5
ぼんやりと思考がまとまらないままに参加した、クラスの喫茶店の店番。当然の事ながらメイド服を着せられて、なんの記念なんだか写真なんて物まで撮られた。
クラスメイト達が鼻息も荒く売り上げ一位だ、なんて叫んでいたけれど、確かにまずまずの人の入り。入り口に貼り付けてある「当店では個人的なご奉仕はお断りいたします」と手書きで書かれた画用紙が、妙にシュールでおかしい。
勘違いしたお客からのご指名があったりするが、それは丁重にお断りして、逆にそういった手合いにはギャルソンにオーダーを取らせたりとなかなかに徹底している。まあ、わたしの目の前で違反行為をすれば生徒会からの制裁が待っているのだから、当然と言えば当然だろうか。
「おおー。立派に化けてるねえ」
のん気に現れたのは、生徒会長その人。
「カイチョー、生徒会室でお留守番じゃなかった?」
「いやあ、あんまり暇だから、見回り」
「って、遊んでるようにしか見えないのは気のせい?」
会長の手には、イカ焼きと綿菓子が握られている。
「俺が買ったんじゃないって。見回りしていたら、勝手に押し付けられてさ」
と言っているそばから、わたしの友人がワッフルを持って現れた。
「カイチョーさん、はい、これ。うちの自慢のワッフルだってさ」
「これ以上、どうやって持てと?」
「んじゃ、そのイカ焼き、引き受けようか?」
「そりゃ、助かる。ついでに誰かこれも引き受けてくれないかなあ」
ワッフルと引き換えに会長の両手の物を受け取った友人が、綿菓子をわたしのほうに差し出した。
「はい。あんた、甘いもん好きだよね」
「あ、うん。ありがと。って、いいの、カイチョー?」
「おう。貰ってくれると助かる」
「って言ってるから遠慮せずにもらっときなよ」
実は友人と会長は、一年以上前からつきあっている全校公認のカップルだ。いちゃいちゃしたところがなくて、どちらかというと男友達のような関係に見えなくもないけれど、そんなあっさりとしたところが好感を持たれている。
ワッフルをさくさくっと食べてから、会長はまだ見回りが残っているから、とあっさりと立ち去ってしまった。本当は二人で回りたいのだろうけれど、立場上なかなかそうはいかないのが気の毒なところだ。
もっとも、後夜祭ではいっしょに踊る事になっているそうなのだが。
「いいなあ」
友人の話を聞いたわたしが、つい本音をぼそりと零した。
「あんたもさあ。高望みってーか叶わない相手なんかすっぱりとあきらめて、副カイチョーさんあたりで手を打てばいいじゃん」
わたしが先生の事を好きなのを知っていて言うのだから、意地悪だ。あきらめられるくらいなら、とっくの昔にあきらめている。
「なんでそこで副カイチョーが出て来るのよ」
「うわ。相変わらずにっぶいなあ。副カイチョーがあんたに気があるって、まーだ気付いてないなんて」
「え。な、なに言ってるのよ!?」
「あーあ。副カイチョーもこんなのが相手じゃ報われないよねえ」
そんな事を言われても、副会長がわたしに気があるだなんて俄かに信じられるわけがない。確かに生徒会にわたしを推薦したのは会長と副会長だけど、彼らとは一年の時に同じクラスだった縁があっての事だ。
だいいち、わたしみたいな特別可愛いわけでも美人でもない一介の女子生徒の事を、あの副会長が好きになるはずなんてないのに。
それに、副会長はわたしの前でそんな素振りなど見せた事がない。二人きりになる機会がなかったわけではないのだけれど、彼の態度はいつも淡々としていた、と思う。
不意に、先ほどのゲテモノじゃなくてわたしのメイド服姿を見たいと言っていた副会長の顔を思い出した。気がある? わたしに? まさか。
「手が届かない理想と目の前にある現実と、どっちがいいのか決めるのはあんただけどね」
言うだけ言って、ギャルソン姿の友人はわたしの返答を待たずに、接客に戻って行ってしまった。
