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8、再会と炎と


 その夜の星空を城内のいったい何人が見ていたことだろう。

 門前で焚かれた大篝火が空にもうもうと煙をあげ、見事な星空を覆い隠していた。……いや、それ以前に空になどとても目をやれる状態ではなかったろう。


 今、百合城の門が開こうとしていた。


 細く、細く開けられた百合城の門内から現れたのは一人の女性。そしてその後ろからよろよろと歩いてくる一人の少年。その二人だけを外に出して、再び門は堅く閉じられた。

 赤々と燃える篝火に照らされたのは黒百合の方その人。そしてその後ろにひかえる少年は、傷ついたその体をおして来た大次郎。出ていこうとするゆり江に「連れて行ってくれ」とすがりつき、許されたのだ。

 篝火の明りで赤く染め上げられたゆり江の顔は何事かを決意した母のそれで、すざまじく、かつ美しかった。


「……ようやく、お会いできましたなぁ、黒百合の方」


 ニチャニチャと松ヤニが糸を引くような物言いをしながら敵兵の最前列に出てきたのは岩田伝兵衛その人であった。本来ならばこのような弓矢を射かけられてもおかしくない場所には出ないのだが、もはや百合城にはその力が残っていないことを伝兵衛は見切っていたのかもしれない。


「すべては私の一存で行ったこと。城内の者は許していただきましょうか」


 敵兵に囲まれ門前に一人立ち、とうとうとそう語るゆり江の姿はどう見ても敗者のそれではなく、見ようによってはもしかするとこちらこそが勝者かと思えるほどだった。だが、それを敵将は鼻で笑った。


「開城は、どうなさる」

「今すぐ引き渡せと申されても当方にも準備というものがあります。それが済み次第、お渡しいたしましょう」

「”すべて”と言われたな。もちろん、瀬渉丸君呪殺の件もその”すべて”に入っておるのだろうな? 」

「……認めねば月之丞は解放せぬおつもりか」

「さて、それはそなたの出方次第」


 夜のしじまに薪のはぜる音が響いた。ジリジリと火にあぶられる木の音が沈黙をいっそう重くしていく。

 にらみ合う二人の視線に耐えきれず、大次郎が身じろぎをした。そしてそれが、ゆり江の気をそらした。


「……月之丞は無事なのでありましょうね? もしもあの者の身に何事かあれば、百合城は最後の一人が亡くなるまで戦い抜きますぞ」

「もちろん大切に扱っておるとも。ご覧になられるかな? 」


 伝兵衛があごをしゃくると侍たちの一団が現れ、その中から二人の少年が押し出された。


「若君! 鷹丸! 」


 大次郎が倒れ込むように前に出たのを二、三の兵士が押しとどめた。だが大次郎が取り乱すのも無理はない。

 どうやって城を出入りしていたのかと責め立てられたのだろう。大次郎に負けず劣らず体中にケガやアザを負った鷹丸と、ケガは負わされていないようながらもまた熱でも出ているのか消耗しているかのような様子の月之丞が寄り添いながらやっとのことで立っていた。


