7
拭っても拭っても、涙が止まらない。
とうとう言ってしまった。あの日うっかり告げてしまった「好き」の言葉を、四月一日の冗談だとごまかしていたのに。今日の今では、もうごまかす事はできないというのに。
眼鏡のレンズ越しに見える先生の目が、まんまるに見開かれている。唖然。まさにそんな顔で、先生がわたしを見ていた。
「や、あ、あの」
なにか言わなければ。そう思えば思うほど気持ちだけが焦ってしまい、フォローの言葉などまったく浮かんで来てくれない。肝心な時に役に立たない脳みそが恨めしかった。
「ちょっと、つかぬ事をお聞きしますがねえ」
「は、い」
「その場合の好きってのは、ケーキと同じくらいなのかケーキの次なのか、どうなんでしょう」
さっきの事を再び持ち出され、さてどうしたものかと、ろくに働かない頭で考える。どう答えれば、先生は満足するのだろう。どんな答えを期待しているのだろう。
「それは、秘密です」
「は?」
「わたしばっかり解けない問題を出されるなんて、不公平じゃないですか。だから今度は、先生が考えて答えてください。わたしの『好き』は、ケーキよりも上なのか下なのか」
うん、これでいい。これなら、先生鬱陶しがられるような事を言わずにすむ。あの女子生徒のように、相手にもされない悔しさを感じる事もない。
結局のところ、先生に言われた通り、わたしはずるくて臆病なのだ。
「ああ、そう来たわけね」
先生の顔に、苦笑が浮かぶ。
「仕返しのつもりかもしれないけどねえ。僕の希望も含めた答えは出ていたりするんですよ、これが」
「へ?」
あまりに予想外のその言葉に、あれだけ止まらなくて苦労していた涙がぴたりと止まった。
「でもねえ。何度も言っているけど、それを教師が生徒に言うわけにはいかないんだわ。うん。て事で、やっぱあんたから言ってもらわないと」
は? え? う?
わたしの頭の中は、疑問符で溢れ返っている。
「それって、でも、やっぱりセンセー、ずるくない、ですか」
「んー。ずるいかな。でもこれは不可抗力ってやつでしょ」
不可抗力ってこういう場合に使うんだっけ? なんだか上手く言いくるめられているような気がするなと頭の隅で思いながらも、先生が本気でわたしの答えを待っているような気がした。
まっすぐにわたしを見る先生の目が、笑みを浮かべている口元に反して真剣だったから。いつになく熱っぽく見えるのは、わたしの都合のいい錯覚と勘違いだとしても。
先生のまっすぐな視線から逃げるように、わたしは先生から目を逸らした。
「だめ、ですよ、センセー。わたしはずるいんです。だから結果が分かっている勝負なんて、しないんです」
脳裏を掠めるのは、やはり先生に告白していたあの女子生徒の姿。あの人とわたしの共通点なんて、同じ生徒で先生を好きな事だけ。でも、だからこそ自分の姿を重ねずにはいられない。
「勝負してみなきゃ、結果なんて分からないでしょ」
「分かっているから、いいんです」
だから、これ以上期待させるような事は言わないで。勘違いしてしまいたくなるような事はしないで。
わたしはチョコレートクリームがついた手のひらに、視線を落とした。さっき少し舐め取ったけれど、まだ褐色のクリームが残っている。このままでは鞄を持てない事に気付き、どうしたものかと逡巡する。
これを舐めるのは、さすがに少しお行儀が悪いだろう。それならば手を洗えばいいというものだが、肝心の水道は先生のむこう側にある。ハンカチで拭いたくらいではべたつきが残りそうだし、後の洗濯も大変そうだ。
さっきこの手で鞄を掴もうとしていた事など忘れて、そんな事を考えた。
「いや、分かっていないでしょ、やっぱり」
そう言って、先生がおもむろにわたしの両手を掴み上げた。呆然とその動きを見ていると、手のひらに湿った生ぬるい感触を覚え、悲鳴を上げそうになる。
「セ、センセー、なにしてるんですかっ!」
「なにって、このままじゃ鞄を持てないんじゃないかと思ったから。やっぱり甘いねえ」
「だからって、いきなりそういう事しますか、普通!」
先生がわたしの手のひらを舐めていた。正確には手のひらについたチョコレートクリームを舐めているのだけれど、その熱がもたらすくすぐったさを、直に肌で感じている。
頬に熱が集まり、頭が沸騰しそうだ。
「するでしょ、普通」
「しませんっ!」
くらくらと眩暈がする。今のわたしの血圧を計ったら、きっと過去最高を記録しているに違いない。
「しますよ、あんたにならね」
わたしになら? その意味を測りかねたわたしの眉間に、深い皺が入る。
そして、またしてもぺろりと先生の舌がわたしの手のひらを舐め上げた。
「やっ」
そのざらついた湿った感触に、今度こそ小さな声を上げてしまう。
「も、もういいです、からっ」
声が僅かにだけれど上ずる。心臓が一人で勝手に踊りだしている。
先生がわたしの手から顔をはなさないで、上目遣いでちらりとこちらを窺い見た。その変に艶っぽい視線に、息が詰まる。
「じゃあ、さっきの。あんたの好きがどのくらいの好きなのか、言ったらやめてあげますよ」
頭に血が上りすぎたのかくらりと眩暈を感じ、足元がふらついた。わたしはよくよく先生の前で転ぶんだなと頭の隅で思いながら、体が傾くのを感じた。
ぼんやりと見える視界が歪んでいる。なんだか疲れた。わたしは、再び目を閉じて大きく息を吐いた。
「気がついたのか」
「そうみたいだな」
「ったく、俺がいない間になにしてんだよ、あんたは」
「なにって、見たまんま?」
男の人の声が二つ。何事か話しているのが聞こえて来る。どちらもよく知っている声だと思うのだけれど、固く閉じた目を開く気にはなれない。
「だいたい、教師が生徒に手を出していいと思ってんの?」
「よくないだろ、そりゃ」
「あんた、今の状況、分かって言ってる?」
「お前こそ、今のこの状況が分からないのか?」
状況? 状況って、なんの状況?
