているからだろうと思う。
だってケビンは、せっかく家族が、そして故郷が無事で、自分の思い違いだったと教えられたのに、直後、やはり本当だったと嫌でも知らされたのだ。
それが王子の心にとって、どんなぐらい苦しかった事か、ニユには想像もできない。
だから。「今はケビンの分まで、戦わなくちゃ」
短い茶色の髪を揺らめかせ、少女は炎の海へ走り込む。丁度、エプロンドレスを焼け焦げだらけにしたグリアムが鳥女の折れていなかった翼を切り裂いた所だった。
「ぐえええええええええ」
世にも奇怪な声を発し、女の漆黒の瞳が憤怒に揺れる。
そして次の瞬間、怒りの炎が荒地を踊り狂った。
「あちちちちぃっ」
その息吹は今までのどの炎よりも強力で、あっという間に少女達を包み込んで丸焼きにする――筈だった。
業火の中でニユは、何者かの影が見えた。
何か分からない。生き残りの魔獣だろうか。痛い。熱い。思考まで焼ける。燃える。熱い。熱い。熱い。死ぬ……。
「ニユっ」
直後、少年の声が響いて、気付くと少女二人を包囲していた火炎が消え去っていた。
そしてそれを成したのは――。
「ケビン!」
黒髪の少年が、荒地にしっかりと立ち、藍色の瞳でこちらを見つめていた。
彼の手にする水桶を見て、ニユは理解する。
ケビンは飲料水をぶちまけて、少女達を救ってくれたのだと。「ありがとう」
頷くと。ケビンは宣言した。「俺も……、俺も戦う。俺が、あいつを殺す」
「ケビン様……」ニユと同じく火炎の海から解放されたグリアムが、黒髪の少年を見て何を思ったのかは、ニユでも分かった。
頼りになるケビンが参加してくれるのだ。安心、そして嬉しかったに違いない。
「みんなでやっつけるよ!」
こうして固まった三人へ、突然、炎が放たれる。
「茶番は終わったかしら? このクソガキどもめが、ドン様の為に焼き殺してくれるわ!」
両翼を失った血塗れの美女が、歪んだ微笑みを浮かべて、そう吠える。
そこへ、ニユが踊り掛かった。
炎を美しい跳躍の連続技でかわし、胸へ棍棒を叩き込んで吹っ飛ばす。鳥女の乳房が割れ、鮮血が溢れ出した。
続いて倒れ伏す女へ繰り出されるのは、グリアムの見事な包丁さばき。片足を落とし、肩尻を切り取って、さらに無惨な姿へと化した鳥女の炎から見事に逃れ去る。
片足を失ってぐらりと態勢を崩しながら絶叫する女。「よくもよくもぉぉぉぉ。小娘達がっ、この私を。ドン様に愛された、この私をぉぉぉ」
ケビンが藍色瞳で鋭く彼女を睨み付ける。「この醜い鳥女め。この街が滅んだ全ての元凶はドンとお前だ。――地獄で、永遠に苦しむが良い、この化け物め!」
そしてトドメの槍が、迫り来る火炎に負けず、確実に女の喉を差し貫いていた。
大地を破らんばかりの絶叫と共に、戦いは幕を下ろしたのだった。
何もない、人や魔獣の亡骸だらけの、荒地の中。
あるのは引き摺って来たボート、それから戦いに勝利した少年少女の姿だけだった。
「……ケビン」
鳥女の前で涙を流す少年の頭を、ニユは優しく撫で続ける。
ドンが王都を襲撃した時に乗っていた巨鳥――それが実は、先程の鳥女であり、その復讐は果たせた。
だが、王都が滅び、彼の家族が皆殺しにされたという事実は決して変わる事がないのだ。
嗚咽を漏らすケビンを、ニユとグリアムは、日が傾くまでただただ見つめていた。
「……悪い」
夕日が荒野を照らす頃、やっと落ち着いたケビンが漏らした言葉がこれである。
「ううん。良いよ。さっきはありがとう」
首を振り、優しく微笑むニユ。
彼は、本当に強い。彼女は改めてそう思った。
「もう日が暮れるです。もう少し北で、野宿するです」
「……うん。分かった」
それから何日も、野宿を繰り返して北へと進んだ。
ちなみにケビンの悲しみは解れ、彼は以前と変わらぬ凛々しさを見せてくれるようになった。……ただ、前と違うのは、ニユへの態度だ。気のせいかも知れないが、なんだかニユをみる瞳に宿る感情が、温かくなった気がする。
その理由は、ニユには分からない。分からないが、嫌な気は全然しなかった。
そんなこんなで尸だらけの荒地を進み、一行は五日後、小船に乗って湖を北へ渡り始めた。
「明日の朝頃には着くだろう。今日は休むぞ」
ケビンに言われて、ニユは船内の寝室の床に就く。
そして窓の外を眺めながら、思うのだった。
必ず、この世界を救うのだと。
一瞬諦めかけた『救世主』への幻想が、にゆの中で現実の物となりつつあるのだった。




