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第5話 斉藤さんは時間がない

「ボク」は、視線を離そうとせず、斉藤さんの目をじっと見つめていました。斉藤さんは、同じように「ボク」の顔をまじまじと見つめました。「ボク」は鳴くでもなく、ただじっと座っています。斉藤さんはひとつ大きく深呼吸をすると、小さく数回首を横に振りました。


(ダメだダメだ…こんな時まで…ボクに頼ったら…)


 斉藤さんは歯を食いしばると、すっくとベンチを立ち、「ボク」に告げました。


「ボクありがと、あたし行って来るよ」


斉藤さんはそう言って「ボク」の頭を撫で、小走りで公園を出ていきました。「ボク」は、去っていく斉藤さんの後ろ姿をずっと見つめています。




「早退?」


 直属の上司の怪訝な表情に、斉藤さんは申し訳無さそうに口を開きました。


「昼ごろから体調が…通院しようと思うので、お休みを頂ければと…16時からの定例ミーティング、欠席することになり申し訳ございません」


「…わかった。帰っていいよ」


 斉藤さんは頭を下げると、座席の荷物を片付けて席を立ちました。去り際に、上司が何かをわざと聞こえる程度の声で言ったようですが、斉藤さんにそれを気にする時間はありませんでした。その様子に、通路を挟んで隣のチームにいる窪田さんも気づき顔を上げると、斉藤さんはバッグを下げて足早に退勤してきました。


(…サナコちゃん?)




 夜の8時を過ぎ、賑わいを取り戻した西口商店街には多くの人が行き交っています。残業を切り上げた窪田さんは、駅の方向へと急ぎ足で歩を進めていました。すると、中華料理屋の裏手から見慣れたネコが飛び出してきたのを見つけました。


「あっ…」


声をあげると、窪田さんはサッとそのネコに近づいて声をかけます。


「えーっと…タマ、そこの…タマ」


タマと呼ばれたその野良ネコ――「ボク」は、怪訝そうな表情をして窪田さんを睨むように見つめました。その憮然とした表情に、窪田さんは名前を間違えたことに気づくと気まずそうな顔で頭を下げると問いかけました。


「ゴメン…えーと、ボク、今日の夕方以降サナコちゃん見なかったか?」


 そう訊ねる窪田さんを見上げて、「ボク」は低い声でゆっくりと鳴きました。


「ニャアーーオ…」


 まるで「そんなの知らん」とでも言いたげな様子を察したのか、窪田さんは申し訳無さそうに頭を下げました。


「そ、そうだよな、ゴメン、変なこと聞いた」


気まずそうに駅の方向へ去っていく窪田さんを見て、「ボク」は一瞬ニヤリとしたように見えましたが、そのまま踵を返すと「肉屋のさとう」の方へと向かっていきました。




 会社を早退し最終面接へ向かった斉藤さんは、2時間近い面接に疲れたのか、大手門の駅から緑とオレンジの帯の電車に乗ると、座席に座った途端目を閉じて寝てしまいました。




 斉藤さんは、かつて飼っていたボクという名の猫のことを夢に見ていました。それは、ボクの命が尽きた冬の日の朝のことでした。朝、斉藤さんを呼ぶお母さんの声で目覚めると、お母さんは泣きながらボクを抱いて、斉藤さんが寝ている2階の部屋へとやって来ました。


「佐那子、ボクが、ボクが…!」


 朝、お母さんが起きてリビングへ向かうと、ケージの中に寝ていたボクはぐったりと倒れていました。ただボクが寝ているわけではないということは、普段早朝から起きているはずのボクが目覚めていないこと、ボクの周囲には寝ている間に吐いてしまったものが散乱していたことからも明らかでした。お母さんはボクを斉藤さんに託すと、携帯電話を取り出し動物病院へと電話をはじめました。


 そこから、斉藤さんの記憶は細切れのように脳裏をよぎりました。ボクを抱きながら雪の降る道を動物病院へと向かったこと。診察室へと運ばれていったボクの姿を思いながら、お母さんと診察室でさめざめと泣いたこと――


 そして次の瞬間、斉藤さんの記憶は、ほの暗い部屋で色とりどりの花に囲まれて眠るボクの姿で終わっています。




「……!」


 電車の中で目を覚ました斉藤さんは、寝ているうちに涙を流していました。斉藤さんのすぐ横に座っていた老婦人が、心配したのか斉藤さんにハンカチを渡そうとします。斉藤さんは笑顔を作ってそれを丁重に断ると、涙を拭って車内の行き先案内を見上げました。


『次は 戸津川』


「…あっ!」


 斉藤さんは、本来ならば箱浜という駅で下りなければいけません。寝過ごしてしまった斉藤さんは、実家のある戸津川まで電車に乗り続けることになりました。席を立つと、先日窪田さんに見せた元気だった頃のボクの写真を選びました。先程の夢を思い出し、斉藤さんは胸の奥をグッと掴まれたような苦しい気持ちになりました。ようやく戸津川の駅に着くと、斉藤さんは反対側の電車に乗らずに改札を出ました。


(ボク…!)


