仮初の人生
漠然と現状を鑑みて、僕は何をしているのだろうかと疑問符を浮かべた。
河川敷に寝転び川を眺めていると、如何にも物思いに耽っているようだが、その実、僕の頭の中には何もなかった。その昔神様は人間のことを草に例えたというのを聞いたことがあるが、おそらく神様は今の僕のような人間を見ていたに違いない。
否、ゆらゆらと漂う海藻にも劣る生産性しか見出せない僕では、草にも失礼というものだろう。
「はぁ。」
意味のない溜息が零れる。僕の体に取り込まれていた酸素が反旗を翻し、二酸化炭素という進化を遂げて、夜中の暴走族のように空中へ駆けて行った。突っ張ることがたった一つの勲章だと感じたことはないが、今なら土曜の夜の天使にでもなれそうだと、益体のないことを考えて鼻で笑った。そもそも運転免許も持っていない僕がバイクを暴走させたところで、それは只の事故だ。仮にバイクが真っ直ぐ走ったとしても、交番の青服のお兄さん達に説教をされて両親を呼ばれている図しか浮かばない。勿論その時の僕の顔は、お兄さん達の服の色より濃い色になっていると想像される。
虚しくなってきたので、考えを切り替えよう。こういう時はもっと明るい将来を思い浮かべるとよいとテレビで言っていた。
そうだ。もし宝くじで2億円が当たったらというのを考えるのはどうだろうか。いや待てよ。よく考えたら宝くじでなくてもよいのではないか。確か宝くじの還元率は、50%程度だったはずだ。ならばあまり現実的とは言えない。それならば身近なパチスロが良いだろう。幸い田舎には広い敷地が空いているので、大型店舗は作り易く、あちらこちらで新台入れ替えの旗がはためいている。早朝から並んでいる人たちを思い浮かべ自分に置き換えると、思っていたより違和感を覚えない。人生で一度も入店したことはないが、なかなか様になっているではないか。
ニヤニヤと口角を上げていると、通りすがりの同じ高校の生徒と目が合った。僕は急いで口元を覆った。同級生かもしれない彼女は速足で駆けて行った。僕は傷ついた。
よくよく考えると、当たった金額を想定していなかったことを思い出し、目線を川へ戻した。いつもよりぼやけた視界で川を眺めていると、大金は当たる訳がないと思えてくる。ギャンブルに出掛ける兄がいつも何を持って帰ってきているか。そう、お菓子くらいのものではないか。僕が思っているほどリターンの多いものではないのだろう。もし、札束を積めるようなものであればそれを生業にしているプロフェッショナルがいてもおかしくない。残念ながら僕はそんな人たちを知らない。動画サイトやテレビの深夜放送でそれっぽい人たちを見たことある気もするが、知らないったら知らないのだ。
「へんっ。」
気の抜けたような声を出して、そこらから千切った草を投げてみた。草の逆襲は早く、風に吹かれて僕の顔に飛来した。辛酸をなめるとはこのことだろう。口に広がる青臭いフレイバーと痛めた肩が五臓六腑に染み渡った。
これを機に運動を始めてみるというのは、一つの手かもしれない。大体平均的な中肉中背の成人男性が草を投げたくらいで肩を壊すのはどうなんだ。何から始めるのが最適だろうか。やはりキャッチボールが良いのではないか。自分の子供とキャッチボールをしているところを夢想し、ほっこりした。これは良い。思い立ったが吉日と行きたかったが、そもそも自分に子供はいないし、恋人すらいない。あれよあれよと思い返せば友人すらも数える程度だ。なぜか無性に悲しくなった。よく考えると、肩を壊すからどうだというのだ。プロ野球選手や高校球児が肩を壊すのとは訳が違う。僕が肩を壊したところで、仕事が少しし辛くなる程度ではないか。タスク管理表で優先度を設定するならば、低に値する。なんだ不要ではないか。危うく無駄な行動を起こすところだった。リスクを管理せずに行動して良いのは、学生までだ。これが大人の考えというものである。