「申し訳ありません! お方様! 」


 門前に立つ黒百合の方の姿を見て、はじかれたかのように鷹丸が地面にひざまづいた。


「力不足で月之丞様をお守りできませんでした! 」

「よい。そなたはよくやった」

「……母上……。私は母上に……」


 鷹丸の支えを失ったからか、ふいに月之丞の瞳から涙がこぼれた。それがそれまで冷静さを失わずにいたゆり江を突き動かした。


「月之丞っ! 」


 武者たちが止める間もあればこそ、その合間をくぐってゆり江は月之丞のもとにたどり着き、その小さな体を抱きしめた。

 あわてた兵たちが二人の間に遅まきながらも割って入ろうとしたが、伝兵衛は勝者の余裕からかニヤニヤ笑ってそれを押しとどめた。


「泣かずともよい。父上のお子は弱いとそしりを受けたいかえ? 」


 その声は、黒百合の方のどこから出ているのだろうと思えるほどやさしく、幼き三人の涙をさらに絞りださせた。

 だが、その時だった。


「……月之丞を頼みますぞ」


 小声でピシャリと言い放たれた言葉が自分にかけられたものだと鷹丸がわかるのに一瞬かかった。


「……はっ! 」


 突然三つの影が動いた。

 月之丞、鷹丸は大次郎の方へ、そして黒百合の方は……憎い宿敵の方へと。

 伝兵衛に押しとどめられていた兵たちは完全に虚をつかれた。吸い込まれるように伝兵衛のもとへ迫るその女人の手に光るものが現れた。


「うわっ! 」


 その光るものを付きつけられそうになり、しりもちをついたのが幸いだった。地面の上から伝兵衛はゆり江の手に握られた短刀を見上げる形となったのもつかの間のこと。


「うごくな! 」


 後ろに回られ首を羽交い絞めにされた伝兵衛は首元に短刀の冷たさを感じて動けなくなった。それはまわりの家臣たちも同じことであったらしい。


「……おのれ、伝兵衛! おのが所業、わからぬとでも思ったか! 」


 風前の灯となった己の命を感じながら、伝兵衛はそれまでの冷徹さをかなぐり捨てたかのようにゆり江が恨みごとを耳元で並べ立てるのを聞いていた。


「わらわをおとしめるための呪殺の濡れ衣! 自らの邪念を満たさんがための百合城攻撃! 厳水様が知れば明白となるは必定! 今ここで討ち果たしてくれよう! 」

「ま、ままま待て! 」


 首元の刃が今にも動くと伝兵衛が覚悟したその時。


「お待ちいただきましょうか、黒百合の方」


 押しとどめた声のする方を見てゆり江の動きは止まった。

 今のゆり江とまったく同じ格好で、そこに兎之介が立っていた。伝兵衛の代わりに刃を突き付けられていたのは……。


「母上! 」


 ゆり江が伝兵衛を押さえている間に逃げるはずだった。小姓二人がそうすると思っていた。だが今、その二人は兵士たちに地面に押さえつけられ、月之丞は再び人質となっていた。


「ご分別をお無くしあるな、黒百合の方。もはや年貢の納め時でございますぞ」


 口調は優しげではあるが、兎之介の刃は否応なく月之丞の喉もとに突き付けられている。月之丞の瞳から大粒のしずくが落ちた。


「そやつを離さないで、母上! 月之丞はここで死にますから! 」

「……よう言った、月之丞。今、この男もともに死なせてやる! 」


 母の刃が天に振りかざされた。

 月之丞はさらに締め付けられる。

 高く掲げられた刃を月と炎の明りが照らし出し、それが小刻みに揺れて……母の瞳に涙があふれ……。


「……去ねっ! 」


 吐き捨てるかのような言葉と共に伝兵衛は自分の身体が突き倒されるのを感じた。それとともに四方から兵士たちが黒百合の方へと殺到する!


「武虎の妻は辱めは受けぬ! 」


 空いた刃を今度は己の首筋に当てて捕り手たちを睨みつけ、ゆり江はそう言い放った。

 誰もいないかのように見えた百合城の城壁から悲鳴が次々とあがる。

 もはやこれまでとの思いか目を閉じたゆり江の耳に、異様な音が聞こえたのはその時だった。


 夜の闇から聞こえてくる、地面を響かせる振動とうなり声。そしてそれが近づくにつれ、時ならぬときの声となって襲いかかった!