手を伸ばせば届くくらいの距離にいるのに、わたしと先生が立っている場所はどうしてこんなにも遠いのだろう。
手が届かない理想だと友人に言われ、さらには偶然見てしまった女子生徒と先生との言葉のやりとりを思い出し、わたしの心は重く沈んでしまっていた。
校庭では、今日の締めくくりの行事である、後夜祭と称するお祭り騒ぎが繰り広げられている。消防法がどうとかでファイヤーストームは禁止されているが、幸い夏至が近いこの時期は、一年でも日没が遅い時期でもある。部活用のナイター照明を全点灯しておけば、終了予定の午後八時までならじゅうぶんな明るさが確保されていた。
特設ステージでは有志によるバンド演奏が続き、その曲に合わせて揺れるように体を躍らせている人達がいたるところで見受けられる。
毎年恒例のこの光景も、三年生にとっては今年で見納めだ。この教室も、この校舎も。そして先生の姿も、全て見納め。
まだあと九ヶ月ある。けれど、もうあと九ヶ月しかない。このままあの日の告白を冗談で終わらせるには、わたしの心を占める先生の存在は大きくなりすぎていた。
教師と生徒。先生とわたしを繋ぐのは、学校というこの場所だけだ。ここを離れれば、先生と顔を合わせる事さえなくなるだろう。
わたし一人だけが残った教室は、明かりを消していても校庭から届く光で歩くのには不自由しない。そんな場所で、わたしはただじっと窓際の席に座っていた。
ガタン、という物音にそちらを見れば、教室の入り口に立つ人影が見えた。
「なんだ、後夜祭に参加しないのか」
その姿にその声に、心と体が震えた。先生は、いつも絶妙なタイミングで現れる。
「セ、ンセー、こそ」
「俺は校舎内の見回りが仕事だからな」
どうやら年配の先生方は、職員室でのんびりと疲れた体を休めているらしい。若手の教師達で管理を分担しているのだが、先生が校舎内の見回りを任されたようだ。
「てことで、こんな薄暗い所に女子生徒一人でいると、危ないだろう」
そう言いながら先生が、ゆっくりと教室の中に足を踏み入れる。
「そ、ですね。じゃあ、生徒会室にでも移動します」
声が震えるのが分かったけれど、自分ではどうしようもない。訝しがられる前にさっさと離れよう。そう思いながらもたもたと立ち上がり、机に置いてあった鞄を手に取った。
「じゃ、そういう事で、って、うきゃっ」
震えているのは声だけではなかった。慌てた事もあって足がもつれ、思いきりよろけてしまう。
「危ない、危ない」
いつの間にこんなに近くに来ていたのか、先生がわたしの腕を掴んで引きとめてくれていた。
その熱に、感触に、眩暈がした。
「あんた、よく躓くよなあ」
「す、すみません」
なんとか体勢を立て直したが、恥ずかしさで顔が火照ってしまう。ほんとうに、どうしてこういつも先生の前でばかり転びそうになるのだろう。
「そんなしょっちゅう転んでちゃ、大変でしょ」
「ふだんは、そんなに転んだりしませんから」
そう、確かに多少どんくさいのだけれど、いつもいつも転ぶわけではない。というか、まあ、原因はたぶん分かっているのだけれど。
「そう? なんか危なっかしくて目が離せないんだけどねえ」
「目、目はともかく、その、手を、放してください」
いまだ掴まれたままの腕から伝わる先生の手の感触に、体の震えがおさまらない。どうしよう、きっと気付かれている。
「ああ、手、ね。はい」
あっさりと放された腕に、ほっと安堵の息を吐いた。
「そんなに怖がられるような事を、した覚えがないんですけどね」
「え。や、あ、の。べべ、別に怖がっているわけじゃ、ない、です」
それでも声の震えは抑えられない。それをどう捉えたのか先生の眉間に縦ジワが刻まれているのが、窓越しの明かりの中でもはっきりと分かった。
「じゃ、あの、生徒会室に行きます、から」
震える足に喝を入れ、くるりと先生に背を向けた。
