どうして私はステータスを好きになれないのか?
まずはじめに、なろうのステータスとは何だろうか?
王様「攻撃力10000000000000000000だと!?」
主人公「大したことじゃないよ(ドヤァ)」
取り巻き「さすが主人公だぜ、半端ねえ!」
姫「素敵抱いて!」
だいたいこんなところである。異論は認める。
もちろんこんなふざけたものばかりではなく、もっとまともなものもあるだろう。
だが、強さを数値で表現するというのは変わらない。
そんななろうにおけるステータス表示を、私はどうにも好きになれない。
数年前に「作者の好きなように小説書けよ!(意訳)」という内容のエッセイを書いておきながら、いざそれを読むとなるとこれである。
スタンスは今でも変わっていないが、好きなように書いたであろうステータス表示だけはどうも好きになれない。
改めて、ステータスとは何かを考えてみる。
ステータスとは、強さを数字で表したものである。
たとえば、
名前:鳳凰院聖牙
職業:勇者
称号:神に愛されし者
レベル:1
攻撃力:10000000000000000000
防御力:10000000000000000000
素早さ:10000000000000000000
こんなステータスを持ってる奴がいれば、こいつは強いんだろうと理解しやすい。
「平均ステータスは100だ!」とか言わせておけば更にわかりやすい。
それはわかる。わかるのだが、この時点で私はギブアップだ。とりあえず一話を読んでみて、ブラウザの閉じるボタンにカーソルが吸い込まれる。
ステータスと同じようなものは何かと言われれば、私はドラゴンボールのスカウターを思い出す。
スカウターを見て「戦闘力が上がっていくだと……」とか言わせておけば、何だかとても強そうだ。
「私の戦闘力は53万です」なんて言われたときにはガクブルするしかない。どうやって勝つんだこんな奴。
それに私は拒否感を持たない。何故なら、ドラゴンボールの強さを数値化する、というものには説得力があるからだ。
ドラゴンボールでは、気という概念が初期から説明されている。そしてスカウターが登場したあたりで、気の上昇に従い、戦闘力が上昇するという描写がされている。
つまり、気の大きさ=戦闘力という図式ができている。スカウターとは気の大きさを調べる機械なのだということもそこから理解できる。
気の大きさをスカウターの機能で数値化したもの。それが戦闘力だ。実にわかりやすく、納得できる。
もっとも、そのスカウターもフリーザ編終了に伴いなくなってしまったが。
強さを数値化するというのは、難しいことなのだろう。
では、なろうのステータスはどうか?
ドラクエとかFFのように、レベルとか攻撃力とか防御力とか、RPGゲームでよく見るような項目が並んでいる。
それをイメージすれば、この数値が高ければ強いと言うのはわかる。しかし、納得はできない。
そこまで考えて、私はなろうのステータスには根拠が無いから納得できず、好きになれないのだと気がついた。
HPが高ければ首を切られても死なないのか?
上級魔法はMPが足りないと使えないのか? 魔力を注ぎ込む量を調整できないのか?
攻撃力は何で決まる? 筋力か? 攻撃力が高いのにそれは体の見た目に反映されないのか?
防御力が高ければ、体が鉄より固くなるのか? 銃弾の弾き返すのか?
ごくごくありふれた疑問だと思うが、そんな細かいことが気になって私はなろうのステータスを好きになれないらしい。
ガバガバでも、ツッコミどころ満載でも、とにかく説得力のある説明があれば、ステータスについても納得できるのだろう。
たとえば、HPとは人が自然と纏っているシールド的な何かの量であるとか、攻撃力とは神からの能力補正を表したもの(ようは神様からのバフだ)だから見た目はそのままなんだとか、そういった説明があればそういうものだと納得できそうだ。
男塾の強引な説明を見ながら、ここではそうなんだと強引に納得している私だ。きっと納得できるだろう。
それがなければ、なろうのステータスはゲームと同じものでしかない。
強さを数値にしたのではなく、数値が強さになっているのだ。
デジタル世界を強引にアナログな文章で表されても、私は違和感しか感じない。
だから、私はステータスを好きになれないのだろう。