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 それからも日を追うごとに生徒会の仕事は多忙になり、見かねた担任の計らいで、学園祭までの社会科の教科担当を他の人に代わってもらえる事になった。先生に会える時間が少なくなる事に落胆すると同時にほっと安心したりして、最近のわたしはどうにも自分自身の感情を持て余し気味だ。

 気を緩めれば頭に浮かぶのは一つの事ばかり。それも考えれば考えるだけ悪い方向にしか向かない。日中は忙しさに紛れて気を緩める暇もないのだが、帰宅してからの時間が厄介だった。宿題が手につかない。予習どころか復習さえもする気が起きない。

 生徒会役員という事で各教科の先生達はある程度見逃してくれているのだけれど、いつまでもこんな状態では自分で自分が嫌になる。

 いっそ思い切る事ができたなら気持ちも楽になるのだろうけれど、あいにく一朝一夕であきらめられるほど軽い気持ちではないのだ。と、この時になってようやく気付いた。今さらもいいところだ。

 先生はずるい。そう言ったけれど、本当にずるいのはわたしだ。先生に疎まれるのが怖くてなにも言い出せない。先生に拒否されるのが怖くてなにも行動できない。本当に卑怯なのは、弱くてずるいわたしなのだ。

 明かりを落とした夜の部屋。布団に入って考えるのは、そんな事ばかり。まんじりともしない夜を繰り返し、わたしはいい加減、身体的にも精神的にも疲れ果てていた。




 目を覚ますと、見知らぬ天井があった。どうやら仰向けに寝ているらしいのだが、さてここは一体どこなのだろう。

 とりあえず上半身を起こしてみると、わたしは制服を身に着けていた。どうやらここは学校の保健室らしい。

 まともに働かない頭でしばらく考え、朝礼中に倒れたのだという事をようやく思い出した。

 生徒会役員のわたしは、体育館の舞台下に教職員と肩を並べて立っていた。全校生徒から見えるそんな位置で倒れたのだから、騒ぎが広がって朝礼どころではなくなったのではないだろうか。先生達にも生徒会の人達にもさぞかし迷惑をかけてしまった事だろう。

 そういえば倒れる寸前、真っ白になった視界と激しい耳鳴りのためになにも聞こえなくなる前に、ざわめきが起きていたような気がする。

「あら。目が覚めた?」

 わたしが起き上がった気配を察したらしく、白衣を身に着けた年配の女性が顔を出した。

「受験生だし生徒会役員だから忙しいのは分かるけどね。夜はちゃんと寝て、ご飯もちゃんと食べなくちゃだめよ」

 さすがは保健室の先生。わたしの体調不良の原因を的確に当ててしまう。

「吐き気はない? まだお昼まで時間があるし、とりあえずこれでも食べなさい」

 先生が差し出してくれたのは、飲むタイプのゼリーだった。最近テレビのCMで良く見かけるけれど、実際に食べた事はない。

「それを食べたら、もう少し寝ていなさい。担任の先生にはわたしから連絡しておくから」

「すみません、お世話になります」

「いいえ、どういたしまして。これがわたしの仕事だからねえ。でもほんと、大事な時期なんだから気をつけなさいね」

 なんだかお母さんと話をしているみたいで安心できる。そういえばこの先生の子供さんも高校生だと聞いた事があった。だから、なのかもしれない。わたしの気持ちが緩んだのは。もうこれ以上抱えきれない想いを、誰かに聞いて欲しいと思ったのは。

