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 どうしよう、どうしよう、どうしよう。とんでもないことを言ってしまったことに気付いても、今さらその言葉をなかったことになどできない。こういうのを「覆水盆に帰らず」と言うのだろう。

「あ、あのっ。ケ、ケーキの次くらいに、って意味です!」

 思わず口をついて出たのは、フォローにもならない言葉だった。もっとましなことが言えないものかと思うけれど、焦っていてそれどころではない。

「ああ、やっぱりね。そんなことだと思いましたよ」

 先生の両肩が、がっくりと落ちる。

「え? あ、あの?」

「いや、気にしなくていいから。うん」

「気にするなって言うほうが、無理、なんですけれど」

 だって、先生の落胆ぶりを見ていると、もしかしてケーキよりも先生のほうが好きだと言って欲しかったのかと思ってしまう。でもまさかそんな事はあり得ない、と、バカな考えを否定するもう一人の私がいた。

『お前は俺の生徒であって、それ以上でもそれ以下でもない』

『俺は教師で、お前は生徒。それだけだ』

『俺にとっては、お前を女として見ることはできないし、これから先もそれは変わらない』

 あの時耳にした先生の言葉が、脳裏に蘇る。

 先生のことを好きだと告白した彼女の想いは、私と同じ。どちらがどれだけ強いかなんて比べようがないことだし、そんなことは無意味だ。ただ分かっているのは、彼女も私も先生にとっては単なる生徒の一人であり、決してそれ以外にはなり得ないのだということだけ。

 だから、分からない。

『じゃあ、僕のことは?』

 先生は、私に何を言わせたかったのだろう。何を聞きたかったのだろう。どんな言葉を期待していたのだろう。

 ケーキよりも好きだと、そう答えればよかったのだろうか。

「センセー?」

「ああ、気にしなくていい。自分で思っていたよりもショックが大きくて、びっくりしているだけだから」

 片手で額をおさえ、天を仰ぐような格好で、先生が薄笑いを浮かべた。その横顔がなぜかとても寂しそうで、思わず尋ねずにはいられなかった。

「何のショック、ですか」

 そして、そう尋ねたことを後で思いきり後悔することになるとは、まさか思ってもいなかったのだ。




「んー。それをお前に言うわけにはいかないんだ」

 お前。先生はそう言った。それは教室で或いは学校のいたるところで、先生が生徒に向けて呼ぶときと同じ。そして私に対しても、普段はいつもそう呼びかけている。

 だけど。ついさっきまで、先生は私のことを「あんた」と呼んでいた。私にだけだと言った、あのちょっとふざけているような、砕けているけれど親しみの持てる不思議な口調で。

 ちくりと、胸の裡が痛んだ。

「もうすぐ後夜祭も終る頃だな。それ食べたら、帰れよ」

「食べません」

「お前、なに言って」

 先生が小難しい表情で私の顔を見る。ちくり。またひとつ、ささくれが増える。

「食べ終わったら、帰らなくちゃいけないんですよね。だったら、食べません」

「お前ね。俺を困らせて楽しいのか」

 困らせるつもりなど、毛頭なかった。ただ、納得がいかないだけなのだ。けれどそんな私の思いは、先生には理解してもらえないようだ。

「だったら、持って帰れ」

 私の食べかけたケーキを箱に戻そうと、先生が私の手もとに手を伸ばしてきた。私はその手をぴしゃりと払いのける。

「あのなあ」

「持って帰りません」

 今ここで食べてしまえば、その時点で追い出される。持って帰るとなると、箱につめたと同時に放り出される。そのどちらも嫌だった。

「いい加減に、しろよ」

 いつもよりも低い先生の声に、私の体がびくりと震える。

 こんなに近くにいるのに。手を伸ばせば触れられるくらい近くにいるのに。先生は決して近付かせてはくれない。決して触れさせてはくれない。それは分かりきっていたことだけれど。

