第7話 斉藤さんは名残惜しい
斉藤さんは履いていたデニムが汚れるのもお構い無しで、膝をつくと「ボク」を抱えあげました。「ボク」は嫌がるでもなく、斉藤さんのことをじっと見つめています。窪田さんは急に「ボク」を抱えた斉藤さんにビックリしていましたが、斉藤さんが「ボク」のことを可愛がっていたことは十分に知っています。腕時計を見ると、小さく笑みを浮かべてベンチへ座りました。斉藤さんは、語りかけるでもなく「ボク」のことをしばらく撫でていましたが、窪田さんの方を振り向くと泣きそうな顔をして小声で言いました。
「次の会社が決まったから、もう「ボク」と…お別れ…しなくちゃですね」
そういって無理やり笑顔を作った斉藤さんの瞳の奥底には、寂しさ、悲しさが淀んでいるように見えました。窪田さんは、ただ黙って斉藤さんの話を聞いていました。「ボク」は、斉藤さんを黙って見つめます。やがて、斉藤さんはすっくと立ち上がり、笑顔のまま「ボク」に語りかけました。
「ねぇボク…わたし、今の会社辞めることになったんだ…ボクと会えるのも、あとちょっとだけど…辞めるまで、公園来てもいいよね?」
「ボク」が斉藤さんの言ったことを理解したかはわかりません。ですが、「ボク」は斉藤さんを見上げると、顔をくしゃくしゃとこすって柔らかな表情で一言鳴き声を上げました。
「ニャーア!」
斉藤さんの退職交渉は、あっけないほどにトントン表紙に進みました。もともと営業部から異動になり引き継ぎを終えたばかりの斉藤さんは、人事としての業務は数えるほどしかありません。退職を告げてから実際の退職に至るまでは、最低でも1ヶ月ほどかかるのが一般的です。ところが、斉藤さんの退職日は有給休暇も加味するとわずか10日ほど後という、本人も驚くほど間近に迫っていました。
「ほぉほぉ…ご退職なさるんですか…それは奇遇ですねぇ」
「奇遇!?」
翌日の昼、公園へやってきた清掃員の清水さんに退職を告げると、清水さんの口からは予想もしなかった言葉が返ってきました。
「えぇ。もう5年前に退職はしているんですけどね、再任用でしばらくは働いてきたんですよ。ただねぇ、もうこんな歳ですから…もう仕事は辞めて、のんびりと余生を過ごそうっちゅうわけです。それに――」
清水さんが、いつも斉藤さんがやってくる方向とは別の入口を指さします。斉藤さんは、何かに気づいて入口に駆け寄ります。掲示板の張り紙をみて、斉藤さんは思わず息を飲みました。
『大黒天南山公園廃止に関する告示』
「ええっ!?」
斉藤さんが思わず悲しげに叫び声を上げると、清水さんも残念そうに張り紙を見つめます。
「すぐ裏には、ちょっと前まで小学校があったんですけどね。こんなご時世ですから、児童数が少なくなって廃校になった。この公園も廃止にして、数年後には東口にある渋原区立のスポーツセンターを移転して新築するんだそうです。確かに、人の少ない公園ではあったものの…こういった子たちの行き場が無くなってしまうと思うと、なんとも可哀想なもんですねぇ」
そう言って清水さんは、帽子を一度脱いで目深に被り直し、足元にいた「ボク」の背を撫でると口元を歪めてため息をつきました。
「最近じゃあ野良猫の数が増えるのを嫌う輩がいるのか、この道路を挟んだ方ですけど、毒餌を撒いたのがいるそうです…昔は商店街にも人が沢山いて、人情のあるいい街だったんですがねぇ…いつから、こんなに荒んでしまったのか」
清水さんの言葉に斉藤さんも視線を落とし、ただ「ボク」のことを撫でるしかありませんでした。
斉藤さんの最終出勤日はあっという間にやって来て、社内へのあいさつ回り、かつての得意先の担当さんへの連絡などと、慌ただしく過ぎていきました。人事本部だけでなく、移動前に過ごした営業本部の同僚へもお菓子を持ち、挨拶を交わした斉藤さんでしたが、2年ちょっとを過ごした社内はどこか冷たく感じました。退職を決めてからこの日までの時間が短かったこともあり、送別会をしてくれる同僚もいませんでした。夕方の6時が近づき、パソコンを閉じると斉藤さんはオフィスの真ん中へと歩いていきます。総務の先輩にマイクを渡された斉藤さんは、退職の挨拶を始めました。
