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お母さん先生に話を聞いてもらった事でずいぶん気持ちが楽になったとは言え、まだ先生と二人きりというのは結構辛いものがある。もちろん好きな人といられる事が嬉しくないはずなどないのだけれど、素直に喜ぶにはあまりにも複雑すぎる気分なのだ。
「センセー、生徒会は?」
黙っているのも変なので、わたしから声をかけてみる。ちょっと落ち着かない鼓動を悟られる事などないよう、平静を装って。
「顔を出しに行ったところで、待ち構えていたあんたの担任に捕まったんだわ」
ああ、まただ。わたしは僅かに跳ねた心臓を服の上から押さえ、こっそりと溜息を吐く。こうやって公私の「私」の部分を見せるなんて、本当に何を考えているんだろう、この人は。
「それは、すみません」
「いえいえ」
ちょっと強引なところがあるうちの担任の事、きっと無理矢理わたしを送るように頼んだのだろう。
「それにしても、なあ。目の前でいきなりぶっ倒れられて、心臓が止まるくらいびっくりしましたよ、今朝はね」
生徒会顧問である先生は、会計監査を挟んで並んで立っていた。だからわたしが倒れる瞬間をきっと見ていたのだろう。
「お騒がせしてすみませんでした。あの後、大変だったんじゃないですか」
「そうかもねえ」
「そうかもね、って、センセー、見ていたんでしょう?」
「あんた、気を失っていたから知らないんだよなあ」
「なにを、ですか」
わたしが倒れている間に何があったのかなんて、まだ誰からも聞いていないから知る由もない。
「僕があんたをここに運んで、しばらく様子を見てたんだよ。だからあのあと朝礼がどうなったかっていうのは、職員室でちら聞きしただけで詳しくは知らないんだわ」
「は?」
わたしを運んだ? 先生が? ここに?
「副会長が手を出しかけたんだけど、そんな美味しい事、彼に任せられないでしょ。て事で、僕が顧問の職権を濫用して横取ったりしたんですよ」
美味しいとは何を指して言っているのか、理解に苦しむ。職権濫用だとか横取りだとか、そんな事をして先生に何の得があると言うのか。
理解に苦しむわたしをよそに先生はにやりと口角を上げ、どことなくシニカルな笑顔を作った。
「ちょーっと大人気ないかなとも思ったんだけど、ここしばらくあんたには避けられっぱなしだったでしょ」
ぎくりと肩が跳ねる。避けていたのはバレバレだったのか。そうっと先生の表情を窺い見るけれど、別に怒ってもいなさそうなのでほっとした。
「ただでさえ副会長には邪魔するぞ宣言されて、面白くないってのもあったしねえ。ここは一つ牽制の意味も込めて、と思ったわけですよ」
「牽制、ですか」
「そう、牽制」
さきほどからの先生の言葉にどうにも腑に落ちないものを感じてしまうのだが、体調の悪さと動悸が重なって思考がまとまらない。
何かが分かりかけている気がするのに、そこに辿り着けないもどかしさを感じて、僅かにだが身動ぎする。
「すみません。もう少し分かりやすく説明していただけませんか」
「あー、それはちょっと無理だね」
にべもなくそう言い切る先生に、思わずむっとする。
「生徒に分かりやすく説明するのが教師の義務だと思いますけれど」
「それは残念。今の僕は教師のつもりがないんだわ」
「教師じゃないならなんなんですか。臨時の保健医とか言いませんよね」
起き上がろうという気が起きない程度には無気力なのに、なぜだか無性にいらいらした。
「んー、なんでしょうねえ。あんた、あててみて?」
また、だ。また先生からのなぞなぞのような問題が増えた。
ずるい。やっぱり先生はずるい。わたしもずるいけれど、先生だって十分にずるい。
「センセーってほんとにずるいですよね」
「またそれですか。だから僕はずるいよ、って言ったでしょ」
ちくり。またささくれが一つ増えた。あといくつ増えたら、わたしの胸に穴が空くのだろう。無理に答えを出さなくてもいい。せっかくお母さん先生がそう言ってくれたのに。急がなくてもいいのだと、思えたというのに。
答えが出ないうちに問題だけが次々に増えていき、それ以上にわたしの心の裡のささくれが増えていく。胸が痛い。わたしは制服の胸の部分を、両手でぎゅっと握った。じくじくとわいて来る痛みを持て余し、奥歯をきつく噛みしめる。
「あ? どうした? どこか苦しいのか?」
わたしの様子にようやく気付いた先生が、肩に手をかけて軽く揺さぶって来た。
「だい、じょうぶ」
そう言ったつもりなのに、噛みしめた歯の隙間から呻きが漏れただけ。
「おい」
大丈夫。この痛みは現実のものではないのだから。これは心の痛み。わたしの弱い心の痛み。
必死に呼吸を整えてから、強張っていた体から少しずつ力を抜く。
「やっぱり、オトナって、ずるい」
呻き声にならないように留意しながらようやく告げた言葉に、肩から背中をさすってくれていた先生の手の動きが止まった。背中に触れたままの手のひらから、先生の戸惑いが伝わる。