「あー? なに? 人が恋の相談を持ちかけたら、いつの間にかあんたにその相手を取られそうになってるこの状況?」
「なんだ。一応分かっているんだな」
「なんでこんな奴に相談なんかしちまったんだろう」
「愚かな自分を恨め。だいたい、お前の話を聞いてからなんだぞ、こいつが気になりだしたのは」
体といっしょに頭も休めたいのに、声の主達の話はなかなか途切れそうにない。いいかげん静かにしてほしくて、わたしは小さく唸った。
「家には連絡を入れたんだろ?」
「さすがにこの時間になると、家の人が心配するだろうからな」
時間? そう言えば、今は何時なんだろう?
「いま、何時?」
「二十一時十八分」
二十一時って、もしかしなくても夜の九時の事だろうか。わたしは根性なしの体に鞭打って、無理矢理に目をこじ開けた。
「今度こそ目が覚めたか?」
「副カイチョー? あれ? ここ、どこ?」
「どこって、社会科の準備室」
社会科準備室?
「まだ寝ぼけてるのか? 後夜祭が終ったから探してみれば、お前がこんな所でぶっ倒れていたんだけど」
「後夜祭? 終ったの?」
ゆっくりと体を起こす。どうやらわたしが寝ていたのは、社会科準備室にあるソファとも呼べないような長椅子の上だったらしい。同時に、体の上に掛けられていた物が滑り落ちる。
手に取って見ると、それはダークグレーの上着だった。うちの制服の上着は紺色ブレザーだし、六月からは夏服だから上着の着用はしない。という事は、これは副会長の物ではない事は確かだ。
それでは誰の物だろう、と思ったら、持ち主自ら答えをくれた。
「詳しい話は後にしてくれ。とりあえず学校を出るぞ」
そう言って、先生がわたしの手からスーツの上着を取り上げたのだ。
「職員室の電気も落ちたから、残っているのは俺達だけだ。守衛さんには連絡してあるが、時間が時間だからさっさと出たほうがいい」
なんだか違和感を感じて、すぐに気がついた。先生の口調が「公」になっているのだ。副会長がいるからなのだろうけれど、この部屋でこの口調で話されると、なんだか突き放されているような気がする。先生の口調は、そのまま心の距離だと思えるのだ。
そしてはた、と思い至る。頭に響くのは「あんただけ」のあの言葉。もしかしてもしかするのかもしれない。それはずっとわたしが否定し続けていた都合のいい勘違いだ。それは、分かっている。分かっているのだけれど。
「センセー」
帰り支度をしている先生に、長いすに座ったままのわたしが声をかける。先生は手を止めず、顔だけこちらを向いてくれた。
「あの、ですね」
その時、目の前にずいっとわたしの鞄が現れた。
「ほら、鞄。お前も早く支度しろ」
副会長がわたしと先生の間に割り込むように立っている。喉まで出かかった言葉が、止まってしまう。
「あ、うん。ありがとう」
鞄を受け取り、ようやく椅子から立ち上がった。
「家の人には、生徒会の仕事で遅くなるって言ってある。帰りは先生に送ってもらう事になってるから安心しろ」
そういえば、九時を回っていたんだっけ。
「これ、どうする?」
先生が、ケーキの箱を指差した。たぶん中には、わたしが食べかけたチョコレートケーキが入っている。
「持って帰って、いいですか」
これ以上ここに留まっても仕方がない。捨てるのには忍びなくて、それなら明日食べようかな、と思った。
「かまわんが、持てるか?」
「はい」
手のひらは、すっかりきれいになっていた。それがどうしてなのかに考えが至り、あの時の先生の上目遣いの顔を思い出し、かあっと頬が熱くなる。
「顔、赤いぞ。大丈夫か?」
副会長に指摘され、慌ててこくこくと頷いた。これじゃただの怪しい人だ。
「行くぞ」
先に戸口に立つ先生の声に、副会長に続いてわたしも急いで走り寄る。
すれ違いざまに見た先生が、口角を上げてにやりと楽しげな笑みを浮かべている。なんだか見透かされているような気がして、真っ赤になった頬を隠すように俯いた。