得意げに鼻を鳴らすと、僕は立ち上がった。赤く染まった夕日がいつの間にか沈もうとしている。尻についた因縁のある草ぐさは、手で叩くと抵抗もなく地面に散った。
「なんだ。」
一言だけぼそりと呟く。胸が満たされていく感覚に襲われる。こんな感覚にならばいくら襲われてもよい。今日からマゾヒストを目指そうか。
歩き出した一歩はいつもよりも軽快で、迷いはなかった。
家の帰る道中、ふと唐突に自宅の冷蔵庫に備蓄がないことを思い出した。恨めしいことに、部屋に据え置きだった冷蔵庫は、ペットボトルを数本入れると満腹を訴えるぶりっ子だったのだ。これは、一生水だけ飲んでいろという神からの啓示などではなく、単純にスペースの節約のためだろう。随分と前になるが、この部屋を勧めてきた不動産屋は、内心では笑いをこらえていたのだろうか。いや何も考えていなかった気もする。というより、たかが一顧客のことなど覚える価値のないようなものだろう。覚えてもらうには、僕の年収の桁数がもう1つは増えないといけないが、この年齢で今更出世コースに乗れよう筈もない。
スーパーマーケットに辿り着く頃には、特売を逃した主婦のように気が滅入っていた。自暴自棄になりながらも、肩がぶつかった男性には、小声で謝り頭を下げた。爽やかに手を振る彼は、どうも気持ちの良い人間だった。自分もそうなっていればなと目を窄めながら、店内に足を進め始めたとき、彼とその息子がこんな話を始めた。
「お父さん。明日は公園行きたい。」
「いいね。グローブを持って行ってキャッチボールでもしようか。」
通り過ぎていく親子を横目に、僕はかごを元に戻して退店した。
帰りしなにチェーン店の牛丼屋に寄って夕食を済まし、帰宅すると、僕は天井を眺めた。天井はいつもよりも低く感じて、圧迫感すら覚える。やり場のない気持ちが虚しく漂う。こんな日は早めに就寝するに限るのだ。敷いた煎餅布団が通常よりも冷たかった。年を取ると基礎代謝が下がり、それに伴い体温も下がると聞いたことがある。だがきっとそれだけではないはずだ。体が温かさを忘れるというのは、もっと意味があるのだと思いたい。
中々寝入る事ができずスマートフォンの電源ボタンを押す。時刻は、23時を示していた。最近は朝も4時くらいには目が覚めてしまうため、このままでは5時間も眠れないことになる。寝ることにも体力が必要なのだ。随分と薄くなった頭を撫でながら適当にスマートフォンを弄っていると、終活だの葬儀だのネガティブな単語ばかりが目に入る。テレビで見た同年代のご意見番が言うには、死ぬのにもお金がかかるらしい。
僕の場合だとどうなるのだろうか。今では小煩くも説教してくれた両親は随分前に墓の下だ。頼れる親戚も存在しないことを考えると、恐らく今流行りの孤独死というやつで、果ては無縁仏ということだろうか。数少ない友人達は、どうしているのだろうか。もしかすると僕が知らないだけで既に孫までこさえて家族に囲まれているかもしれない。そう思えば長らく友人達に会っていない気がする。いや思い出した。みんな結婚して家庭が出来て、遊ぶ時間が無くなって、自然と会わなくなったのだ。それだけではなく自ら拒んだ気がする。妻の愚痴や子供の進路について話す彼らが今までと別人に見えて、自ら拒絶したのだ。どうして忘れていたのだろうか。
僕は手に持ったスマートフォンで開いていたブラウザを閉じた。そして電源を落とすと、そこには此方を睨み付ける虚ろな目をした老人が写っていた。慌ててスマートフォンを投げると、投げた手もしわくちゃになっていたことに気付く。
ふと視界に入った黄ばんだ枕には、白い抜け毛が広がっている。
急に不安や恐怖に襲われて頭を抱える。もう抵抗する力の残っていない五臓六腑に染み渡ると、何もかもが真っ白になった。そんな時に若い時に漠然と考えていた問いの答えが分かった気がした。
判然と現状を鑑みて、僕は何もしていなかったのだろうと。