一 謎の少年との出会い
ゆっくりと流れる川は日の光に照らされて美しく輝き、そよ風が柔らかく頬を撫でながら過ぎ去って行く。
そんな長閑な川沿いの道を、二人の少女が歩いていた。
一人は短い茶髪に赤いリボンを飾った可愛らしい少女、もう一人は綺麗に整えたメイド服姿で長い金髪を一つ三つ編みにした少女だ。
「ああ、やっぱここの空気は最高だね。何度来ても気持ち良いな。ね、グリアム」ピンクのワンピースを揺らしながら、茶髪の少女、ニユが笑う。
それに頷いて、グリアムと呼ばれた金髪の少女が微笑んだ。「本当です。私奴も、ここへ来ると凄く落ち着くです」
彼女達は景色を見回しながら、目的もなくただただゆっくりと歩み続ける。
ここは、地球とは別の世界。
この世界には、広大な青い海の上に大陸と幾つかの小島がある。そしてその全てを統べるのが、ドッゼル王国という唯一の国家である。その中の小さな街が、ここ、小都市ラダラだ。
町の中心部は随分と賑わっているのだが、この川沿いの通りになると人気は少なく、長閑な雰囲気が漂っている。
ドッゼル王国には、五つの貴族階級があった。上から、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵だ。
茶髪の可憐な少女、ニユは最も下位の男爵の娘である。
いつもは屋敷で暮らしているが、たまに息抜きでこの日はラダラの街へ降りているのだ。
彼女を傍で見守る少女グリアムは、男爵家のメイド。ニユ一人で街へ出すのは危険だからと、護衛との名目で外出時はいつも一緒だ。
「まあでも、実際護衛にはならないんだけどね」ニユはそう呟きながら、川の流れを眺めた。
「聞こえてるです、お嬢様……」
ニユの呟きを聞き取ったグリアムは、反論できずに一つ三つ編みの金髪を悲しげに揺らして赤面するしかない。
実は彼女、非常に怖がりで、何かあったら身を守るのはニユの役目なのだ。
「別に全然気にする事じゃないよ。グリアムの事はアタシが守るからさ」ニユは外出時にはいつも持ち歩いている太い棍棒を振り回して得意げに笑った。
こんなやりとりは、日常茶飯事。なんたってニユとグリアムの付き合いは、もう八年くらいになるだろうか。お互い十五歳なので、人生の半分以上は一緒という事になる。
そんな事を考えていたニユだったが、空腹感に思考はすぐに吹っ飛んだ。
「そうだ。それより、そろそろお昼にしようか」
「了解です」
そう言って、仲良しの少女達が川辺に腰掛けて街の中心部で買った昼食を広げようとしたその時だ。
向こうの川岸の奥、青々と繁る森から、一人の黒髪に藍色の瞳をした少年が、慌てて飛び出して来たのだ。
「何ですっ」グリアムが驚いて、甲高い悲鳴を上げる。
少年は勢いそのまま、川の水へ落ちてしまった。
手足をばたつかせながらもがく少年。叫び、喚いてもいた。明らかに溺れている。
「大変っ」
こんな光景を放って置ける訳がない。
さっと立ち上がると、ニユは行動に出る。
手にしていた棍棒を水の中へ突っ込み、ジタバタする黒髪の少年の傍へ差し出した。「これを掴んで!」
「お嬢様!?」その行動に目を丸くするグリアム。
「ぐあっ。ぐおっ。ぶっ」苦しそうに呼吸しながら、溺れる少年がやっと棍棒を握った。
ニユは力を込め、少年の掴んだ棍棒を引き上げる。凄い水飛沫を上げながら、少年は棍棒ごと宙に浮いた。
だが、どうやら振り上げられる棍棒の勢いに耐えられなかったようで――。
「わっ」
「ぎゃあ」
悲鳴が重なり、少年が金髪の少女の真上に落下した。
少年に乗っかられたグリアムは堪らず座ったままで盛大にすっ転ぶ。
「うわっ。大丈夫?」
それを見て、すぐ隣のニユが棍棒を投げ出して二人に駆け寄る。衝突した二人はどちらも、呻き衝撃に悶えてはいるが無事のようでニユは安心した。
