懐古
どうして今になって思い出すのだろう。
そうだ、においだ。
あのにおいがしているからだ。
今よりも小さかった頃の記憶。
手元に残ったのは淡い色の玉。
思い出すのは、可愛いあの子達のこと―――
「手を出してごらん、ナッちゃん」
そう言って祖母はうずらの卵よりも少し大きいくらいの、楕円形の玉をわたしの手の平に乗せた。
初めに渡されたのは白い玉。それからふたつ、みっつと色の違う玉を次々と乗せていく。
ピンク、黄緑、水色。淡い色合いの可愛らしい玉を全部でよっつ乗せられたが、重みは全くと言っていいほど感じられなかった。
わたしは受け取った玉を床に並べて、そのうちのひとつを摘み上げてまじまじと見た。表面はでこぼこしていて、細い繊維がその周りにふわふわと絡み付いている。紙で作られたものかと思ったけれど、それはとても細い一本の繋がった糸で作られたものなのだと祖母は教えてくれた。
どうやら中は空洞になっているらしく、振ってみるとからからと音が鳴った。
「これ、おばあちゃんが作ったの?」
「これはね、オカイコさんが作って、おばあちゃんが色を付けたんだよ」
注意深く観察してみたが、玉には穴も継ぎ目も見当たらなかった。それなのに中に何かが入っていて、からからと音を立てている。私にはそれが不思議でならなかった。
「オカイコさんはすごいんだね。わたしにも作れる?」
「それじゃあ今度は五月の休みに遊びにおいで。オカイコさんに会わせてあげるよ」
祖母にそう言われたのは夏休みの終わりの頃。
次に田舎の祖母の家を訪れたのは、春休みだった。
両親が離婚して、わたしは母と共に祖母の家に住むことになった。
わたしは祖母の家から新しい学校に通うようになった。
春休みが終わってゴールデンウィークに入るまではあっという間だった。
新しい学校で友達は出来ず、母は毎日働き詰めでどこかへ遊びに連れて行ってもらえる気配もなく、退屈な休暇を予感した。
祖父祖母は毎日二人で畑を耕していたが、五月に入ると祖母は一人倉庫で作業をするようになった。
そういえば五月になったらオカイコさんに会わせてくれるという約束をしていた、ということを思い出した。
休暇が始まってそのことを話すと、祖母は「そうだったね」と言ってわたしを倉庫へと連れて行った。
わたしはその場所を『倉庫』と呼んでいたけれど、それは頼りない木造の建造物で、元は牛舎として使われていた建物であるらしい。
オカイコさんはすでに倉庫の中にいるという。わたしは早くオカイコさんに会いたくて、祖母を追い越して引き戸に手を掛けた。けれど鍵が掛かっているのか、戸はぴくりとも動かなかった。
少し遅れて追いついてきた祖母が手を掛けると、戸はあっさりと動いた。鍵が掛かっていた訳ではなく、建て付けが悪くて開けるのにコツが必要だったようだ。
歪んだ木製の戸と錆びたサッシが、がらがらきぃきぃとうるさい音を立てる。
戸を開ける祖母の陰から倉庫の中を覗き込んだけれど、中は真っ暗で誰かがそこで待っているとは思えなかった。
戸が開く音が止んで、わたしは気付いた。
いる。
たくさんいる。
闇の中にたくさんの気配を感じた。わたしは入口からそれ以上足を踏み入れることができなかった。
気配だけではない、においがしたのだ。嗅ぎ慣れない、甘いようなにおい。
甘い物は大好きだったけれど、どうしてなのかその甘いにおいは不快なものに感じられた。
―――これは、死骸のにおいだ。
根拠もなく、そんなことを思った。
これは死んだものが放つにおいなのだ。
そう思うと、わたしはオカイコさんに会うのが急に怖くなってしまった。
「ナッちゃん?」
入口で固まってしまったわたしに、祖母が訝しげに声を掛ける。
わたしはその声を無視して、一刻も早くこの場から離れようと駆け出した。
家の方には戻らず、畑へと向かって駆けた。古い造りの日本家屋である祖母の家は、電気を点けないと昼間でも薄暗い。暗闇には、倉庫にいた何かが潜んでいるような気がした。
畑には祖父がいるはずだ。そう思って駆けたけれど、すぐに見付けることはできなかった。田舎の畑は広い。山間の畑ともなると、いくつもの段差があって見通しも悪い。
祖父の姿を探してさ迷い、気が付けば足を踏み入れたことのない場所に辿り着いていた。
どこか不気味な光景だった。
その場所は畑には違いがないのだけれど、そこに植わっていたのはずんぐりとした木の幹だった。
背は高くない。枝も葉もなく、無骨な形の幹だけが等間隔に畑に並んでいた。
これは何の木だろうか。そう思って近付こうとした瞬間、あの甘いにおいが鼻をついた。
いるの?
