第三話
いつものように新種や珍しい植物を栽培しているガラス張りの温室の中を通り抜ける。そこがキエル教授の研究室に行く近道であり、ブルーシーのお気に入りの場所でもあるからだ。助手には止められたが、教授が旅などに出て不在の時以外は、毎日の日課である教授の手伝いをやめるつもりはなかった。
温室は昼間は解放され、誰でも立ち入ることができたが、そこに生徒の姿はひとりもない。授業が終わると、大抵の生徒は寮の自室に戻るか、別棟にある自習室に行ってしまうからだ。
ここに来ないなんて、もったいない、とブルーシーはいつも思う。温室は人工の太陽光がさんさんと降り注ぐ、常に暖かで美しい場所だった。緑の圧倒的な生命力と香りにそれは満ている。
ここほど、生命を感じる場所はないのに。
ブルーシーは自分を解き放つように深呼吸し、光をたっぷりと体に浴びながらゆっくりと室内を歩いた。温室の中ほどに差し掛かった時、不意に何かの気配を感じて足を止めた。辺りを見回すがそれらしきものは何も見えない。その気配が何を指すのか、彼女にも分からなかったが、しかし、妙に心が騒いだ。
「……誰かいる?」
声を掛けたが、反応はない。しばらくそこで注意深く辺りを見回してみると、白い大輪の花が一本、無残に花びらを散らしていることに気が付いた。誰かがそこを無理に通った、そんな感じだ。ブルーシーは少しためらったが、好奇心には勝てず、そっとそちらに近づいて行った。花の茂みを痛めないよう気を付けながら片手でかき分けて、奥を覗いてみる。そして、息を呑んだ。
そこにはひとりの少年がいたのだ。歳はブルーシーと変わらない。十六、七歳くらいに見える。彼は何かから身を守るように膝を抱え、顔を伏せて小さくうずくまっていた。長い髪は赤みを帯びた金髪で、その華奢な肩にまっすぐ落ちていた。身に着けているのは服、というよりは白い布を巻きつけただけのようで、上半身は裸だった。青白い肌が妙に艶めかしく、ブルーシーは思わず目を背けた。
誰? ここの生徒には見えない。なら……被検体だ。
ブルーシーの胸が小さく疼いた。
見かけがまるで人間でも、人間として扱われない生き物もいる。
この学園都市ロージーンの人口はおおよそ三万人。その内訳は教授、その補佐をする助手、学校の事務や警備、周辺施設の仕事に就いている職員、そして生徒となる。これらの枠に収まらないものがいるなら、それは被検体だ。
ブルーシーは迷ったが、このままここを離れることができず、優しく声を掛けてみた。
「ねえ、君、大丈夫?」
その声に、少年は敏感に反応した。ぱっと顔を上げるとブルーシーの方を見る。ふたりの眼差しが交差した。
え? 赤い瞳?
ブルーシーは言葉を失った。
その少年はまるで高貴な宝石のような赤い瞳をしていたのだ。深い赤い色。その中に微妙な色合いで滲むようにピンク色も見える。
それは綺麗なオペラレッドだった。
「君は……誰?」
ようやく口をついて出た言葉はそれきりだった。少年はその言葉に少し首を傾げ、それから、不意にその細い腕をブルーシーに伸ばしてきた。それを見てブルーシーは、はっとする。
腕には羽根があったのだ。腕の付け根から手首のあたりまで、白く柔らかそうな羽毛が短いながらも生えていた。
鳥。
咄嗟にさっきの助手の言葉が頭に浮かんだ。
『大したことじゃない。被検体のトリが逃げただけだ』
「……君、鳥なの?」
言ってしまった後で我ながら間の抜けた質問だと思った。はい、そうです。鳥です。被検体ですと相手が答えるわけがない。
教授に知らせなくては。
ようやく我に返って、ブルーシーがその場を離れようとした時、彼の伸ばしていた手がブルーシーの腕を力強く捕まえた。ブルーシーは思わず、体を硬直させる。
「な、何するの……」
振りほどこうとした時、突然、その声はブルーシーの中に響いてきた。
『キレイ』
え?
ブルーシーは少年の顔を改めて見た。
彼は微笑んでいた。柔らかく優しい笑みで、ブルーシーを包み込むようにみつめている。
何、これ……。
突然の接触であったのにもかかわらず、ブルーシーは不快に感じなかった。それは甘い蜜がとろりと心に優しく溶け込んでくるようで、不快どころか、それは癒しだった。
一方的に人の声が頭に響いてくることは日常的にあった。しかし、これは無遠慮に入ってきた今までのものとはまったく違った。強引に彼女の領域を侵すのではなく、ちゃんと彼女の居場所を尊重しつつ、優しく心に染み込んできた。こんな接触は初めてだった。
「……君はテレパスなの?」
思わず、ブルーシーは話しかけていた。彼女の言葉を理解したのかしなかったのか、少年はじっとこちらをみつめかえすだけだった。
『目』
と、しばらくの間の後、短い言葉がまた彼女の中に響いてきた。
「え? 目?」
ブルーシーは思わず、自分の目を片手で触れた。右目だけに。途端に憂鬱な気分になる。
黒い布で隠している右目。
彼女には右目がなかったのだ。