 ついさきほど湧き上がった淡い期待。もしかしたら、先生を好きだと言わせたかったのかもしれないという私の考えは、やはりただの思い違いだったのだ。勝手に勘違いして勝手に慌てて、私はなんて馬鹿なんだろう。

 ずくり。ささくれが爪でさらにかきむしられたような痛みを訴える。一つ一つは取るに足らない小さなもの。けれど全てのささくれが一度に痛みを訴えれば、それは大きな痛みになる。

「ごめん、なさい。やっぱり、かえり、ます」

 まともに息ができない。声が震えて掠れてしまう。

「ケーキ、ごめんなさ、い。やっぱり、いらない、から、すてて」

 痛い。痛い。痛い。小さな傷の一つ一つから血が流れ出るような、そんな痛み。だけどこの痛みは現実のものではない。そんなことは分かっている。だから、大丈夫。

「おい?」

 私の様子がいつもと違っていることに、先生が気付いたらしい。

 じわりと目尻に滲んだものを見られないように俯いて、私は椅子から立ち上がった。

「さよなら」

 そう言って、すぐにここから出て行こう。それなのに、堪えきれなかった透明のものが、かすかな音を立てて床に落ちた。

「ちょっと、待て」

 掴もうとした鞄を、先生の手に取り上げられる。人質ならぬ物質といったところか。こんな時なのに下らないことを考える余裕があることに、自分でも呆れた。

「なんで、泣くかな」

 恐る恐る視線を上げるとそこには、途方に暮れたような先生の顔があった。困らせているのは私。けれど困らせるつもりなどなかったのにと、思えばさらに涙がこみ上げてきてしまうのだ。

「センセーには、かんけいない、です」

「関係ないって言われてもねえ。他に誰もいない所でいきなり泣き出すってのは、僕が原因だとしか考えられないでしょ」

 ああ、そうか。理由に心当たりがないものの、いきなり目の前で泣き出されて慌てているのだ。学校の中、しかも二人きりのいわば密室で生徒を泣かせたなどということに、困惑しているのだ。

 私は目を閉じて、深呼吸を二回した。滲み出てくる涙はまだ止まらないけれど、少しだけ落ち着いた気がする。

 涙を拭おうとして、手のひらにチョコレートクリームがついたままだったことに気付いた。さっき慌てて口を押さえたときのものだ。仕方がないから舌で少し舐めてみる。甘いはずなのに、苦くてしょっぱい変な味がした。




 目元に触れるものを感じて、慌てて顔を上げた。

「セン、セー、なに」

 先生の手が伸びてきて、その指で目元を拭われている。

「んー。なんでしょうねえ」

 とぼけた口調にからかわれているのだろうと思ったけれど、その目は予想に反して笑ってはいない。

「オトナって、ずるい」

「は?」

「センセーも、ずるい」

「あー、まあ、僕もオトナだからねえ。世の中を少しは知っている分、あんたたちから見ればずるいだろうね」

 いつの間にかまた口調が変わっていた。そんなところもずるいな、と心の中で呟く。そしてまた生まれる、新しいささくれ。

 静かに呼吸を整える。よし、大丈夫。もう声は震えない。

「私はコドモだから、センセーみたいなオトナの考えていることなんか分かりません。考えて考えて他の事なんか頭にないくらいに考えて、それでも答えが出ないのに。私がのた打ち回っているのを、いつもセンセーはオトナの目で見ているだけなんですよね」

 もう涙も止まっている。

「センセー、最初から答えあわせなんてする気はないんでしょう? ほんとうは、正解なんてないんでしょう? センセーが喜ぶ答えを私が出せるかどうか、試しているだけなんでしょう?」

