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判子を片手に書類の束をめくっていく先生に、お茶が入った湯呑みを差し出す。考えてみればずっと先生が淹れてくれていたから、わたしが淹れたのはこれが初めてなのだ。
社会科準備室に備え付けの茶葉は、ほうじ茶のみ。それが人気のないこの部屋の誰の好みなのかは、無論言うまでもない。コーヒーや紅茶じゃないところが渋くて先生らしいと言うかなんと言うか。
「そういえば、副カイチョーと先生、すごく親しそうに見えたんですけど」
わたしはふと気になっていた事を口に出してみた。以前ここで目にした光景は、単なるタメ口と言うよりも、お互いをよく知っているような話し方だったように思えたのだ。
「ご近所さんだからねえ。あいつが歩き始めた頃から知っているんだわ」
「え。そうなんですか」
「そうなんですよ。一年くらい前に、思春期のあいつから恋の相談を受けましてね。それからあんたの事を意識して見るようになって、いつの間にやら僕が気に入っちゃったんだわ、うん」
「あー。そ、そう、なんです、か」
「そうなんですよ」
どうやら副会長がわたしの事を、とい言う友人の言葉は、本当の事だったようだ。異性から好意を寄せられるという事に慣れていないわたしは、その事実を知っただけで頬が熱くなった。
「なんでそこで赤くなるかな」
先生の手が止まり、書類から離れた目がわたしを捉えた。
「あんたねえ。他の男の事を考えてそんな顔をされたりしたら、僕の立場がないでしょう」
「な、なに言ってるんですか。センセーとわたしは、別になんの関係も」
「何のための宿題と答え合わせだったと思っているのかねえ、この人は」
真顔で詰め寄って来る先生に、思わず後退る。
「だ、だって、単にわたしがセンセーのお気に入りで、少しだけ特別扱いしてもらっているって言うだけですから」
「それは卒業までの建前でしょ」
じりじりと後退するわたしの背中を、冷たい物が流れていく。
「いや、でもほら。卒業するまでは、なにも言わない、なにもしないんですよ、ね」
わたしのそのひと言に、先生の動きが止まった。眉間に皺を寄せてにわかに険しくなった表情に、どうやら理性と本能が葛藤しているらしいと悟る。これは余計な刺激をしない方が賢明だ。そう判断して、わたしはただじっと先生の様子を見ていた。
「とりあえず。他の男の前でそんな表情を見せたり、俺の前では他の奴の事で顔を赤くしたりしない事、だな。俺の精神の平安のためにもぜひそうしてくれ」
先生の理性が勝利した瞬間に、わたしは心の中で密かにガッツポーズを作った。口調が「公」になっているのは、この際仕方がない事と割り切る。単純な事だけれど、これが先生の自制法らしいのだから。
「ところでセンセー。今日中に目を通してくださいね、それ」
このままではちょっとまずいかなと思い、とりあえず話題を変える事にした。
「そこでいきなり、現実に引き戻すかねえ」
これ見よがしに大きな溜息を吐く先生に、わたしはどんな顔をすればいいのか分からなくなる。
「まあ、とりあえず仕事に戻るとして、だな」
突然伸びてきた腕に、身構える暇もなく引き寄せられ、閉じ込められてしまった。いきなりの事におたおたと慌てるわたしにはかまわずに、先生は頬擦りまでしている。
心臓が口から飛び出すのではないかと思うくらいに大きく跳ね、同時になんともいたたまれない妙な気分になってしまった。
「んー。よし、充電完了」
しかしすぐに解放され、真っ赤になったまま呆然としているわたしをよそに、先生は机に戻って書類の処理を始めてしまう。その切り替えの速さについて行けず、わたしはしばし呆然とその横顔を眺めていた。
「あ。あの、センセー。お邪魔なら、出て行きますけど」
激しく鼓動を刻む心臓を必死で宥めながら、声をかけてみる。わたしがいては先生が仕事に集中できないのではないかと懸念しての言葉だった。
「邪魔なわけないでしょ。いいからあんたはここにいてクダサイ」
顔を上げていないためにややくぐもったその言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。しかしまた「私」に戻った口調に、僅かながら緊張せずにはいられない。しかも最後の方は、見事に棒読みだったし。
「りょ、了解しました」
やや上ずってしまった返答に、先生がくすりと笑う気配を感じた。
ただ黙って座っているだけというのが退屈で、わたしはぼんやりとさっき屋上であった事を思い出していた。ほっと小さく溜息を吐くと、自然と頬の筋肉が緩んで来てしまう。
