10 蒼穹に揺蕩う
本来学ぶために通う学校であるが好き好んで勉強したいですという生徒はほとんどいないと言って良いだろう。
定期テストは生徒達にとって壁でしかなく苦痛そのものであることが多いのだ。
そう、一部の生徒を除いて。
「あーーー待ちに待った身体測定と体力テストだよ!!」
あいは昨日までとはうってかわって血色のいい顔を冬弥に向けた。きっと帰ってすぐに寝て英気を養ったのだろう、今日の彼女は文字通り周りを蹴散らす勢いで意気込んでいた。
運動部や体力に自信がある者が輝けるイベントは年に数回しかない。挙げるとするならばまさにこの体力テスト、体育祭と球技大会だろう。
クラスを見渡せば皆もうジャージに着替え終わっており、朝のホームルームのチャイムを待っていた。
「張り切りすぎよ、怪我しないようにね。」
冬弥は自らの席まで遊びに来ていたあいに声をかけると、へーきへーきと彼女ははにかんだ。
実際彼女の身体能力には目を見張るものがあった。
周りからは派手ギャル体力馬鹿だなんて言われているがあくまで見た目の話しである。
見た目こそ化粧が濃く制服も着崩しているため派手に見えるが、あいは世間一般で言われている『ギャル』とは少しズレている気がした。
明るく誰にでも分け隔てなく話しかけるために人望も厚い。
何より昔から底知れぬ体力の持ち主で、冬弥も幼い頃競い合ったりしたのだが長距離では冬弥も彼女に勝つことはできなかったのである。
どんな競技をやらせても人並み以上にこなしてしまうオールラウンダー型の冬弥に並んで、あいもまた抜きん出た才能を持っていた。
「まーた部活の勧誘来ちゃうかな~!困るな~!」
得意げに髪の毛をまとめる彼女を見ながら冬弥は柔らかな目つきで微笑んだ。
あいも様々な部活からの勧誘が耐えないが面倒臭いといつも一蹴してしまう。
最初はいつも忙しく部活に入ることのできない自分を気にかけて断っていたのだと思い気にしなくていいと散々話してきたが、どうやら規則に則って組織的な集団で行動しないといけないのが本当に面倒臭いらしかった。
「おはよう、なんだか賑やかだね。」
ジャージに着替え終わったエルがやってきた。
学ランよりはましだが奇抜な緑色をした学校指定のジャージはやはり彼には似合わなかったが依然としてクラスメイトの視線を集めていた。
「ほんとジャージ似合わないね~。」
あけすけにあいは言うが彼は気にしていないようだった。
「あいは運動が得意みたいだね。さっき廊下で君と冬弥の噂を聞いたよ。」
誰がどう見てもちぐはぐなこの幼馴染みのコンビはこういう運動系のイベントごとになるとしばしば話題が持ち上がる。
エルは席に着くと冬弥の隣にいるあいを見上げるとクイと口角を上げてみせた。
何故か挑発的にも見える笑みを見せてふむと考え込む冬弥だったが隣のあいはふむでは済まなかったらしい。
「なぁに?買うよ?」
調子よく微笑んだあいだったがこれはいつもの笑顔ではない。
あの柏木花蓮にも向けたそれであることは冬弥も気づいていた。
これが彼女の弱点でもあるが、あいはいつもの雰囲気からは想像出来ないほど気が短くなることがある。
脊椎でものを考えているのではないかと思うほど考えが短絡的なのだ。
いつもそれで痛い目を見ているだろうと冬弥はため息をこぼした。
「僕は何も売ったつもりは無いけどね。」
「目は口ほどになんとかって日本語があるからよく勉強しときな。」
日本語のレベルに関してはどっこいどっこいだろうと冬弥は口走りそうになるが更なる混沌を招きそうなのでやめておいた。
「ほら~ホームルーム始めるぞー。」
チャイムと同時に入ってきた古賀先生により二人の笑顔の牽制は中断された。
午前中に体育館で身体測定が行われ、午後と翌日の午前にかけて体力テストが行われる。
授業が無いだけあって学校全体がどことなく騒がしい状況が続いていた。
「あ、冴木さんと木下さん。良かったら一緒にお昼どうかな。」
冬弥が振り向くと黒田君がなにやら書類を抱えてこちらにやって来るところだった。