わたしは辺りを見回した。
緑の草がざわざわと揺れている。
草の陰に隠れてこちらの様子を伺っているのだろうか。
わたしは来た道を引き返した。
祖父の姿は見付けられず、家にも戻りたくはない。どこへ行ってもあの気配が付きまとう。
どこへ行っても同じなら、せめて祖母がいると分かっている倉庫に戻ることにした。
「おや、どこに行ってたんだい?」
開け放たれたままの戸の向こうで、祖母が作業しているのが見えた。小屋の中にいくつもある平たい木箱の中に、緑色の葉っぱを入れて回っているようだった。
「そんな所にいないで入っておいで。オカイコさんがいるよ」
「うん…」
自分が会いたいのだと言った手前嫌とは言えず、わたしは恐る恐る小屋の中に足を踏み入れた。
ざわざわと音がする。嫌なにおいがする。
早くオカイコさんに会ってここから出ようと思ったけれど、小屋の中には祖母以外に人の姿は見当たらなかった。
「ほら、これがオカイコさんだよ」
祖母が何かを摘んで差し出してきた。オカイコさんは人の名前だと思い込んでいたけれど、そうではなかったようだ。わたしは手の平を受け皿にしてそれを受け取った。
祖母がわたしに手渡したのは、大きなイモムシだった。
わたしは驚いて、思わず振り落としそうになった。
けれど振り落とすまでもなく手を傾けただけでイモムシはころりと転がって、わたしの手の上から落ちそうになった。
わたしは咄嗟にイモムシを手の平で包んだ。
落としたら破裂して、中身をそこかしこに飛び散らせてしまう気がした。
イモムシの身体は、どろどろとした液体が詰まった袋のようなものだと思っていた。
手の中のイモムシの身体は柔らかかったけれど、指で押せばどこまでもずぶずぶと沈んでいくような柔らかさではなく、中に芯のようなものを感じられる柔らかさだった。
おそるおそる、手を開く。
手の平の上で、イモムシは蠢いていた。
くすんだ白い身体。ところどころに黒い斑点がある。
イモムシの身体の表面は正体の判らない液体で濡れているものだと思い込んでいたけれど、手に触れた感触はさらりとしていた。
身体は冷たくて、ひやりと心地よい。
可愛らしい玉を作るオカイコさんは人ではなかったけれど、思っていたよりも可愛らしいものだった。
それからわたしは、暇があればオカイコさんのいる小屋に遊びに行くようになった。
何をするでもなくオカイコさんを眺めたり、祖母を真似てオカイコさんに餌となる桑の葉をあげる手伝いをしたりした。時折葉をひっくり返しオカイコさんを転がすという、彼らにとっては迷惑極まりない遊びをしたりもした。
ざわざわという音は何匹ものオカイコさんが桑の葉を食む音であり、甘いにおいの正体はその桑の葉のにおいであった。
最初怖いと思っていた音にはすっかりと慣れた。けれど桑の葉のにおいは、どうしても好きにはなれなかった。
休みが終わり、学校が再開されると、少しずつわたしに友達ができるようになった。
友達と遊ぶ時間が増え、それに伴ってオカイコさんに会いに行く回数は減っていった。
最後に倉庫に行ってから数日空き、久しぶりに様子を見に行った時、オカイコさんの姿に変化があった。
オカイコさんは繭になっていた。
白い繭玉。夏の終わりに見たあの玉は、オカイコさんが作る繭なのだと知った。
繭になったということは、成虫になろうとしているということだ。
「オカイコさんはどんな蝶になるの?」
わたしがそう尋ねると祖母は、オカイコさんは蝶にはならないのだと答えた。
「蚕は蛾になるんだよ」
わたしはその言葉を聞いてショックを受けた。可愛いオカイコさんは、可愛い蝶になるものと思い込んでいた。
蝶と蛾はどこがどう違うのか正直分からなかったけれど、オカイコさんが蛾になってしまうのはなんだか嫌だった。
蝶は綺麗で可愛いもので、蛾は汚く醜いものだと思っていた。
オカイコさんに蛾になってほしくなかった。
このまま繭から孵らなければいいのにと思った。
それから少し後のこと。祖母はわたしの知らないうちに繭玉の染色を終えていた。
ピンク、黄緑、水色。あの時見せられた物と同じ、可愛らしい玉が出来上がっていた。
繭を染めるところを見られなかったのは残念だったけれど、正直に言うと少しほっとしていた。
オカイコさんが蛾になるところを見なくて済んだからだ。
わたしは出来上がった玉を手に取る。
きっともう、この中にいた子達は遠くに飛んで行ってしまったのだろう。
玉を振ってみると、からからと音が鳴った。
可愛いあの子達が作った、可愛い玉。
玉には穴も継ぎ目も見当たらなかった。
はい、どちら様ですか?
あら、まァ、何かあったんですか?
お隣ですか?ええ、まあ…
最近引っ越して来たんですよ、親子三人で。再婚だって話ですけどねェ。
さァねえ。忙しい方みたいで、あまり近所付き合いもないから…
娘さん?ああ、ナツコちゃんね。
そういえばあまり見てないわねェ。もともと外で遊ぶような子でもなかったようだし。
どんな子って言われてもねェ…
可愛らしい子ではあったわ。色が白くって、繊細そうな子。
変わったことですか?
そうねェ。最近、庭に出ると変なにおいがするのよ。
言われてみると、お隣からにおっているような…
やァねえ、何のにおいなのかしら?
―――それは、桑のにおいだ。
可愛いあの子は繭の中で蛹になった。
蛹は蛾にはならなかった。
開けてはいけない。
中を見てはいけないよ。
中を見なければ、あの子は今も可愛いあの子のままだから。
からからと音がする。
からから、からからと。
可愛いあの子は何処へ行ったのだろう?
蚕は品種改良により野生回帰能力を完全に失った家畜化動物。
幼虫は足の力が弱いため、自分の力では餌となる葉を探し出すどころか、葉や樹木にくっついていることもできない。
そのため人間に飼われても逃げ出すことはできない、というより逃げ出そうとしない。人間が餌を与えなければそのまま飢え死んでしまう。
繭を取るために飼育されている蚕は飼い主に孵化を待ってはもらえない。
たとえ孵化したとしても、成虫は退化しているため空を飛ぶことはできない。当然、自然界で生きていくことはできないのです。
※余談
蚕の成虫はもふもふでちょっと可愛い。