二ヵ月半もの間わたしの頭を悩ませていた懸案が、ようやく解決したのだ。それもわたしが望む最高の形で。素直に喜ばないわけにはいかなかった。
「もしかして、ですけど。センセーの特別って、その、生徒としてじゃなく、なんです、か?」
もしも間違えていたらとんでもなく自己満足で限りなく勘違いなその答えは、それでもこの二ヵ月半の間、何度否定してみても頭の中に沸きあがってきた物だった。嫌われているがゆえのからかいなのではないかという考えは、始業式の日に他ならぬ先生自身に否定されたのだから。
自信はまったくなかったものの、なぜか妙に確信めいたものを抱いていた。わたしだけにしか見せない表情と口調は、つまりわたしだけに見せてくれる物なのだから。
先生は、何も言わずにじっとわたしの顔を見る。穴が開くんじゃないかと思えるほどの凝視に、じんわりと冷や汗が滲んで来た。
「正解」
耐え切れずに顔を逸らしかけた時、ようやく先生の声が耳に届いた。
「え」
「だから、あんたの勘違いじゃなく、それで合っているんだって」
表情が消えていた先生に、笑顔が戻った。
「これでも教師の端くれだから、僕からあんたに言うわけにはいかなかった。って言うのは、まあ、言い訳にしかならないかもしれないんだけどね。気付いてもらいたかったわけですよ」
先生は心なしか照れくさそうに眉尻を下げ、少し硬そうな髪をいじっている。よく見ると少しはねているのは、さっきまで寝転んでいたせいなのかもしれない。
わたしはと言うと、あまりにも驚きが大きすぎ、そしてまだとても信じられなくて、呆然とその様子を見ているだけだ。
「いやあ、でもほんっとにやっと、だねえ」
「や。だ、だって、まさか、センセーが、なんて」
そんな事があるはずはないのだと否定し続けてきたわたしは、正直にそれを告げる。
「あー。うん、まあ、そうだろうなあ」
あはは、と先生が乾いた笑を漏らす。それがなんともばつが悪そうで、見ていておかしくなって来た。
「卒業まで何も言わない何もしないつもりだったんですよ。教育者だからね。でもあの時、あんたにキスされそうになって、ちょっと予定が狂ったんだわ」
「あの時」が四月一日だと言う事は、すぐに分かった。
「や、だ、だからあれは、エイプリルフールの」
「まあ、そういう事にしておこうと思ったんだけどね。あんたの顔を見ていたら、実は本気だったんだろうなというのが、分かっちゃったんですよ」
あああああ。穴があったら入りたい。恥ずかしいやら情けないやらで、頭にも顔にも血の気が上ってしまう。もしもタイムマシーンがあれば、あの時の自分をなんとしてでも止めてやりたい気持ちになってしまった。
「で、気がついちゃうとこれはもう、放ってはおけないでしょ」
「そ、そうなんです、か」
「そうなんです。ただでさえ約一名、あんたに気があるっていう男がいるのを知っていたからねえ。気が気じゃなかったんですよ」
そういえば余裕がないとかなんとか、先生が言っていたような気がする。上気してぼーっとした頭でそんな事を思い出した。
「や、約一名、ですか」
「そ。あんたもいいかげん、気付いているんじゃないかと思うけど」
それはたぶん、副会長の事だろう。それ以外には心当たりがない。
「まあ、その約一名がいなけりゃ、僕があんたに惚れる事もなかったんだけど。なにしろ生徒は対象外だと思っていたからねえ」
先生の口から「惚れる」なんて言葉が飛び出してしまい、わたしはびっくりして腰を上げそうになる。けれどそれを押しとどめたのは、とっさにわたしの右手を掴んだ先生の手だった。
「こら。逃げるんじゃない。ちゃんと話は最後まで聞きなさい」
そうは言われても、逃げ腰になってしまうのは、条件反射という物だ。なにしろこんな風にストレートに好いた惚れたと言われた事など、生まれて初めての事なのだから。
「大事な話だから、ちゃんと座って聞いてクダサイ」
先生の目が怖いくらいに真剣で、思わずごくりと喉が鳴った。
「は、は、い」
観念してその場に正座する。一応屋上なんだから汚いんじゃないだろうかとか、でもさっきまで先生はここに寝転んでいたななどという事が一瞬頭の片隅を過ぎったけれど、それよりもなによりも先生の目に絡め取られでもしたかのように動けなくなってしまったのだ。
「ここに至ってもこれ以上は僕の口からは言えないっていうオトナの事情を、あんたに理解してくれって言うのは虫のいい話だと思いはするんだけどね。でも、これは僕が教師であんたが生徒である以上、どうしても越えられない境界線であり、消す事のできない事実だから」
