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⑻『批評雑考』
⑻『批評雑考』
㈠
所謂、雑考という、簡単で難しい内容に、自然と執筆が進む時、脳内の思考は極自然に動いている。理論ではない訳だから、その自然さとは、理論とは桁違いなのである。誰が的外れだ、何だ、と言おうと、雑考の執筆者の文章は、寧ろ、的外れだらけである。それで事は足りるのである。
㈡
この、的外れとは、一言で言えば、意味をなさない、という言語に近い。つまり、雑考とは快適なのであって、誰にも何とも言わせないのである。そしてまた、それが批評だ、と言うことになれば、尚更、創造ではなく、対象の明解だから、快適を通り越して、意味不明とまで、言われるだろう。
㈢
しかし、確かに、それを聞くものからすれば、何と快適なことを、と言う感想を持つ訳である。これは、誠に自然な感覚であって、独創性を持つならば、意味の雑考とでも言えば、自然であろうか。世界には、沢山の雑考があるので、我々は、それを見聞きする時、今一度、その執筆姿勢を確認せねばなるまい。