「もう……。お嬢様は乱暴です」頭をさすりながらのグリアムの文句に、「ごめんごめん」と軽く謝るニユ。
そこへ、割って入る声があった。
「ごほごほっ、げぼっ。ふぅ。…………、助けてくれてありがとう。だが、すぐ逃げろ。ここは……」
咳き込んだ後起き上がり、やっと喋れるようになったらしい少年。彼の言葉に、ニユは思わず首を傾げた。
「えっ。逃げろって……?」
だが、その答えを少年が言うよりも、森から奇怪な物が現れる方が早かった。
突如、森から無数に飛び出して来たそれは、黒い犬のような動物だった。
その容貌はなんとも醜く、暴力的な鋭い牙が煌めき、赤い目がギラギラと光っている。どこからどう見ても、悪意の存在としか思えなかった。
「ああ」少年が絶望的に溜息を吐いた。「追いつかれてしまった」
その魔犬達は川の前で一瞬立ち止まり、そして跳躍。跳んで川を渡るつもりだ。
「…………」
あまりの事に驚愕し、左手で棍棒を、右手で絶句しているグリアムの手を引っ掴み、ニユは叫んだ。
「危ないっ。逃げるよ!」
金髪の少女を引き摺りながら、とにかく走り出すニユ。
少年も彼女達のすぐ後を追い、魔犬の脅威から逃げようとする。
一体何が起こっているのか。そんな事、ニユには分からなかった。ただ分かっている事は、魔犬が明らかにこちらを取って食おうとしている事、百匹以上はいるであろうそれらがすぐ背後に迫って来ている事だけだ。
川沿いの道から、小さな脇道に入って、ただひたすら走る。
道の両脇にはレンガ造りの家が立ち並んでいる。この世界の一般的な構造物は、大抵がレンガ造りだ。
「お、お嬢様、痛いっ、ですぅ」
グリアムの悲痛な叫びも聞いている暇がない。持てるだけの体力を使い、走り、走り、走る。
すぐ背後からは魔犬のけたたましい鳴き声が聞こえ、それに驚いて住民達が窓を開けてこちらを見下ろしては、「わっ」とか「ぎゃっ」とか声を上げていた。
どこまでも道はまっすぐで、曲がる所が見当たらない。「これじゃあ追われるままだ。どうしよう……」足を止めないままで辺りを見回す。が、やはり一本道だし、隠れられそうな所もなかった。
このままでは、そのうちに体力が尽きて捕まってしまうだろう。震えるグリアムを引き摺り続けながら、そんな懸念をニユは抱く。
それを分かってだろうか。必死で駆けながら、少年が叫んだ。「俺から離れろっ。そうしたらこいつらはお前達を追って来ない!」
「じゃあ」
彼の言葉が本当であれば、魔犬達が狙っているのはニユとグリアムではなく、少年に違いない。
だからと言ってニユ達に無害だとは思えないが、少年から離れれば逃れられるという事だ。
が、その時。
T字路が、突然にニユの目の前に現れた。
どちらに曲がろうかと目を走らせた彼女は、あ、と小さく声を上げる。
どちらにも、魔犬が待ち構えていたのだ。
それぞれ五十匹ずつぐらいだろうか。つまり、逃げ道を完全に塞がれたという訳だ。
困った事になった。
悔しげに唇を噛んで、黒髪の少年はニユを見つめた。「お前達は逃げろ。俺が引き付けるから」
そしてそう言うなり、左側の道へと駆けて行った。
「……。お嬢様、早く逃げて下さいで……。わっ、お嬢様!?」
逃げようと申し出たグリアム。だが言い終わる前にその声は悲鳴へと変わる。
ニユが彼女を道路にほっぽり出した為だ。
グリアムを残して、ニユはT字路の左側に全速力で曲がって行く。
見知らぬ少年だ。助ける義理はないし、グリアムのように逃げる選択をするのが正常なのかも知れない。
でもニユは、彼を囮にして自分達だけ助かる事は、許せなかった。
何故なら彼女は『お人好し』だからである。
困った人がいたら放って置けない。泣いている人を見たら励まさずにはいられない。命の危険がある人を、助けずにはいられない。
それが、ドッゼル王国男爵令嬢、ニユなのだ。
「お嬢様っ」直後、メイドの少女の悲痛な叫び声が路地裏に響いていた。