生徒が教師に「好き」だと伝える事は容易い。コドモゆえの自由とワガママで許される。けれどオトナであり教師である先生からは、恐らくそれらしい素振りさえ見せる事は許されない。そのくらいの事は、コドモのわたしにでも分かっている。だからこそ、先生の迷惑になる事も拒否される事も避けたかったのだ。
「あんたの卒業まで。正確に言えば、今年度の終わりまで。僕はあんたになにも言えないし、なにもできない。つまりは今までと変わらないと思ってくれた方がいい」
先生の言葉は、とても正しい。そして、とても、ずるい。
「それでも僕は、卒業までこの気持ちが変わらないと約束できる。そんな生半可な気持ちで、思わせぶりな事をして来たわけじゃない、って事なんだけど」
わたしは少しだけ考え込む。
オトナである先生がコドモであるわたしにくれる「約束」は、形も言葉もない、あやふやであまりにも不確かな物だ。正直わたしのどこにそんな魅力があるのかさえ見当もつかないというのに、九ヶ月あまりも先までの事を約束する事なんてできるのだろうか。
「要はね。あんたの気持ち次第って事」
「わたしの?」
「そう。あんたが僕の事を信じて、待っていてくれるかどうか」
それは、正直難しいと思った。なにしろ先生がわたしの事を想ってくれていたなんて事さえ、俄には信じられないでいるというのに。わたしが先生を好きな気持ちは、九ヶ月後もきっと変わらない。けれど先生にずっと想われている自信など、あるはずもなかった。
「うわ。信じられないって顔してるな。それって傷つくなあ」
「え。あ。いえ、センセーを信じられないって言うわけじゃないんです。ただ、その」
わたしは慌てて顔の前で、自由になっている左手を振る。右手は相変わらず先生に捕らえられたままだ。
「自信が、ないんです。こんな、なにもできない、ただのコドモでしかないわたしが、センセーに、それだけ想ってもらえる、なんて」
訥々と、正直にわたしの気持ちを話した。先生は時折眉を顰めながらも、最後まで聞いてくれていた。
「なるほど。自信、ねえ」
少しだけ間をおいて、先生が大きな息を吐いた。
「でもねえ。そんな事を言ったら、僕だって自信なんかないんだけどね。なにしろあんたから見れば立派なオジサンでしょ。やっぱり若い男の方が似合っているんじゃないんだろうかとか、そういう気がかりはずっとつきまとう物だと、覚悟しないわけにはいかないんですよ」
「そ、んなの、そんな事」
「ない、って言いきれないでしょ? だから、束縛するつもりはないんだわ。それでも、手も出せないのにそばに置いておきたいって思う程度には、あんたの事を気に入っちゃっているから」
瞬時、息をするのを忘れていた。
こんな、直截的ではない言葉で。これだけわたしの心を掴まれて引き寄せられてしまうなんて。
「センセーって、やっぱりずるい」
喘ぐようにようやく搾り出した言葉が、自分でも驚くくらいに掠れて震える。わたしの手に触れている先生の手に、心まで鷲掴まれてしまったかのように、胸が苦しい。
「ずるいとは、思うよ。あんたに関してだけは、ずるくならなくちゃ手に入れられないって思ったからね」
こんな殺し文句があるなんて、思いもしなかった。わたしの心は確実に、先生の言葉で射抜かれてしまった。もう、ここから動けない。もう、先生から逃げられない。そんな気がした。
バタン、と突然扉が開かれ、ぼんやりと思考の海に身を任せていたわたしは、飛び上がるほど驚いた。
場所は社会科の準備室。めったに寄り付かないとは言え、先生以外にも社会科担当の教師は複数いるわけだし、教師にしても生徒にしても誰が入って来てもおかしくはないのだけれど。
先生の隣の席の回転椅子に腰かけていたわたしは、部屋の入り口に背を向けていた。だから入って来た人の姿を確認できない。とっさに振り返ればよかったのだけれど、とにかく驚きが先に立ってタイミングを逸してしまったのだ。
足音がどんどん近付き、わたしの背後で止まった。心臓が激しく鼓動を打つ。
「あー。そうだよな、あんた、そういう奴だったよな」
背後からかけられた声には、聞き覚えがあった。人の顔と名前を覚える事が得意ではないわたしがちゃんと把握できている、数少ない男子生徒の一人だ。
「告白タイムは終わったのか?」
先生が軽い調子で、にやりと口角を上げた。
「なにが告白だ。昨日あんたにコクってたやつに、口止めをされただけだ。最初っから誰に言うつもりもないってのに」
ああ、やっぱり。声の主は、副会長だ。安心していいのかどうかは分からないけれど、とりあえずほっと息を吐く。
「ったく。生徒会室に戻ってみれば、会長があんたの所に行かせたって言うから、嫌な予感がしたんだよな」
「予感的中だな」