「ちょーっと、待ちなさいって。どうせ生徒会役員も全員出払っているんでしょうが」
再び腕を捕らえられ、根性なしの足が動きを止めてしまった。
先生に引きずられるようにして連れて来られたのは、いつもの社会科準備室。やはりいつものように他の教員の姿はなく、しんと静まり返っている。
「はい、どうぞ」
これまたいつも通りに、先生がお茶を淹れてくれる。
教職員用のロッカールームを挟んだ隣の職員室には、きっとまだ多くの教師達がいるのだろう。にもかかわらず社会科の教師がここに一人も近付かないのが、いつも不思議で仕方がない。
「いただき、ます」
湯気が上がる湯呑みを受け取り、両手で包み込むように持つ。手のひらから全身にその温もりが広がるように、わたしの緊張もゆっくりと解れて来た。
湯呑みの中の液体をじっと見つめていると、先生がふっと笑った気配が伝わって来る。
「前から思ってたんだけど、もしかして猫舌?」
「え。分かっちゃいました?」
そう。実は子供の頃から猫舌で、熱い飲み物や食べ物が苦手だったりするのだ。
「そりゃあねえ。いっつも淹れてすぐには絶対に口をつけないし。食堂でも、うどんやそばを食べる時にはけっこう苦労しているみたいだし?」
「う。でも、好きなんだから、仕方ないじゃないですか。って、センセー、いつの間にわたしの事見ているんですか」
猫舌なのに麺類が好きなので、ついつい注文してしまうのだ。家ではお味噌汁用のお椀に麺だけを取り分けて冷ましながら食べているのだけれど、さすがにこの年になって外でそんな事はできない。
「そりゃ僕も食堂愛用者ですからね。好きなの? 麺類」
「好きですよ。大抵の麺類なら食べられます」
「ふうん」
ふうんと言って、先生は何事か考え込むような仕草をした。大部分の日本人は麺類が好きなのだと、以前TVで言っているのを見た事がある。特別わたしが珍しいと言うわけでもない。はずなのだが。
「他に好きな物って、ある?」
「え。好きな物、ですか」
食べ物なら甲殻類も魚介類も大抵の物は好きだし、魚は生だと苦手な物があるけれど、焼き魚なら何でも食べられる。野菜も好きだし、果物も好き嫌いはない方だと思う。
本は、ミステリーもSFも少女向けの物も歴史物も読んだりする。
「女の子って、ケーキとかパフェとか甘い物、好きなんでしょ」
「あ。もちろん好きですよ。やっぱりオーソドックスなイチゴショートが一番かな。あ、でもレアチーズケーキもミルフィーユも好きですね」
ミルフィーユはパイ生地が少し食べ辛いけれど、家で食べるのなら問題はない。
「じゃあ、これは?」
準備室備え付けの小型の冷蔵庫から、先生が何かを取り出した。
「巡回中に押し付けられたんだけど、甘い物は苦手なんだわ。よかったら食べる?」
どうやら、どこかで出店していた喫茶店で押し付けられたらしいそれは、小さな箱に入ったチョコレートケーキだった。なるほど甘い物が苦手な人にこれはきついだろう。
手作りっぽく見えるのは、料理部だろうか。あそこの部長の腕には定評があるから、これも期待できそうだ。
「え。いいんですか?」
「はい、どうぞ」
「わあ、いただきます!」
ご丁寧に使い捨ての小さなフォークまでついているそれを、わたしは遠慮なくいただく事にした。
「幸せそうな顔しちゃってますねえ」
予想通りちゃんとしたお店に出してもおかしくないほどの出来映えだ。大きな口を開けてケーキを運ぶわたしを見て、先生がくすくすと笑う。あまり見た事がないその笑い方に、どきりと心臓が跳ねた。
「し、幸せですよ。甘い物を食べている時は」
「よっぽど好きなんだねえ」
「そりゃもちろん好きですよー」
「じゃあ、僕の事は?」
「もちろん好きですよ、って。え」
勢いで言ってしまった言葉に、わたしはチョコレートがつく事も忘れて両手で口を覆い隠した。
そんな事をしても、零れた言葉が戻らない事は分かっていたのだけれど。