「違う」

「だから、私にだけだなんて言って、そんなふざけた話し方をするんでしょう? 私がコドモだから、からかってバカにしているんでしょう?」

 私に向かって伸びてきた先生の手を、力いっぱい払った。

 声は荒げない。先生に向かって投げつけている言葉の内容とは裏腹に、自分でも不思議なくらいに心は静かだった。




 先生が、大きな息を吐いた。力が抜けたように、椅子に腰を下ろしてしまう。

「あんた、な」

「それ。私のことをそんなふうに呼ぶの、やめてください」

 特別なわけでもないのに、勘違いしたくなる。そう呼ばれるたびに生まれ出る期待を、自分でも持て余してしまうから。

「やめない」

「不愉快なんです。やめてください」

「不愉快になるのはあんたの勝手でしょうが。あんたの言葉を借りるなら、コドモの勝手にオトナの僕がつきあう義理はこれっぽっちもないんだわ」

 先生の声は私の記憶に中のものよりも幾分低くて、ふざけたような人を食ったような、そんな響きは感じられない。ただ淡々と。ちょうど今の私と同じように、静かに言葉が紡がれる。

「これが僕の地だからやめるつもりはないし、あんたには素の僕を見てもらいたいと思っているから、まあ、あきらめなさい」

 勝手な言い分だ、と思う。

「そ、んなの、それこそ、センセーの勝手じゃない。なんでそんなオトナの勝手に、私がつきあわされなくちゃいけないのよ」

「そりゃ、あんたが可愛すぎるのが悪いんでしょ」

 いきなりのその言葉に、思わず思考が停止した。

 カワイイ? カワイイって、どんな漢字でどんな意味だっけ? そんな言葉、親兄弟や祖父母からしか言われたことがない私は、理解するのに少し時間がかかった。

「あんたが僕の前であんまり可愛くて、誰の前でも無防備になったりするから。いろいろ大変なんですよ、こちらとしては」

 ますます意味が分からない。

 可愛いとか無防備だとかとんでもないことを言われている気はするのだけれど、頭が麻痺してしまって理解することができなくなっている。むしろ理解したくないと思っているのかもしれない。

「オトナだコドモだってこだわっているのはね。実のところ、自分自身に言い聞かせているってのもありましてねえ。いろいろまずいでしょ、やっぱり」

 主語が抜けているため、私のことを指して言っているのか、先生のことを指しているのかが分からない。

「センセー、私に分かるように話す気、あるの?」

「教師という立場上、これ以上は言えません。ってことで汲み取ってもらえるとありがたいんですけどね。そう思って宿題なんて言ってあんたに気付いてもらおうと画策してみたりしたんですよ」

 先生が、がしがしと頭をかいた。そういえば以前にもこの社会科準備室で、こんな先生を見た気がする。

「でもまあ、あんたには無理かもなあと思ってはいましたけどね。見事に予想通りで、泣きたくなっちゃうねえ」

「なっ。泣きたいのは、私です!」

「泣きたいんじゃなくて、もう泣いているけど?」

「それは、センセーがずるいからです」

「あのねえ」

 先生がひと呼吸置くように、大きな溜息を吐いた。

「ずるいずるいって言うけどねえ。僕の前でそんな顔を見せるあんたの方が、よっぽどずるいでしょ」

「違う。ずるいのはセンセーです。いつもオトナの顔をして、なんでも分かっているって顔をして。教師だから生徒だからって同じ位置に立つことも許さないくせに、私の中には勝手に踏み込んで来るんです」

「おい。それは何の話だ」

「センセーに近づけたんだと勘違いさせるくせに、いつも最後はオトナのひと言で突き放すんですよね。それで私がどれだけ傷ついているのかなんて、気付きもしないくせに」

 感情の昂ぶりと共に、また涙が溢れだす。

「確かに傷つくのは私の勝手かもしれないけど。でもやっぱり、オトナは、ずるい。センセーも、ずるい」

 ずずっと大きく鼻をすすり上げ、手のひらにはチョコレートクリームがついていることを思い出し、甲の方ででぐしぐしと涙を拭った。

「こんなにずるい人なのに、こんなに好きなことが、こんなにくやしいんです」

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