「申し上げます! 正体不明の一団が本陣へと向かってきております! 」


 斥候の兵の報告に陣内は完全に浮足立った。月之丞を捕まえていたはずの兎之介にいたっては片手で少年をつかんだまま、右往左往して足もとが定まらない。

 地響きは本陣に向かって近づいたかと思うと、突然陣幕を蹴破った。

 幕の向こうから現れたのは騎馬の一団、それがたいまつを片手に闇の中から駆け寄ってきたのだった。

 突然の敵襲に伝兵衛の本陣はたちまち蹴散らされた。少年たちを取り囲んでいた兵たちの姿も瞬く間に見えなくなった。


 常に動き続ける騎馬の兵団の中にあって一人、動かぬ者がいる。やはり騎馬のその男に片手、片足はなかった。

 それでも馬上にて均等を取り、片手で手綱をしっかりと握り、わきに挟んだ槍は微動だにせず、片目が潰れた顔面と頭や背を覆う見事な白髪を月光が照らし出していた。


「伝兵衛……。冥土の底から帰ってきたぞ……」


 その声にゆり江は刃を落とし、伝兵衛ははいずったまま後ろへとずり下がった。


「もしや! 」

「まさか! 」

「……おのが策略の恨み、いつか晴らさせてもらうが、今は妻と子をいただいて行く。ゆっくり十年前の所業を悔いて待つがいい……」


 地の底から響くようなその声を合図に、白髪の男の後ろから数騎の騎馬の兵が飛び出してきた。そしてそれぞれがゆり江、月之丞、鷹丸、大次郎を鞍の上に引き上げると、頭の合図とともに走り去って行った。

 後に残されたのは月光の中舞い上がる砂埃と踏み荒らされた陣幕のみ……。


「岩田様、岩田様、今のは……」


 駆け寄った兎之介に聞かれても、腰が抜けたまま立てずにいる伝兵衛はへたりこんだままうわごとのようにつぶやくだけだった。


「まさか……もしや……生きていたのか……武虎……」


                *


 その小屋の存在を知る者は百合城においてもわずかであったはずである。百合城の裏手、山向こうに小さな小屋が建てられていた。

 見た目は小さいが中に入った者は二重の意味で驚くことになる。小屋の中は地下に掘り下げられて見た目よりも大きく、そしてその中には戦うためのありとあらゆる物資が保存されているからだ。先代城主の時に、城を捨て野戦となったときの貯えとして秘密裏に作られていたものである。

 今、その場所は武装した山賊の群れに占拠され、その中では親子の対面がなされていた。

 月之丞にとっては初めて見る父の姿である。しかしその姿は予想をはるかに超えていた。

 無理もない。武虎は十年前のあの爆発を生き抜いてきたのだから。


「……俺はあの城攻めの日、”出城に隠された伏兵がいよいよ動き出す”との知らせを受けた。城と出城からはさみ撃ちにされては本隊が危ない。俺だけならまだ動ける。とっとと叩いてやろうと考えたが……、それが伝兵衛のワナだったのだ」


 ぽつぽつとあの日のことを語る武虎には左手右足がなく、背中まで伸びた髪は月光を受けて白く光っていた。その顔面の傷も相まって武虎がどのような目にあったのかを雄弁に物語っていた。


「その出城に兵の姿はなかった。斥候の知らせに俺は兵は外に留め置き、一人で城に入った。罠ではあったとしても俺ならばそれを喰い破れる、その自信があったからだが……。中に踏み込んだとたん、中にあった爆薬が破裂した。俺はそのまま生き埋めとなった……」

「その、ウソの知らせを伝えたのは……? 」


 ゆり江の問いに武虎は重々しくうなづいた。


「岩田、伝兵衛だ」

「やはり……。伝兵衛は昔からお前様を恨んでおりましたゆえ……。明らかに己の方が器量も才能もないとゆうのに、お前様の下にいることをよしとしないところがありました。そしてそれは今、兄上に向けられているようですが……」