にやにやと人の悪い笑顔の先生に、明らかに不機嫌な空気を纏う副会長。間に挟まれているわたしは、とてもとても居心地が悪い。ただでさえ副会長がわたしの事を、なんて話を聞いた後では、どういう顔をすればいいのか分からなくなってしまっていると言うのに。
「まあ、今回の事は仕方がないけど。でもそう簡単にはあきらめないからな。せいぜい卒業まで手を出せない彼女を、繋ぎとめておく努力をするんだな」
うわ。なんて事を言うんだろう、この人は。なんて思っていたら。
「まあ、無駄な努力だとは思うが、頑張るんだな。もちろん応援なんぞしてやらんが」
先生まで、そんな事を言ってしまった。
そういうやり取りは、わたしがいない所で交わしてください。お願いします。と、心の中で悲痛な叫びを上げてしまう。
「さっさとその書類片付けて、うちの書記を返してくれよ。不真面目教師」
それだけ言い捨てて、副会長は部屋を出て行ってしまった。
「ああいう奴がいるから、あんたを捕まえておかなくちゃなんて思っちゃったわけですよ」
先生が、溜息とともに苦笑をもらす。いや、まあ、そうなのかもしれないけれど。
「あ、ああ、はい」
言われた当の本人であるわたしは、赤くならずにはいられない。
それからしばらくはまた、先生が紙をめくる音と判を押す音しか聞こえなかった。
目を閉じて耳を済ませてみると、換気のために開かれた窓からは時折、昨夜の後夜祭の片付けをしているらしい物音と声が風に流されて運ばれて来る。廊下を行き来する気配もひっきりなしに感じられ、そういった意味では静寂に程遠い環境だ。それでもやはり静かだな、と思うのは、こういった喧騒が嫌いではないからなのだろうか。
ほっと小さく息を吐き、目を開いて仰天した。すぐ目の前に、先生の顔があったからだ。
「セ、セセセセセ、ンセーっ!?」
慌てて椅子ごと後ろに下がる。キャスターつきの椅子が、容易に先生との距離を開いてくれた。
「あんたねえ。そういう隙だらけの姿を見せていると、こちらの理性がもたないんですけど」
溜息混じりにぼそりと呟いた先生の言葉に、わたしは椅子ごとひっくり返る羽目に陥った。
「あーあ。大丈夫デスカ?」
「いたた、だ、大丈夫、デス」
先生が差し出してくれた手を握り返すと、体ごと一気に引き上げられる。大人の男の人の力に驚かされながらも、小さくお礼を言った。
「そういえば」
握られた手をそのままに、先生が何かを思い出したらしく、わたしの顔をしげしげと見つめて来る。まだこのまっすぐな視線に慣れないわたしの心臓が、先ほどよりもさらに落ち着きをなくしてしまった。
「俺に聞いてほしい事って、なんだったんだ?」
言葉遣いは「公」なのに相変わらず手を握ったままの先生に、なんとなく鍵がかかっていないドアが気になった。もし誰か入って来る人がいたら、今度こそまずいんじゃないだろうか。
「あ、あれ、ですか」
交換条件のように言ってしまったけれど、実はとっさに口から出ただけの言葉だった、なんて今さら言えるはずがない。わたしはドアを気にしながらも、必死に頭の中で考える。
「え、と、ですね。わたしのどこが、センセーの気に入ったのかなーと」
とりあえず浮かんだ言い訳のような物だったが、悪くない質問だと思えた。
先生がまたしてもじっとわたしの顔を見つめて来て、どうにもこうにも居心地が悪い。お願いだから見ないでください、なんて言っても無駄だろう事は分かりきっているから、言わないけれど。
「教えてあげようか」
その声に含まれた艶っぽい響きに、背筋がぞくりと粟立った。
艶を含んだ視線でわたしを見つめながら、それでも握られたままだった手が解放される。そのまま背を向け、先生が自分の席に戻ってしまった。
「急ぐ必要もないだろう。ひとつひとつ時間をかけて、ね」
からかわれたのかと思ってむっとしたけれど、投げかけられたウィンクに、どうやらそうではない事に気付く。先生はやっぱりオトナなんだと、別の意味で感心した。
処理を待つ書類は、あとわずか。それが終ったら、急いでここから逃げ出さなくては。そばにいるのは嬉しいけれど、これ以上は心臓がもちそうにない。書類の束に向かう先生を見ながら、なんとなくそんな事を考えた。
わたしの胸のささくれは、すぐには消えそうにはないけれど。きっとこれからも、些細な事で増えていくのだろうけれど。こうしていっしょにいられれば、胸の裡がほんわりと温かくなるような気がして。無数にできたささくれも、やがて少しずつ癒えていくのだろうと思えるから。
卒業までの間、わたしの気持ちはきっと変わらない。だから、先生の気持ちを信じられるように。わたしも少しずつ自信を持てるようになれたらいいな、と思う。
来年の春も、先生の「特別」でいられるように。