第十五話
「私たちはこの街を出て行きます。決して追わないと、私たちのことは放って置くと誓ってください。そうしていただければ日誌はお返しします。このことは誰にも言いません」
「ふたりだけで出て行くというのか」
教授は面白そうに口元をゆがめて言った。
「駆け落ちかい? 上手くいくとは思えないが?」
「オペラがいてくれればそれだけでいいんです」
「……まあ、いいだろう。オペラは君のものだ。当座の生活費としていくらかの金も用意しよう。これで取引成立でいいね」
教授は椅子から立ち上がると、片手を彼女に差し出した。
ブルーシーはその大きな手をみつめる。あの時、朽ち果てようとするブルーシーを闇の中から救い上げてくれたのと同じ手だった。
「どうした? 握手を拒むのは大人げないぞ」
からかうような教授の言葉に、ブルーシーは黙ってその手を握った。あの時と同じ、温かい手だった。
夜の長い廊下をブルーシーは教授とふたりで歩いていた。常夜灯がぼんやりと灯る以外には何の光源もない薄暗い廊下だ。
彼らは夜になるのを待って、オペラの元へと向かっていた。ブルーシーはそのまま、出立できるようにとわずかな身の回りのものを詰めた鞄を肩に掛けている。オペラさえいてくれればそれでいい。今のブルーシーにはそれだけだった。
「ここだ」
教授が足を止めたのはブルーシーが初めてオペラと会ったあの温室だった。
「懐かしいかね」
皮肉な調子でそう言うと、教授はカードキーをドアに差し込む。昼間は解放されているこの温室や他の教室も夜ともなればすべて自動的に施錠される。それらのカードキーを所持しているのはこの学園の幹部だけだった。キエル教授も勿論そのひとりだ。
「貴重な植物をしばらくの間、この温室に置くという名目で昼間も施錠していた。オペラはここにいる。何故かここだと彼は落ち着くんだ」
教授はドアを開くと、ブルーシーに入るよう手で示した。一瞬の躊躇の後、ブルーシーは温室に入った。すぐ後ろから教授も中に入り、ドアを閉める気配がする。
ぼんやりとした光に目が慣れてくると、室内の様子が分かってきた。いつもの見慣れた緑にあふれた部屋は、昼間の心地よさはどこへ、重苦しい不気味な空気が支配していた。さわさわとどこかで葉の揺れる音が聞こえてくる。
「行って。その奥だ」
教授に促され、ブルーシーは足を踏み出した。
初めてオペラと出会った茂みを通り抜けると、一番奥の仕切られた一画に行く。そこは熱帯に咲くという大輪の花が植えられていた。そして、その巨大な花びらの陰に誰かがいた。
「オペラ!」
思わず叫ぶと、ブルーシーは駆け寄った。オペラは柔らかな草地の上に横たわっていた。
「眠っているだけだ。起こそう」
教授はブルーシーを脇に押しやると、オペラの傍に膝をつき、上着のポケットから透明な液体の入った小瓶を取り出した。それを一、二滴、オペラの唇に落とす。
「薬で眠らせている。これは解毒剤だ。数秒で目が覚める」
そして、立ち上がると改めてブルーシーを見た。
「さあ、私は約束を守ったぞ。次は君の番ではないのかね?」
「まだです」
冷たくブルーシーは言った。
「私たちが無事にここから出られた時に日誌はあなたのものになります」
「……今、君は日誌を持ってはいないのか?」
探るような目つきで自分を見る教授に、ブルーシーは首を横に振って応えた。
「あるところに隠してあります。私が大丈夫だと確信した時に在りかを教えます」
「本当か?」
「そこは私を信じてもらうしかありません」
「そうだな」
ふっと口元だけで笑うと教授は言った。
「のこのこ日誌を持ってくるとは思わなかったが……まあ、いい。しかし、君はここを出てどこへ行こうと言うのだ? 君に身寄りはないだろう。しかも、オペラを連れてでは」
「心配にはおよびません。これからどうなるかなんて誰にも分かりません。私がこれからやろうとしていることは馬鹿なことだと思います。でも、今の私にはこの道しかないんです」
「……私は君がその不安定な能力をコントロールできるようになれば、この学校を卒業した暁にはそれなりの就職先を用意できると楽しみにしていたのだがな。残念だよ」
「それは、あなたの出世のために、ですか」
「何?」
「私はあなたの道具でしかないのでしょう? 私も、そしてオペラも」
ブルーシーは諦めたように笑った。
ほんのついこの間まで成績のことで悩んでいたのが遠い昔のことのように思える。今思えば、それは何と呑気で平和な日々だったことか。その足元で恐ろしいことが起こっていたことに少しも気が付かずにいた。しかし、あの茜色の日誌を見てしまった以上、もう元には戻れない。
オペラの体がゆっくりと動いた。ブルーシーは、はっとして彼の傍に跪く。名前を呼ぶと彼はすぐに反応した。
「私が分かる?」
オペラは突然、ブルーシーを抱きしめた。その途端、彼女の身体にオペラの深い愛情がしみ込んできた。言葉が無くてもブルーシーにはオペラの気持ちが分かった。
「大丈夫」
囁くようにブルーシーは言った。
「私たちはこれからずっと一緒だから。一緒にここから出て行こう。……さ、立って」
ブルーシーはオペラの身体を支えて立たせた。目覚めたばかりの彼は足元が危うい。それでもブルーシーは彼の手を引っ張った。今夜中にここを出て行きたかったのだ。