「えー…お疲れ様です」
挨拶を口にしながら、斉藤さんはオフィスを左から右へゆっくりと眺めていきます。外の企業へ営業電話をする社員、隣同士でおしゃべりをする社員。身体は斉藤さんの方へ向けていても、パソコンの画面が気になっている社員。斉藤さんの挨拶を聞いている社員は、わずかに思えました。途中から、斉藤さんは何を喋ったのかは覚えていませんでした。
「ありがとうございました!」
そう切り上げると、斉藤さんは頭を下げて自分の机へ戻っていきました。わずかに起こった拍手を切り上げる合図のように、総務の先輩の声が聞こえます。
「ありがとうございました。以上で斉藤さんの退職の挨拶を終わります―――」
「すみません、最終日までお付き合いいただいて」
斉藤さんは恐縮した様子で、窪田さんに頭を下げます。職場を出た斉藤さんは、窪田さんを誘って食事へとやって来ていました。まだ、自粛生活が明けて間もなく、お店には人が多くはありません。窪田さんはトングを手にとって料理を取り分けると、笑顔を見せました。
「いいんだよ、せっかく最後の日なんだから。ごめんね、俺が送別会とかセッティングできればよかったんだけど」
斉藤さんは、少し寂しげに笑顔を浮かべました。
「いえ…この時期はみんな忙しいですし、わたしの退職も急だったので…」
そこまで言うと、手元のグラスを取り、一気に窪田さんが注文した赤ワインを飲み干しました。
「さっ、サナコちゃん、そんな一気に行って大丈夫!?」
「大丈夫でっす! わたし、これでも新卒の頃から数え切れないぐらい接待に行って、アホみたいにぐびぐびぐびぐび飲んできたんですっ! おかわりっ!」
斉藤さんは、窪田さんの目の前に空のグラスを突き出しました。窪田さんは一瞬躊躇しましたが、観念したのか斉藤さんのグラスにさらにワインを注ぐと、自分のグラスも手に取り、同じようにぐいっと飲み干しました。
「わかった。今日は最後まで付き合うよ…お疲れ様! 乾杯!」
夜の10時を過ぎようかという頃、ふたりはふらふらとした足取りで店から出てきました。
「窪田さん…ごちそうさまでし、たっ! ウッ」
「ほら、サナコちゃんそんなとこ歩いてたら危ない…うわわわぁっ」
ふたりは商店街を駅の方向へ向かおうとしましたが、背の高い窪田さんがバランスを崩してふらつくと、思わず斉藤さんは手を伸ばして窪田さんを受け止めようとしました。しかし、30センチ近くも背の高い窪田さんのことを受け止められるはずもなく、すでに閉まっている店のシャッターにぶつかり、窪田さんは斉藤さんに覆いかぶさるように倒れ込んでしまいました。
「うわッ…」
「窪田さん…」
ふたりの距離は、今までにないくらい近づいていました。窪田さんはお酒のせいで紅潮した顔をさらに赤らめ、窪田さんに思わず詫びました。
「あぁっ、ゴメン! 申し訳ない! 今すぐどくか…」
窪田さんがそう言い終わる前に、斉藤さんは手を伸ばし、斉藤さんの腕を掴みます。その勢いで立ち上がると、そのまま窪田さんのことを抱き寄せました。
「サナコちゃん!?」
窪田さんは驚きましたが、斉藤さんは窪田さんのことをじっと見つめるとつぶやきました。
「窪田さん…帰らないでください」
「サナコちゃん」
「…離さないでください」
斉藤さんがそこまで言うと、窪田さんの大きな背中が音もなく屈み、斉藤さんの背中を包みました。斉藤さんは手に持っていた花束を落としてしまいましたが、それに気づくこともなく、ふたりはしばしの間その場所に留まっていました。
斉藤さんも窪田さんも、この時ふたりの後ろを「ボク」が通り過ぎたことに気づくことはありませんでした。
<つづく>