第五話
今まであった圧倒的な緑も日の光も突然取り上げられて、周りからきれいに掻き消えてしまった。代わりに現れたのは真っ白な、ただ真っ白な世界だった。そんな世界に突然放り込まれたのに、ブルーシーは少しも怖くなかった。不快な感覚もなかった。彼女の身体のすべてを何か柔らかく優しいものが包み込んでいたからだ。それが彼女を守り、安心させていた。
甘い香りのするそれは、羽毛だった。
これはオペラの羽毛。
最初に彼がブルーシーの心に入ってきた時に感じたものと同じ感触だった。
オペラ……?
名前を読んでみた。
声に出して呼んだのか、思念を送ったのか、自分でもよく分からなかった。だた、真っ直ぐに目を凝らすと、手を伸ばせば届きそうなところに人の形が浮かんでいるのが分かった。赤い髪と赤い瞳。それらが印象的にそこにある。
オペラ、ここに来て。
今度はブルーシーが彼に向かって手を伸ばした。オペラの指が彼女の指先に静かに触れて、優しく絡まった。その瞬間、ブルーシーの中で何かが閃いた。同時にずるりとなにか嫌なものがうごめいたのも感じた。あっと声を上げそうになる。駄目だ、これを動かしてはいけない……!
はっとして身を引くと、彼の指はあっけないほど簡単にほどけた。
そして、終わった。
気が付くと、ブルーシーはまた温室にいた。
目の前には赤い瞳の少年が無表情で座り込み、彼女をみつめているだけだった。
「……君は、私に何かを見せようとした?」
少し、恐ろしくなってブルーシーは聞いていた。しかし、少年からの返事はない。もう彼の思念が遠く離れてしまったことをブルーシーは知っていた。それでも、ブルーシーは言葉を重ねずにはいられなかった。
「ねえ、君は一体……」
ブルーシーが彼に再度、触れようと手を伸ばしかけたその時、温室のドアが乱暴に開いた。驚いて振り返ると、そこには先ほど被検体を捜していた助手たちがいた。彼らはブルーシーたちの方に足早に近づいてくる。
「声がすると思ったら……ここで君は何をしているんだ。……ああ、被検体もそこにいたな。よし、動くなよ」
助手はそう言うと、白衣のポケットから黒いものを取り出した。それは小動物用の麻酔銃だった。
「待ってください」
ブルーシーは思わず立ち上がった。助手たちの行く手を阻む形になったことで、彼らの顔が険しくなる。
「君、どういうつもりだ! どきなさい!」
「その麻酔銃、まさかオペラに使うつもりじゃ……」
「それがどうした。そこにいるのは逃げ出した被検体だ、捕獲するのに麻酔銃を使う許可は取ってある」
「そういうことじゃありません。彼は何もしてないのに、どうして傷つけるようなことをするのですか」
「何もしてないだって?」
助手たちはお互いに顔を見合すと、不意に笑い出した。人を馬鹿にする厭な笑い方だ。
「そんなことを言ってその被検体を守ろうとする君は、つまり既にその被検体に『何かされた』のだよ。自覚症状がないだけだ」
「は?」
「そのトリは『夢鳥』とか『誘い鳥』とか言われている遺伝子操作で生まれた生物だ。人の姿をしているが人ではない。君はそのトリの能力に惑わされているだけだよ。一時間もすれば術は解ける。それまでは自室に戻っておとなしくしていなさい」
「能力って……何ですか?」
「幻覚を見せるんだ。その人にとって都合のいい、甘い夢をね。君は何を見せてもらったのかな?」
ぐっと言葉に詰まるブルーシーをからかうように助手は言う。
「そのトリは見た目は美少年だからねえ?」
ブルーシーはかっとなって、その助手に平手打ちをお見舞いするべく手を振り上げたが、それを柔らかく止めた人がいた。
「よしなさいよ」
その人は、ブルーシーと助手の間に割って入り、彼女の腕をそっと捕まえていた。
「逃亡した被検体をかばった上に助手に暴力じゃ、君の立場は最悪を絵に描いて額に飾ったくらいに悲惨になるよ」
「……え?」
「ね? つまらないよ?」
「……誰?」
ブルーシーは心から言った。そこにいたのは、愛想のいい青年だった。おさまりの悪そうな紅茶色の髪に同じく紅茶色の明るい瞳。白衣を着ているところを見ると彼らと同じキエル教授の助手なのだろうが、ブルーシーにはまったく見覚えのない顔だった。ぽかんとしていると、青年は相変わらずにこにこ笑いながらブルーシーの腕をそっと放した。
「僕はセアンといいます。セアン・ジョシュア・クローズ。君に会うのはこれが初めてかな? 今期からキエル教授の助手としてこの学校に勤めています。どうぞよろしく」
と、片手を出す。毒気を抜かれたブルーシーは、はあ、と頷きながら機械的に握手をした。
「おい、セアン」
「はい、分かってます」
助手のせかす声に、にこりとしてからセアンは改めてブルーシーを見た。
「そこ、どいてくれるね?」
「でも、麻酔銃は」
「使わない。それでいい?」
「……それなら」
ブルーシーは座り込んだままのオペラを振り返る。彼は澄んだ瞳でただブルーシーをみつめかえしてきた。
「オペラ、教授のところへ帰れる?」
少しの間の後、微かに彼は首を傾けた。
「……ごめんね。また、会いに行くから」
「ほら、どいて」
もう待っていられないとばかりに、助手たちはブルーシーを押しのけてオペラに近づいた。無理やり立たされ、温室から連れ出されるオペラの様子をブルーシーは悲しげに見送った。
「大丈夫だよ、彼はひどい扱いを受けているわけじゃないから」
後ろから声がして、ぎくりと振り向くとそこには相変わらずどこかのんびりとしたセアンがいた。
「……え。あなた、行かなくていいんですか?」
「うん、行くよ。ただ、君があんまり悲しげだから、男としてそんな乙女を放って置けないっていうか」
「……放って置いてくださって結構です」
「そうか」
からりと笑う。それから少し、真剣な顔になって付け加えた。
「あんまりのめり込まない方がいいよ」
「……え?」
「彼は被検体だ。人ですらない。君が傷つくだけだよ」
「……大きなお世話です」
ブルーシーは切りつけるようにそう言うと、温室を出て行った。教授のところへ行って、オペラのことを聞かなくては。今の彼女にはその事しか頭に無かった。
怒って温室を出て行くブルーシーの細い後ろ姿を見送りながら、セアンは小さく溜息をついた。そして、さっきまでオペラのいた茂みを見る。無残に散ってしまった花一輪にそっと手を触れた。茎を見ると曲がって今にも折れてしまいそうだ。じき枯れてしまうだろう。しかしその花はそんな姿になっているにもかかわらず、強い芳香を放ち、自分の存在を一生懸命表そうとしているかのようだった。
「……人の心とは、まったくやっかいなものですね、と」
セアンは無表情に花を手折った。