 今夜は実家に戻ることにした斉藤さんは、かつてボクと散歩した戸津川の街並みを歩きながら、ボクのことを思い出して涙をこぼしていました。




 次の日曜日、大黒天西口商店街には「肉屋のさとう」を訪ねる斉藤さんの姿がありました。斉藤さんはコロッケを買い込むと、奥さんへ声を掛けました。奥さんは突然のことに驚いたようでしたが、いつも「ボク」がやってくる店の外へと出ると、前掛けを外して斉藤さんの話に耳を傾けました。


「ボクを飼うの?」


「はい…ただ、ボクはこの街の皆さんにとても愛されてる子だと思うので、わたしひとりが決めて良いことではないかなと思い…奥さんに」


 斉藤さんは、野良ネコの「ボク」を飼う決意を秘めて、わざわざ日曜日にも関わらず西口商店街へとやって来ていました。奥さんは一瞬考え込むような仕草を見せましたが、斉藤さんの方を向き直ると口を開きました。


「確かにボクは人懐っこいし街のみんなも知った子だけど、お姉ちゃんが飼いたいんならそのことは誰も異論はないと思うよ。ボクは野良ネコだからね。ただ…」


「ただ…?」


斉藤さんは、おそるおそる奥さんに訊ねました。夏の雲が空を覆い、少し肌寒いほどの風が商店街を通り抜けます。斉藤さんは思わず腕を手で覆いました。奥さんは、優しい眼差しで斉藤さんに語りかけます。


「最後にそれを決めるのはボクだからね。ボクに会いに行って、まずはボクの気持ちを確かめてからじゃないかな。この時間なら公園にいるだろう」


そういって奥さんは再び店の奥に戻ると、バットから揚げたてのコロッケをひとつ包んで斉藤さんに手渡しました。


「ほら、もう一つおまけ。揚げたてが大好きだからさ、これも持ってってあげな」


緊張で強張っていた斉藤さんの顔に、パッと明るさが戻りました。


「奥さん…ありがとうございます!」




 気づけば、時計の針は11時半を指そうとしていました。いつも昼休みに訪れる時間帯に比べてやや早いタイミングでしたが、斉藤さんが公園に足を踏み入れると、紫陽花の植え込みから「ボク」は姿を現しました。


「ボク、おいで、コロッケあるよ」


 「肉屋のさとう」のビニール袋から小分けのコロッケを取り出すと、「ボク」の表情が明るくなったように見えました。「ボク」がコロッケにありつこうとしたその時、斉藤さんの頬にぽつりと落ちるものを感じました。


「雨だ…」


 斉藤さんは折りたたみ傘を取り出して広げると、コロッケを持って木陰のベンチへ移動しました。「ボク」は揚げたてのコロッケを美味しそうに食べています。「ボク」がコロッケを食べ終わるのを見計らうと、斉藤さんは声をかけました。


「ボク」


 その声に振り向き、「ボク」は首を傾げたように見えました。目が合ったのを確かめるように、斉藤さんは静かに切り出します。


「ねぇ、ボク」


 「ボク」は、いつものように斉藤さんをじっと見つめています。斉藤さんは意を決して、「ボク」に思いを伝えようと口を開きました。


「ボク、わたしと一緒に住もう? …家族になろう?」


 斉藤さんの言葉はストレートでした。「ボク」は、斉藤さんの言葉にしばらくその場で留まっていましたが、


「あっ」


 斉藤さんが声をあげました。「ボク」はくるりと背を向けるとフェンスを上り、距離のあるところから斉藤さんを見つめています。斉藤さんは、すぐには声が出ませんでした。予想していたことではありますが、「ボク」には、今斉藤さんと一緒に暮らすという選択肢はないように思えました。


「ボク…ダメかな…?」


 斉藤さんが小さな声で訊ねると、「ボク」は去っていってしまいました。斉藤さんは、「ボク」が去っていった方向を呆然と見つめています。


 雨は強さを増し、斉藤さんには小さな公園が灰色の景色をしているように見えました。



<つづく>

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