第八話
男は昼間、店に来ていたよそ者だった。男の声は低く、何を言っているのか聞き取れなかったが、女主人の『それじゃあ、安すぎるよ』『まだ誰にも触られていない新品なんだからね』という言葉で何の話しをしているのかは察しがついた。
野卑な男たちのたまり場であるこの酒場で長く働かされているのだ、彼らの下品な話しの内容は嫌でも耳に入ってくる。
私はこの男に買われるのだ。
ブルーシーは恐怖で身が竦んだ。あの女主人を信じていたわけじゃない。愛されていないことはとうの昔に気が付いている。だけど、友人としてお前の母に頼まれたからには見捨てるわけにはいかない、そう言って私を育ててくれたことも事実だ。それなのに、今になってどうしてこんな仕打ちをするのだろう。
怒りと絶望で体と心がよじれた。……逃げよう。今まで何度も思って、意気地がなくて実行できなかったことを彼女は今、強く決心した。ここを逃げ出してどこに行くのか、アテなどない。これからのことを思うと不安で目も眩む思いだったが、それでもここにいるよりはましだ。
ブルーシーは少ない私物をかき集め、大急ぎで荷造りをした。のんびりしている時間はない。音をたてないよう気を付けながら部屋から出た途端、ブルーシーの前に女主人の怖い姿が立ちはだかった。
「お前、何をしているんだい?」
「何も……してません」
怯えて硬直するブルーシーの腕を捕まえると、女主人はそのまま彼女を引きずって物置き部屋に連れ戻し、寝台の上に突き飛ばした。
「逃げるなんて許さないよ」
「……そんなこと」
「もういいよ」
女主人は後ろを振り返って言った。
「その値段で構わない。だけど一晩だけだ。朝になったらさっさと出て行きな」
気が付くと、女主人の後ろにはさっきの男が立っていた。男は無言でいくらかの金を渡すと、女主人と入れ替わるように部屋の中に入ってきた。古いコートを着込んだいかにも胡散臭そうな男だ。底光りする灰色の目が品定めするようにじろじろとブルーシーをみつめる。そこには欲望と狂気しか感じられない。ブルーシーは寒気がした。
「……助けて!」
悲鳴のような声を上げて、ブルーシーは去ろうとする女主人の顔を見た。懸命に腕を伸ばす。それは最初で最後の懇願だった。けれど、女主人はそれを冷たく笑った。
「大事な働き手だからね、壊さない程度に楽しんどくれ」
そう言い残すと、女主人は部屋のドアをぴしゃりと閉ざした。
……!
絶望に苛まれ、狂ったように悲鳴を上げ抵抗するブルーシーの身体に男は覆いかぶさると、力任せに押さえつけた。爪を立ててシャツを剥ごうとする。
「痛い……!」
首筋に鋭い痛みが走った。男の爪がブルーシーの皮膚を裂いたのだ。血が滲んでくるのが分かる。
「痛いかい?」
初めて聞いた男の声は意外と優しかった。荒い息を吐きながら男の顔をみつめ返すブルーシーに彼はぎこちなく笑うと、その血の滲む首筋に唇を這わした。その湿った感触に鳥肌が立つ。
「やめて!」
身体をひねって抗うと、素直に男は身を引いた。その隙に逃げようとしたブルーシーの肩を後ろから男が掴み、また寝台に引きずり倒す。ブルーシーが顔を上げた時、事態は変わっていた。
男はナイフを手にしていたのだ。よく切れそうな刃はその男の目の色に似ていた。
「君は僕のものなんだから、言うことをきいてくれないと困るんだよ」
本当に困ったという表情で男はブルーシーの瞳を覗き込む。
「君は本当に美しい瞳をしているね。それは神の目だよ。人間が持っていてはいけないんだ。だから、君のもうひとつの瞳は神様が取り上げたんだよ」
そう言って、男はブルーシーが布を巻いて隠している右目を指差した。
「無いんだってね、右目」
「……そんなこと、あんたには関係ない」
睨みつけてブルーシーがそう言うと、男は何故か嬉しそうに笑った。
「もういいんだよ。目のことで君が怒ったり悲しんだりする必要はないんだ」
「何のこと……?」
「返そうね、神様に」
「え?」
何を言われているのか、ブルーシーにはまったく分からなかった。
神の目? 返す?
「さあ、何も心配しなくていい。僕が君をずっと愛してあげる。だから、僕に君の目を取り出させてくれ。それをふたりで神様に返しに行こう」
狂ってる。
男は恍惚とした表情でブルーシーに迫ってくる。そのナイフの切っ先を彼女の左目に近づけた。
このまま、私はこの狂った男に左目をくり抜かれ、ナイフで切り刻まれて殺されてしまうのだろうか?
……嫌だ。
今まで押し殺してきた黒い感情が、身体の奥でぶすぶすと燻り始める。不意に女主人の冷たい笑みが脳裏をかすめた。常連客たちの馬鹿にした態度や言葉を思い出す。傍にさえいてくれなかった親を思う。毎朝、学校に通う幸せそうな子供たちを思う。
どうして?
どうして、私には何もないのだろう?
指先で布の上から右目に触れてみる。そうだ、私には右目すらない。
「……いい子だね。動かないで。きれいに瞳を取ってあげるから」
男はブルーシーがおとなしくなったのを自分を受け入れてくれたのだと思ったらしい。一度、ナイフを持ち直すと、ブルーシーの顔を固定させるべく空いている手で触れようとした。その時、彼女は言った。冷静な声で。
「私に触れるな」
男は一瞬、躊躇して無力なはずの獲物を見た。
「何だって?」
「お前たちなんか消えてしまえばいい。お前たちなんかいらない。すべて否定してやる。こんな世界なんか、いらない」
男の持っていたナイフが落ちた。男は呆然と自分の手を見た。それは硬直して動かない。筋肉が微妙に痙攣している。
「お、おい、何だ? 手が動かない……」
その言葉が終わらないうちに、ぼきんと嫌な音がした。男の手があらぬ方向に折れ曲がり、骨が砕けた音だった。男の口から壮絶な悲鳴が上がり、そのまま、寝台の下に転がり落ちる。
「何の騒ぎだい! もう少し静かに……」
悲鳴を聞きつけてやってきた女主人は、無遠慮に部屋のドアを開けた。そして足元に転がり、痛みに悶絶する男の姿にぎょっとして足を止め、寝台の上にいるブルーシーを険悪な表情で見た。
「……お前がやったんだね。やっぱり、お前はおかしいよ」
嫌悪を隠さず、彼女は言った。
「お前は化け物だ。どうしてお前みたいなものが生まれてきたんだろう? お前は赤ん坊の頃からおかしかったんだよ。お前のいる部屋の照明だけが壊れたり、与えてもいないおもちゃをいつの間にか持っていたり……片目で、その上、親にも捨てられて、不憫に思って育ててやったけど、もう限界だよ。薄気味悪いったらないよ、お前は!」
頭痛がした。
頭の奥にある大きな岩のようなものが、ずるりと動いたせいだ。その岩の向こうには洞窟がある。その洞窟の中には恐いものがいる。それを外に出してはいけない。いけない。いけない。いけない。……だけど。
ドウシテ、イケナイノ?
「いままで育ててきた元を取ってやろうと思ったけど、もう、いい。とっとと出ておいき! 二度と戻ってくるんじゃないよ! この化け物!」
女主人はヒステリックに叫んだ。いつもならその声を聞いただけで震えあがり、許しを乞うていたブルーシーだったが、この時はまっすぐに彼女の顔を見、そして無感情に言った。
「……お前たちなんか、みんないなくなれ」