13 追憶の彼方
誰もが聞いたことがあるであろうエデンの園。
旧約聖書に出てくる理想郷である。
「詳しく勉強したことは無いけれど…。
それなりに話は知ってるわよ、とても有名だし。アダムとイブの話よね?」
「ああ。なんとなくその話が気に入っていてたまに夢を見るんだ。」
「夢…?」
ひどく懐かしがるようなそんな様子で彼は頷いく。
引き抜いた本はいつ寄贈されたのかわからないがとても古いように見えた。
「素晴らしい地上の楽園の夢を。」
冬弥はきょとんした顔を見せるとエルは爽やかに笑って見せた。
「あなた詩人にでもなったほうがいいわよ。」
「そうかもしれないね。まぁこんな感じで世界中に散りばめられている伝承を調べるのも好きなんだよ。」
いたずらに笑みを浮かべる彼に冬弥はため息をついた。
地上の楽園という響きは確かに悪くない。
それはとても幻想的で壮大で神秘的なものに思えた。
「エルはたまに、なんて言うのかしら。
こんな事言ったらまた笑われそうなんだけれど。」
彼は本を戻すと冬弥の隣に腰掛けた。
それで?と促すような視線を送ってくる。
全てを見透かしているようなあの目が、冬弥をやはりどこか落ち着かない気持ちにさせた。
「いいよ、笑わないから言ってごらん。」
「たまに全部知っているんじゃないかって思う時があるわ。」
冬弥はまっすぐにその菫色の目を見つめた。
見透かしているような瞳は未だに視線を逸らさずにいて、二人の視線は絡み合いお互いの息の音まで聞こえてくるようであった。
「やっぱり冬弥は面白いよ。」
そう答えたエルの瞳は何故かこれまでにないぐらい輝きを増した気がした。
宝石の中でチカチカと小さな光の粒が流れていくようなそんな星の瞬きのような一瞬に冬弥は不覚にも目が離せないでいた。
「僕は全部知ってるよ。」
「あなたもたまには面白いじゃない。」
「失礼だなぁ。最初に言ってきたのは君だろう?」
一瞬煌めいたように見えた瞳はもういつもの悪戯な笑みに戻っていて冬弥はゆっくりと視線を外した。
「そろそろバイトの時間だから帰るわ。」
「僕はもう少しここにいるよ。また明日ね。」
「ええ、また明日。」
冬弥は階段を軽やかに駆け下り図書館をあとにした。
全てを知っている。
どうして自分がそう思ったのか、また何を全部知っているのか、詳しいことはよく分からない。
けれどどうしてかエルは全部を知っているとそう感じた。
よくよく考えればあまりにも突拍子も無い話しである。
それでも私は彼が全てを知っているような気がしたのだ。
なにを、と聞かれれば全てを。としか考えられない。
ありとあらゆるもののその答えを。
だからこそあの目が苦手なのである。
他の女子達はあの目が素敵で魅力的だと話しているのを聞いたことがある。
しかし私にとってはきっと本能的にあの目を避けなければと感じ取っている。
それはなんて恐ろしい話だろう。
そんなことある筈もないのに私はバイト先までの道のりでエルがとんでもない人物なのではないかという気がしてならなかったのだ。
翌日から、やはり冬弥の予言通りになり全てを知っているのは冬弥の方じゃないかとエルから八つ当たり的な文句を言われる羽目になるとはこの時まだ想像もしていなかった。
「とーや!!!!
ねえ下駄箱めっちゃ面白いことになってるよ!!!!」
今日もチャイムが鳴るギリギリに登校して来たあいは興奮した様子で冬弥に走り寄った。
「おはよう。
あいが言う面白いことって大体ろくなことじゃないわよ。」
本鈴が鳴るまで本を読んでいた冬弥は眉を寄せた。
「ひどすぎる!!!
正確にはエルの下駄箱が大変なことになってるんだよー!」
大変なこととは言いつつも本人はとてもとても楽しそうな顔である。
目が弧を描いていてなんとも言えない下衆な笑い方をしているのをきっとあいは気づいていないだろう。
「なんとなく予想は…」
冬弥が言い切る前に本鈴のチャイムと同時にエルがなにやらたくさんの紙の束を抱えて教室に入ってきた。
クラスメイトも若干くたびれたように見えるエルを哀れむように見守っている。
彼はよろよろと冬弥の後ろの席につくと紙の束を机に積み上げ深いため息をついた。
相変わらず古賀先生はHRにまだ来ない。
「冬弥、君の言っていた意味がわかったよ…。」
項垂れるエルを見下ろしながらあいは冷ややかに鼻で笑った。
「誰にでもニコニコするからなんじゃないの?
こんなにラブレター貰っちゃってどうするのさ。」
エルは学ランの襟元を正すといつもの爽やかな笑顔で答える。
「もちろん全部返事をするよ。」
この高く積み上げられた手紙全てに本気で返事をする気なのだろうか。
それがなにかと言わんばかりの様子の彼に冬弥は目を細めた。
「いやぁいつかこうなるんじゃないかとは思ってたけど、思ってたより時期が早かったね。」
黒田君が歩み寄ると手に持っていた紙袋をエルに渡した。
「これ持って帰るの大変だろうから使って。」
さすが委員長。紙袋まで余らせているとは。
冬弥は感心しながら昨日のことを思い出していた。
きっとあの少女の告白が皮切りだろう。
どこでその噂を聞きつけたのかは知らないがエルの下駄箱には大量の手紙が入っていた。
内容は告白もあればきっと呼び出すためのものもあるだろう。
堆く積み上げられた手紙の向こうでエルは少し困りながら笑っていた。
まるでどこかの少女漫画のような展開を見せる生活に冬弥は相変わらず振り回されていたのだ。