「相変わらず、代り映えのせん奴だ」


 それまで突然現れた大きな父に引き気味だった月之丞は、その言葉で少し力が抜けた。それまでは彫像のように見えたその姿が、一気にすねた悪ガキになってしまったので。

 それを感じ取ったのか武虎は月之丞を見直すと一本しかない手を息子の頭の上にポンと乗せた。


「月之丞、だな」

「……はい」

「俺が戦に行く頃にはお前はまだゆり江の腹ん中だった。男なら”月之丞”、女なら”おゆり”と言って出てきた。……よく、大きくなったな」

「……はい! 」


 若き主の父との対面に、部屋の隅にいた小姓たちからすすり泣きの声が漏れた。


「それにしても、よく、生きておいででした」

「すまん。もっと早く帰るはずだったのにな」


 瞳に涙を浮かべているゆり江に、武虎はそっとやさしく声をかけた。


「城に生き埋めとなった時、片腕片足を失った。我ながらよく生きていたものだと思う。それを助けたのが、死人から鎧をはぎ取りに来ていたこの山賊どもなのだから笑えるというものだ。よくその場で打ち殺されなかったものだといまだに思うぞ」

「親分はお覚えじゃないかもしれませんがね」


 山賊の一人があきれたように言った。


「はぎとろうと体をつっついた途端、ものすごい形相とうなり声で起き上がりましてね。もう髪も真っ白だったし、皆、”化け物が出た! ”と大騒ぎで。力尽きて倒れてももう毒気も抜かれちまったんで、ねぐらまで運んで手当てしたんですよ」

「そのおかげで一命は取り留めたわけだ」


 部下にニヤリと笑ってみせた後、武虎は少し暗い顔になって言った。


「だが、その時には俺はすでに俺が何者であるかを無くしていた。俺が誰か、どこから来たのかもなくして、ただ体だけが治っていった。片手片足ながらも槍を振りまわせるようになっていたころには、こいつらから”白虎の親分”などと呼ばれて山賊たちの親玉となっていた。そしてそのまま十年あまりも暮らしていたのだ。……あの小僧が来るまでは」

「小僧? 」

「そうだ。百合城から使者としてやってきたという速太という小僧だ。あ奴から聞くまでこの十年、己が何者かも思い出せずにいた。……遅れてすまん。これでもすぐ飛んできたのだが」

「速太はお柳の弟です。……そうですか……速太が生きていましたか……」


 感慨深げにゆり江が目を閉じると、武虎は一本しか残っていない腕でその顔をそっと胸元に引き寄せた。


「今、あ奴は俺の手下とともに親父殿の本陣に向かっている。親父殿たちがことの一部始終を知るのももうすぐだ。よく……がんばったな」


 その時少年たちは信じられないものを見た。

 あの、黒百合の方が男の胸の中で泣いている! ……だがそれは不思議と心温まる光景でもあった。

 その光景を打ち破ったのは、飛び込んできた手下らしき男だった。


「白虎の親分! 大変ですぜ! 」

「……どうした」


 体を離そうとしたゆり江を強い力で抱きしめたまま顔だけ向けた武虎に、男は唾を飲み込みつつ答えた。


「……百合城が、燃えていやす! 」


               *


「燃やせ燃やせ燃やせ! もうこうなったらすべてを消し去ってしまえ! 」


 岩田伝兵衛が叫んでいた。その背後から無数の火矢が城へと飛んでゆく。


「い、岩田様、城の者を黒烏城へ連れてゆくのでは……? 白百合の方もまだ中に……」

「うるさい! 」


 おそるおそる申し出た兎之介を、伝兵衛は振り返ることもなく一蹴した。


「そのような考えが時を余計に費やす元だったのだ! もうよい! いらん! すべて、すべてなくなってしまえばよいのだ! 」


 次々と放たれた火矢によって城からは煙が上がり始めた。それを前に声をあげて笑う伝兵衛の後ろで、兎之介は自分の足が後さずりしているのに気がついた。まるですべてから逃げ去ろうとでもするかのように……。


