第二十話
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「ブルーシー!」
背後で明るい声がして、ブルーシーは肩越しに振り返った。生徒でごった返す廊下を大きく手を振りながら二人の少女が駆け寄ってくる。それに笑い返しながらブルーシーは彼女たちを待った。
「どうしたの? カレン、リリー・ローズ」
「どうしたの、じゃないよ」
息を整えながらカレンが言った。
「つれないじゃない。ブルーシーは卒業式に出席しないんでしょ? すぐに寮を引き払うって聞いたわ。もう会えないかもしれないのにさっさと行っちゃうんだもの」
「そうよ、寂しいじゃない」
リリー・ローズが垂れ目気味の目を一層、下げて悲しげにブルーシーをみつめる。今にも泣き出しそうな彼女に慌ててブルーシーは言った。
「ああ、ごめん。あとで個室に行くつもりだったのよ。最終試験が終わった直後だから、気をつかったつもりだったの」
「いいよ、気なんかつかわないで。あたしたちの仲じゃない」
腕をぐいぐい引っ張られてブルーシーは笑うしかない。
「わかったわかった。で、試験はどうだった?」
「まずまずね。卒業はできると思うけど」
「そうね。あたしたち、ブルーシーみたいに優秀じゃないから、なんとかってとこ」
「何言ってんの」
ブルーシーは苦笑する。
最終学年であるブルーシーたちは、卒業がかかった最終試験を受け終わったところだった。平均点を越えさえしていれば卒業はできるため、毎年、ここで落第する者は皆無だ。それでも生徒たちはみんな緊張の面持ちで最終試験に挑む。学内に蔓延していたピリピリしていた空気が、試験が終わったことで目に見えて緩和していた。
仲のいい者同士で雑談に興じる生徒たちが廊下や教室の中に点在するのを、どこか覚めた視線で見渡した後、ブルーシーは少女二人に優しく言った。
「私のどこが優秀って? 三年もブランクがあるんですけど?」
「そこよ」
カレンが身を乗り出すようにして言った。
「病気療養で三年も休学してて、復学した途端、成績トップクラス。ESP開発でも素晴らしい成果をあげているんでしょ? 普通なら、三年もブランクがあれば授業についていけなくて留年しそうなものじゃない。それが復学一年目にして順調に卒業なんて、これを優秀と言わずなんと言えばいいわけ?」
「しかもお父様はキエル教授。学者の家柄だから、一人娘のあなたが頭脳明晰なのはあたりまえでしょうけど、その上、その美しい容姿は何なのって感じ。性格も優しくてさっぱりしているし、もう、神様に愛され過ぎよね。ここまで素晴らしすぎたら、嫉妬する隙間もないわ。降参よ」
「こらこら。あなたたちみたいに幸せそうなお嬢さんたちが何言ってるのよ」
「何の取り柄もない平凡なお嬢さんたちって言い直してもらえない?」
リリー・ローズの言葉に、三人して声を立てて笑い合った。その後、二、三言葉を交わしてからブルーシーは二人と別れた。
生徒たちの楽しげな声を背中に聞きながら、人の気配のない場所まで来るとブルーシーの顔から笑みがすっと消える。
「何の取り柄もない平凡なお嬢さんだから、あなたたちは幸せなんだよ。それにあなたたちは永遠に気が付かないんだろうね」
彼女は冷たい無表情な顔になると長い廊下をゆっくりと進む。そして、温室の前で足を止めた。
あの時、盛大に壊したドアや壁はすっかり元通りに修繕されていた。電気関係の不具合により起こった小規模な爆発として処理され、キエル教授はもとより、ブルーシーにも何のお咎めもなく終わった。
少し、躊躇した後、ブルーシーは温室の中に足を踏み入れた。きっと、これがここを訪れる最後になるだろう。
温室の中は変わらず、温かく明るかった。奥に進み、窓際まで行く。そこはオペラが飛んだ場所だった。ここに来ると決まって足が竦む。まだ、怖いのだ。
……オペラ、私は君の意思でここにいる。君の望んだ通り、ヒトの世界に戻ったよ。これでいいんだよね?
ブルーシーはあの夜を思い返していた。
オペラは飛べなかった。
彼の羽根はあまりに小さく、頼りなく、風に乗れたのは一瞬で、身体はすぐに地に落ちていった。
病院に運ばれた彼は、髪や瞳だけでなく、すべてが真っ赤に染まっていた。
「出血はひどかったが、破損は大したことなかった。君との取引きだが、あれが本気なら急がねばならない。考える時間はあまりないぞ。どうする?」
治療室から出てきたキエル教授は深刻な表情でブルーシーにそう告げた。ブルーシーは一瞬のためらいもなく答えた。
「何の迷いもありません。お願いします」
それからすぐに、ブルーシーは学園都市を離れた。行先は術後の療養とリハビリのため、ある地方の療養所だった。それは三年の歳月を必要としたが、その三年後には学園に無事、復学していた。すべての手続きは、正式にブルーシーを養女として迎えたキエル教授がつつがなく行った。
こうして三年も経ってしまった今となっては学園内にブルーシーを知る者はほとんどいなくなっていた。いたとしても、誰も彼女に関心を持っていなかったため、かつてのブルーシーがどんな少女だったかということを覚えている者はいなかった。
ブルーシーはあの夜、セアンを通してキエル教授と取引きをした。
例の日誌は教授に返し、それに関することはすべて口外しない。エルジのことも、オペラのことも忘れる。その代わり、ブルーシーを正式に養女として迎え、学園での生活も卒業まで保証する。これらはセアンが出した要求だった。ブルーシーが自ら欲したのはただ一つ。
オペラの赤い瞳だった。




