07 セピアシンドローム
少し短いかもしれません、すみません。
「ねえ冬弥、お母さんはちっとも不幸せなんかじゃなかったのよ。」
黄金色に染まる部屋の中で二人分の影が落ちている。
窓から見える大きなイチョウの木はもう半分も木枯らしにその葉をさらわれた後だった。
「もうすぐあなたの季節ね。誕生日、何か欲しいものはある?」
眩しい夕陽に照らされベッドもシーツも、母のその白い頬さえも全てが眩しく見え、そのまま今すぐ消えてしまうのではないかという不安に駆られる。
「わたし、なにもいらないわ。おかあさんが元気になればそれでいいの。」
わたしが母の袖をきゅっと握ると弱々しい力で母も握り返してくれた。
「おかあさんはもっとたくさん幸せにならないといけないの。」
冬弥は同じ年代の子と比べるとあまりにも聡すぎる子だった。
母の行く末がわかってしまうほどに。
「だからね、この前もテストでいちばんを取ったし、運動会でもたくさん頑張っていろんな種目でいちばんになったんだよ。わたしが頑張ればその分だけおかあさんも楽になれるわ。」
母の見ることのなかった運動会、それでもたくさん頑張ってきたのだ。
母のかわりにわたしが頑張ればその分だけ母は楽になれる、幸せになれる、わたしがおかあさんを幸せにしてあげるんだ。
たまらなくなって母はその小さな我が子の頭を抱き寄せた。
「あなたはこれからあなたの道を生きていけばいいの。お母さんのためでも他の誰のためでもない、冬弥のために。」
わたしのために?
そんなの可笑しい、だってわたしの幸せは...。
ごめんね、とわたしの耳元で母が涙ながらに呟いた。
どうして泣いているんだろう、どうして母は笑ってくれないんだろう。
自分の不甲斐なさにわたしも一緒になって泣いてしまった。
「もう泣かなくていいんだよ、冬弥。」
はっと目を覚ますとあの菫色の瞳がこちらを覗いている。
ゆっくりと顔を上げると頬に冷たい雫が流れるのがわかった。
目の前の彼は壊れ物を扱うようにその涙をぬぐってくれる。
「...変態。」
「人聞きが悪いね、随分うなされてたみたいだけど大丈夫?」
椅子に深く腰掛け直すと冬弥は瞑目した。
「ひどく、懐かしい夢を見ていた気がするの。」
あの衝撃的なエルの初登校日から数日が経ち、周囲は落ち着きを取り戻し始めていた。
黒田君とのエルのお世話係は引き続き続行せざるを得ない状況だったが、やっと時間が作れたのでこの日は放課後に図書館へ寄って勉強していたのだ。
息抜きに二階の窓際に設置されているソファで小説を読んでいたらいつの間にか寝てしまったというわけだ。
ここ最近色々なことがありすぎて少し疲れているのかもしれない。
「どんな夢だったの。」
エルは幾分か落ち着いた様子の冬弥を見て窓際に腰掛けた。
陽は彼方に沈もうとしていて空を様々な色に染め上げている。いちばん奥に見えるのは金色の空。
「よく、思い出せないの。どうして泣いていたのかも。」
冬弥は首を振った。
その様子をエルは静かに伺っていたが、しばらくして口を開いた。
「疲れているのかもね、今日はもう帰った方がいい。下校時刻ももうすぐだ。」
時計を見上げれば針はもうすぐ六時を指そうとしている。
いけない、勉強の途中だった。
「そうね、大人しく家に帰るわ。」
エルと一緒に階段を降りるとテーブルに広げっぱなしの勉強道具を仕舞い始めた。
「あなたどうして図書館にいたの?」
「本を読みに来ただけだよ。誰もいないのにテーブルに君の勉強道具だけあったから探してみたら美しいお姫様が寝ていたってところかな。」
どうしてこう歯が浮くような台詞が出てくるのだろう、英国紳士とはこういうものなのだろうか。
「そう、恥ずかしいところを見せたわね。」
少し俯きながら冬弥がそう言うと図書館のドアを開けてくれたエルが振り返った。
「なにも恥ずかしいことなんかじゃない。」
急に真剣味を帯びた顔で言われる。
その目からは真意が読み取れなかった。
ああ、この目が私は苦手なのだ。
すぐに目を逸らすと図書館の鍵を取り出した。
「帰りましょう。」
眉一つ動かさず冬弥が言い放つと彼は大人しくついてきた。
「つれないね。」
冬弥は聞こえないふりをして図書館の重い扉に鍵を掛けた。