    *


 城の中ではすべての者が走りまわっていた。

 逃げようとする者、怪我人をかばう者、火を消そうとする者……。


「下手に走り回ってんじゃないよ! 一つ一つの火は小さいんだ! すぐなら消せる! 水場はあちこちにあるぞ! 手渡しで渡していけっ! 」


 かすみが声を張り上げて叱咤し、それで動きにまとまりが生まれる。

 井戸から、また消火用の水置場から。桶で汲みだされた水が手から手へと受け渡され、火へと投げかけられる。

 それでも次々と飛んでくる火矢の前に少しずつ火の勢いは強くなる。それは城の外側だけでなく、内庭までも押し包もうとしていた。


「お方様~! 危ないですから避難してください~! 」


 内庭に作られた畑の前でさゆりは呆然と立ち尽くしていた。日々丹精をこめて世話していた政近の畑は、さゆりの目の前で火に包まれていた。


「……お梅? わたくし、人によく穏やかとかおとなしいとか怒ったりしないような女に思われてまいりましたでしょう? 本当は違いますの」


 夜の闇の中、焼きつくしている炎を見つめて、さゆりはゆっくりとそう言った。


「わたくし、恐ろしかったのですわ。本当に怒ったら自分がどうなってしまうのか、それが恐ろしくって……でも……」


 ここでゆっくりとさゆりが振り返った。その顔は炎に照らし出され、常になく恐ろしげで……。


「これは……怒ってもようございますわよね? 」


 畑の炎が風にあおられ、火の粉が空に舞う。さゆりの髪もあおられて宙に舞い、それがまるで体から怒りの霊気が立ち上っているようで……。


「ひえええええええ~~~……」


 お梅は思わず悲鳴を上げた。


              *


 もはや火は手のつけられないほどまわっていた。次々と水をかけても炎はその上を乗り越えて進んでくるように思えてくる。


「だ、だめですぅ~! 消えませぇん! 」

「あきらめてんじゃないよ! あきらめたらそれで終わりなんだ! 」


 かすみの叱咤ですら人の気力が燃え立たされることはなく、炎の前に消え去ろうとしていたその時。


「皆の者! 集まりなさい! 」


 凛とした声に顔を向けた人々は我が目を疑った。

 そこには額に白鉢巻、タスキがけで凛とした、誰あろう、白百合の方が立っていたのであった。いつもは奥向きの仕事で常に白百合の方の様々な姿を見てきた侍女たちですら絶句した。


「あたしっ……お方様のあんな姿、初めて見たわっ……」

「……もはや、すべてを救うことはできません」


 周りの者の驚がくをよそに、てきぱきとさゆりは指示を下し始めた。


「本丸、二の丸は放棄します。火薬庫は延焼を防がねばなりません。充分に水を含ませなさい。総ての者の非難場所として武芸場を指定します。そのまわり、道筋の安全を確保しなさい。蓄えてあった兵糧もそちらへ移動させます。さぁ、動きなさい! 」