「これ職員室へ運び終わったらお昼入れるんだ、誘っておいてなんだけど待っててもらえると嬉しいな。」
「手伝うよ~!古賀っちの机でしょ?冬弥は先に場所確保しといて~。」
あいは黒田君から半分ほど書類を奪うとよいしょと持ち直した。
「ごめんね、ありがとう。たぶん佐倉君はもう屋上へ向かってると思うからそこで待ち合わせで。」
あいつも一緒かなんていうぼやきがどこからか聞こえたが冬弥と黒田君がエルのお目付け役である以上仕方の無いことだろう。
冬弥は小さく頷くと屋上へと向かった。
重たい金属製のドアを押し開けると抜けるような青空と春にしては強すぎる日差しが冬弥の目を刺した。
最近は日中だと長袖のカーディガンを着ているのも暑いくらい気温は上がり、風は生ぬるさを増していく。
今日は全ての教室その他施設が解放されており、まだ時間帯が早いこともあってか屋上には誰の姿も見えなかった。
エルが先に行ったと黒田君は言っていたが入れ違いだったのだろうか。
教室へ様子を見に行こうと踵を返した冬弥の前に白い綿毛のようなものが舞った。
この光景は見覚えがある。
つい最近、エルと初めて出会った日。
ただ一点の汚れもない純白の羽が冬弥の周りを踊るように舞った後、階下へ続く校舎の中へと消えていった。
「黒田君とあいは?」
不意に後ろから話しかけられ咄嗟に振り返れば再び日差しで目の前が焼かれる。
それを遮るように立っている人物に冬弥は目を細めた。
「はやかったのね。二人は職員室に寄った後に来るわよ。」
エルの後に続いて屋上に出れば穏やかな風が二人を包んだ。
彼の色素の薄いブラウンの髪が今は太陽の光を吸収して金色に輝いて見え、珍しい薄紫の瞳も宝石が光を反射するように角度によって不思議な輝きを見せている。
冬弥は素直にとても綺麗だと思った。
何故こんな普通の公立高校へと転入してきた理由が本当にわからない。
まるで住む世界が違うのは彼が持っている雰囲気からも容易に想像ができた。
遮るものがないため冬弥の長い髪は遠慮なく暖かい風に流されていく。
前髪すら風に持っていかれ視界が開けた時に気づけばエルがじっとこちら見ていることに気がついた。
「私の顔に何かついてるかしら。」
「いや、君は本当に綺麗だ。」
他の女子生徒なら卒倒しそうな言葉を平気で冬弥に言うことは度々あったが、流石に今回は目を見張ってしまった。何を思ってその言葉を言っているのか、腹のうちを探るが菫色の瞳はただただ真っ直ぐなままだった。
「からかわないでちょうだい。私は大して面白い反応できないわよ。」
「君は何か勘違いをしている。僕は嘘は言わない主義なんだ。それに君が綺麗なのは外見的要因だけじゃないのは他のみんなもわかると思うけどね。」
「じゃあ初日の体調不良の件はなんだったのかしら?」
一瞬エルは動きを止めたがすぐに意地の悪そうな笑顔を浮かべた。
「追記するとしたら人を不幸にする嘘はつかない、かな。」
「詭弁ね。」
都合の良いやつだ。
冬弥は興味が無くなりそっぽを向くと眼下の校庭をぼんやりとみつめる。
先生達や有志の生徒達が午後から始まる体力テストに向けての準備をしていた。
「綺麗だと思ったからそう言ったまでだよ。
感情や気持ちを口に出すことは大切だ。
嬉しい、悲しいという感情は動物でも持てるものはいるがそれを複雑な言葉として相手に伝えるのは人間の特権だ。」
「随分傲慢だわ。それに伝えてばかりでは上手くいかない時だってある。」
「君は伝えなさすぎだ。」
あまりにも真剣みを帯びた声だったので再び振り返ってしまう。黒い髪の毛が顔を覆い鬱陶しそうに冬弥は振り払い彼を見れば日陰を指差し冬弥を招いているところだった。
少し肌がじりじりとしてきた頃だ、少し腕をさするとエルは自分の上着をかけてくれた。
「さぁ、伝えるってよくわからないもの。それにあなたが私にここまで関わってくるのかも。」
冬弥はその上着をを綺麗にたたむと再びエルの腕の中に戻した。
見上げてみると彼の瞳はまだ真っ直ぐに冬弥を見つめたままだった。