第六話
ノックをしたが返事がない。いつものことだ。
ブルーシーは返事を待たず、キエル教授の研究室のドアを開けた。書類や本が高く積みあがっている机の隅で、キエル教授が熱心にペンと紙で書き物をしているのが見える。
ああ、これはまた大量に清書をやらされるな、とブルーシーは覚悟した。
教授は珍しいことにパソコンを使わない人だ。データなどちょっとしたことで壊れる、ハッカーに荒らされたらどうする、文字は紙にペンで書くものだ、と頑として譲らない。しかし、データでやり取りすることが多いため、結局、書類のほとんどをブルーシーがパソコンを使って打ち直し、データ化することになる。
そんな信条を持っている教授の机の上は常に書類が散乱している。整理整頓が苦手な教授はその書類の渦の中に何かを失くし、そしてその何かをいつも探している。そういった探し物を手伝うこともブルーシーの仕事のひとつとなっていた。
ブルーシーは静かに歩み寄った。その気配に気づいて教授がのろりと顔を上げる。
「おお、来ていたのか、ブルーシー。今日は来ないかと思ったよ」
五十を少し過ぎたばかりの教授は、実際の年齢より若く見えた。よく旅に出ているせいで肌は日焼けし、精悍な印象を与える。その彼がブルーシーを見て顔をしわくちゃにして笑った。そんな愛嬌は研究室の外では決して見られない。つい、ブルーシーの表情も緩む。
「遅くなってすみません。あの、鳥が逃げたとか」
「ああ、そうそう。被検体がね。もう捕まったと連絡があったから気にしなくていいよ」
教授がブルーシーの方に体をひねった途端、机に積んでいた本の山のひとつが崩れ、ブルーシーに向かって落ちてきた。
「わー!」
重そうな本数冊を何とか飛びのいて避けると、彼女は教授につくづくと言った。
「教授、たまには整理整頓を」
「ごめんごめん。まあ、その内、片づけるよ。……しかし、エルジくんがいなくなって研究室は片付かなくなったねえ。彼は器用で働き者で助かったんだが。魔法のように机の上を整理してくれた」
「……そうですね」
ブルーシーは、落ちた本を拾い上げながら、平静を装って応じた。
「エルジは何でも上手にできる人だったから」
「そうだね。成績も優秀だった。よく気の付くいい子だったな。なのに何故、自殺なんか。悩み事があるなら相談にのったんだがなあ。残念だよ」
「自殺……だったんでしょうか、本当に」
「うん? 何だ? 学校側はそのように公表し、ご家族も納得されているだろう?」
「そうでしたね……」
ブルーシーは小さく息を吐くと、話題を変えた。
「ところで、この間失くしたとおっしゃっていた旅行日誌は見つかったんですか? 確かポケットに入るくらいの大きさで、茜色の表紙って言ってましたよね? 小さいとみつかりにくいから……」
「ああ、日誌の事はもういいんだ」
「そう、なんですか?」
失くしたと言っていた時は、必死に探していたのに。今のあっさりとした教授の態度をブルーシーは不思議に思った。
「うん。私の管理が悪いばかりに迷惑かけたね。管理が悪いと言えば、今日逃げた被検体もそうだよ。助手のひとりが目を離した隙に逃げ出して」
「あの、そのことなんですけど、あの子は、オペラは何なのですか? 助手の人は鳥って……でも、私には人間にしか見えません」
「ほう」
教授は目を細めて、ブルーシーを見た。
「これは驚いたな。被検体と一緒にいたというのは君か、ブルーシー」
「はい……」
「何故、トリの名前を知っているんだ? あの子は口がきけないはずだが」
「彼が……教えてくれました。彼の言葉が自然と私の中に入ってきたのです」
「それは、つまり、君はあのトリに感応した、ということかい?」
感応?
あれはそういうものだったのだろうか?
少し迷ってから、ブルーシーは頷いた。
「多分、そうです。私の言葉も彼の中に……。お互いを受け止め合った、そんな感じでした。それを感応と呼ぶならそうです」
「会話をしたのか?」
「はい」
「なるほど」
教授は難しい顔になると考え込んだ。しばらくの後、顔を上げると優しいが重たい口調でブルーシーに言った。
「……あれは人の姿をしているが、実際はトリだ。人の形をしているというだけで、中身は全くの別物。感情というものが無く、言葉も話せない。知能も低い。外見がああだから、誤解を招きたくないと思って秘密にしていたんだが、まさか逃げ出すとはね。……いいかい、ブルーシー、あれは私が旅先でみつけた生き物だ。怪しげな男が連れていたんだが、男が言うにはオペラは今から百年ほど前に遺伝子操作で生まれた『夢鳥』あるいは『誘い鳥』と呼ばれた生き物で、人の精神に入り込み、その人の望む夢……つまりは幻覚を見せるというんだ」
「それ、本当なんですか」
「夢鳥という生き物の記録は正式なものが残っているよ。当時は一部の富裕層や貴族などの間で愛玩用、もしくは観賞用としてもてはやされたようだが、今は廃れてしまって絶滅寸前だ。あれを旅先でみつけたことは幸運としか言いようがないな」
「遺伝子操作なんて……そんな簡単に生き物を作り出していいんですか」
神の領域に手を出して、悲劇を招かないことなんてあるのだろうか。
ブルーシーは自分の体温が二、三度下がったような気がした。赤い瞳の美しい少年は、だからあんなに寂しげだったのか。
「世界は広いんだ、ブルーシー」
教授は微笑むと言った。
「そしていろんなことを考える人たちがいる。自分の能力を良い方向に使う人。そして悪い方向に使う人。オペラの存在は、おそらく後者の者たちが、金儲けのために作ったのだろう。彼のような希少種を闇で売買している組織もあるという。恐ろしいことだが。……まあ、かくいう私も、許可を取っているとはいえ、そういう生物を研究材料にしているのだから偉そうなことは言えないがね」
「教授は人のために研究をしているのですから、そんな連中とは違います」
言ってしまってから、心が揺れた。
被検体。
研究材料。
それらの存在が自分とは関係ないなどと思っていない。さっき、廊下ですれ違った少女の一人が言っていた言葉。
『ただの被検体じゃないの……』
その通りだとブルーシーは思う。
ブルーシー・ローゼンは素性のはっきりしない天涯孤独の身。
この学校に彼女のような生徒は全体の二十パーセントほど存在する。自分の身の内にあるだろう『能力』をたった一つの資格として、この学校に特待生として受け入れられているのだ。