「あんた、なに言って」
「センセーも、ずるい」
世の中には男の人なんてごまんといるのに、どうしてこんなにずるい人を好きになってしまったのだろう。それとも男の人は多かれ少なかれ誰でもずるいのだろうか。
ゆっくりと深呼吸をしながら、けれどそんなずるいところも含めて先生なんだと思った。そんなずるいところも含めて好きなのだと。
「ばかみたい」
「はあ? あんた、心配している人に対してばかはないでしょうが、ばかは」
顔を覗き込んで来る先生にどきっとしながら、わたしは曖昧に微笑んだ。
「違いますよ。ばかなのはわたしです」
わたしは至近距離にある先生の顔を、真っすぐに見つめた。
なんで、どうしてこんなに好きなんだろう。ずるくて意地悪でけれど優しいこの人の事を。好きになっても仕方のない人なのに。好きになっても迷惑なだけなのに。どうして好きだという気持ちは、止められないのだろう。
「だから、そんな顔するのはやめなさいって言ってるでしょ」
くしゃりと、先生の大きな手がわたしの前髪をかき混ぜた。その大きさと仕草に、ようやくおさまりかけた動悸が激しくなる。頬に熱が集まりそうになるのを、視線を逸らして意識を散らす事でようやく回避した。
いったいどんな顔をしているのか知りたいと思ったけれど、自分の顔なんて鏡でもなければ見る事ができない。オトナの先生の目に、今のわたしはどんなふうに映っているのだろうか。
「んー。顔色はちょっとましになったかな」
そうだ。いつまでもこうしていては、先生のお仕事の邪魔になってしまう。一刻も早く家まで送ってもらわなければ。それにあまり長い時間二人きりなんて事になると、わたしの心臓がもちそうにない。
「って、おいこら」
いきなり上体を起こして立ち上がろうとして、またしても血の気が引いて目の前が真っ白になる、あの奇妙な感覚に襲われてしまった。絶対的に血が足りていないらしい事を、思い知らされる。
「いきなり立ち上がるのは無理に決まってるでしょ。急がなくていいから」
耳元で聞こえるその声に、遠のきかけていた意識が戻る。
「そんなに早く家に帰りたいんだったら、こうしてお運びしましょうかねえ、お姫様?」
突然貧血のためではないくらいに世界が揺れ、わたしは慌ててそばにある物に両腕で抱きついた。
「ぐえ」
奇妙な声に目を開いてみると、ほとんど密着しそうなほど近くに先生の顔がある。そしてわたしが咄嗟に抱きついてしまったのが、どうやら先生の首なのだと悟った。
「え。うきゃ」
「暴れられるとうっかり落っことしちゃうよ?」
そんな事を言われても、この状況ではさすがに慌てずにはいられない。首に抱きついているうえにお姫様抱っこなんて、これで恥ずかしがるなというほうが無理なのだ。
「タダでさえ重いんだから」
「お、重くてすみませんねっ! 下ろしてください!」
「冗談だよ、冗談。あんたくらい軽々だって」
いつもと同じように軽口をたたいている先生は、けれどいつもの先生らしくはない。どことなく白々しい気がする。
「センセー。本当に自分で歩けますから」
「そ?」
先生は、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと下ろしてくれた。その顔がなんとなく残念そうに見えるのは、きっとわたしの気のせいだ。
「あのー。センセー?」
「はい?」
なんでしょう、と小首を傾げる先生がどうにもこうにも変で、それ以上の事を言えなくなってしまう。
わたしとしてはこの、背中に回されたままの腕を放してもらいたいのに。まるで抱きしめられているかのような今の状況に、当然の事ながら心臓はなにか別物であるかのように突っ走ってしまっているのだ。
貧血ではなく今度は眩暈を覚え、わたしは先生の首からはなんとか解いたものの肩にかけたままになっている両手で、唯一支えになりそうなそこにしがみつく羽目に陥った。
こんなところを誰かに見られでもしたら、とんでもない誤解を受ける事になる。頭に血が上った状態でも血の気が引いた状態でも、それくらいの判断はできる。
「車を回して来るから、帰り支度をしてここで待っていろ」
先生の口調がいきなり公私の「公」になり、あっさりと体が解放された。そのあまりにも突然の事に、わたしの思考がついていけない。
「あら。まだ帰っていなかったの?」
がらりと戸が開く音と共に、お母さん先生の意外そうな声が聞こえた。先生はきっと、足音で気がついていたのだろう。自分の心臓の音がうるさすぎてなにも聞こえていなかったわたしとは違い、先生は冷静なのだ。
「今から車を取りに行くところです」
なにもなかったかのように涼しい顔をしている先生。きっとオトナである先生にとっては、特別たいした事でもなかったのだろう。コドモのわたしには、十分刺激的な出来事なのに。
わたしの横をすり抜けて保健室を出て行く先生が、やけに憎らしく思えた。