 今まですべてを守ろうとウロウロしていた人々が、与えられた指示のもとに動き出した。それは生き残るための第一歩だった。


「抜け穴から皆を逃がします」


 さゆりはお柳とかすみを呼び寄せると言った。


「いつまでも城はもたないでしょう。それぞれ外に出てから食べられるように残った糧食を分け、人目につかぬように少しずつ外に出します。手配をお願いできますか? 」

「まず、まだ抜け穴が使えるのか確認しなくちゃいけないね。あれ? 総次はどうしたのさ、このクソ忙しい時に」

「いません」


 かすみの問いにお柳は冷然と答えた。


「黒百合の方が城をお出になると決めたあたりから姿を消しました」

「ちょっ……なんだよ、それ? あいつに限って、逃げだしたってのかい? 」

「驚きはしません。……最初から怪しいとは思っていました。敵の……間者だったのでしょう」


 能面のような硬い表情でそう語るお柳をさゆりはじっと見た。そして一瞬だけ元のやさしい表情で語りかけた。


「……帰ってきますよ、きっと」


 その心を感じたのか、お柳は深々と頭を下げた。

 火との格闘は、じりじりとその範囲を狭めつつ行われていた。だがそれは敗北ではなく、戦略的撤退であることを皆が知っていた。

 少しずつ、少しずつ、武芸場の広場で兵糧の一部を持たされた者たちが消えていった。その者たちすべてが、自分が先に城を後にすることに涙を流した。


「せめて、お方様が先に行ってくださらんか!? この老いぼれが先に落ちるなど、到底受け入れられん! 」


 作之進はそう言うとさゆりの手をとって泣いた。なんと言っていいか困っている主を見かねたのか、かすみが口をはさんできた。


「親父殿がとっとと行かないと他の者が落ちられんじゃないか。グズグズしてるとみんな焼け死んじまう。お方様を焼き殺したいのかい? 」

「何を言う! だからこそ、お方様には先に落ちていただかねばならんのだ! 皆、そう言うておる。なぁ、皆の衆! 」


 そうだそうだと声を上げる者たちを見て、やっとさゆりは作之進に声をかけることができた。


「合田様。この者たちをお見捨てになられるのですか? 」

「何ぃ!? 」

「いくら敵の目を逃れて少しずつ行くと言っても、周りはまだ敵の兵が取り囲んでおります。そこへ丸腰の民をそのままゆかせるおつもりですか。私はまた皆と会いたいのです。合田様がお守りにならなければ誰が守るというのです」

「そ……それは……」

「お方様はあたしが守るよ、親父殿」


 迷いだした作之進にかすみが力強く言った。


「髪の毛ひとつ損なわせやしない。だから親父殿も己のなすべきことを果たしてくれ! このことを、修行している兄者が旅の空で聞いたとしても同じことを言うぞ! 」

「む……むむ……むむむ……」


 二人の言葉にうめきだした作之進は、自分がさゆりの手を握っていたことにやっと気づいた。あわててその手を離すと涙をこらえた目で作之進は真正面からさゆりを見た。


「……先に……行かせていただきます……」


 深々と頭を下げた作之進とともに、出ていく人々もまた頭を下げた。さゆりもまた涙を眼にためたままうなづいた。

 最後に残ったのはさゆり以下三侍女、護衛のかすみとお柳だった。もはや燃え残っているのは念入りに濡らした火薬庫と、抜け穴付近の二か所だけでしかない。


「政近様は……お許しくださるかしら」


 心細げにさゆりがそうつぶやいたのをお松、お竹、お梅の三侍女は聞き逃さなかった。


「お方様はぁ、精一杯やったと思いますぅ」

「これだけ攻め込まれて誰も死んでないんですよっ。上々ですっ」

「……って感慨にふけってる暇があるなら、さっさと逃げましょ~よ~。熱い~」

「ははっ、そのとおりだ」


 かすみが笑うと、お柳とともに皆を物見やぐらの下の抜け穴へと案内した。一人、二人……すべてが抜け穴に入った時、建物が一つ焼け落ちたのか風に乗って火の粉がごぉと飛んできた。皆が悲鳴を上げる直前、抜け穴の重い扉は閉められた。


「……これからどうなさいますか」


 手灯のゆらゆら揺れる灯りの中、一歩一歩進んでゆくさゆりにお柳が尋ねた。


「……私たちだけで黒烏城へ行くことは可能でしょうか」

「この、囲みを抜けて、ですか」

「おそらく実家や縁者の元へは手が回っていることでしょう。いっそ黒烏城まで行き、この窮状を訴えるのも一つの方法ではないかと思うのですが」

「……お供します」

「護衛もいるね」


 闇の中、できるだけ気軽そうにかすみが言った。


「はいはーい! 私も行きまーす! 」

「お世話をする人がぁ、絶対一人はいりますよぉ? 」

「ちょっとっ! 物見遊山の相談してんじゃないのよっ! 」


 かしましい声が抜け穴の中に響くのが、やっとさゆりの顔に笑みをもたらした。そして穴を抜けた時……。


「待ちかねたぞ、白百合の方。いや、さゆりよ」


 思いもよらぬ声にかすみとお柳の動きは素早かった。戦えぬ三人を抜け穴に戻すと、二人で見えぬ敵に向かって刃を抜いた。

 そして一斉に灯された明かりの中、伝兵衛が言った。


「いつまでもわしらを出しぬけると思うなよ」



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