「ねえ、先生。好きになっちゃいけない人を好きになったら、どうしたらいいんですか」

 お母さん先生の目が、僅かに見開かれた。

「好きになる事が迷惑だって、望みはないって分かっているのにあきらめられない時は、どうすればいいんですか」

 腰を上げかけていたお母さん先生は、再び椅子に腰を下ろし直し、わたしの両肩をがっしりと掴んだ。

「苦しい恋をしているのね。今は授業中だし、他には誰も来ていないし。この際だから、ここで吐き出しちゃいなさい」

 わたしに向けられたその温かな笑顔に、わたしの両目に溜まっていた涙が溢れ出した。

 わたしの好きな人が先生だという事は隠して、できるだけ端的に今までの事を話した。

 いつものさばさばとした、面倒見のいいお兄さん的なところが好き。自分では不真面目だと言いながらも、本当は一生懸命なところも好き。わたしにだけだと言って見せてくれる、飄々として掴みきれないところも好き。優しいけれど、決して近付かせてはくれないところが嫌い。何気ない言葉で傷ついているわたしに気付いてくれないところも嫌い。

 だけど本当は嫌いなんかじゃない。なにも言わないくせに気付いてもらえるなんてありえない事だと分かっているし、それは我侭ですらないただの勝手だという事も分かっている。

 いくら考えても出てこない答え。ふとした時に襲い来る不安と自己嫌悪に、押し潰されそうになってしまう。

 そんな事を、途中何度も言葉につまり、言葉を捜し、とつとつと話し続けた。

「いいわねえ、若いって。素敵な恋をしているのね」

 急かす事なくただ頷きながら聞いてくれていたお母さん先生が、大きな温かい手のひらで頭を撫でてくれる。母にだってもう何年も撫でられた事などなかったけれど、その温もりにほっとするわたしがいる。

「素敵、です、か」

「素敵じゃない。それだけ一生懸命に想える人がいるなんて。それにね。恋なんて独りよがりで勝手なものであたり前なの。あなたが特別なわけじゃないのよ」

 お母さん先生の言葉は、不思議なくらいに静かにわたしの中にしみこんで来る。

「答えが出なければ、それでいいじゃない。答えが出ないからこそ見えて来るものもあるはずだから」

「見えて来るもの」

「そう。あなたにしか見えないもの。あなたにしか見つけられないものが、ね」

 お母さん先生のウィンクはちょっと下手で、でもそれがなんだか可愛くて。

「さ。それを食べて、少し眠りなさい」

 わたしが落ち着いたのを見計らって、お母さん先生はゆっくりと腰を上げた。もしかしなくてもお仕事のお邪魔だったのだろうと気がついて、申し訳なさが湧いて来る。

「他の先生に言えないような相談に乗るのも、わたしの仕事のうちなのよ」

 まるでわたしの心を見透かしたようなタイミング。

「ありがとうございます」

 ひらひらと手を振って、お母さん先生は、仕切り代わりに引かれた布のむこうに姿を消した。




 どれくらい眠っていたのだろうか。微かに聞こえるチャイムの音にふと気付いて目が覚めた。

「良く寝たわねえ。六時間目が終わったわよ」

「うあちゃー。マジですか」

「マジよ、マジ」

 お母さん先生は愉快そうに肩を揺すって笑っているけれど、わたしにしてみれば笑い事ではない。朝礼で倒れてしまってからずっと寝ていた事になるのだ。これでは何をしに学校に来たのか分からないではないか。

「まあ、それだけ体が休養を必要としていたって事なんだから」

「そういうものですか」

 ベッドの上に起き上がり、上掛けに使っていた毛布の角を持ってきちんと畳む。まさかこんなに長い時間お世話になるとは思ってもみなかったなと思いながら。

「もう少ししたら、お友達が荷物を持って来てくれるわよ。担任の先生から連絡があったから」

 一体どんな重病人なんだと言わんばかりの待遇の良さに居心地の悪さを感じて、なんだかお尻のあたりが落ち着かない。

「思春期だし、悩むなって言う方が無理でしょうけれどね。しんどくなったら、いつでも吐き出しに来なさいね」

「はい」

 ほどなくして、クラスメイトでもあるわたしの友人が、わたしの鞄を持って来てくれた。重かっただろうに、文句一つ言わないなんてさすがだ。

「おお。ずいぶん顔色が良くなったね」

「おかげさまでね。荷物、ごめんね」

「いやいや。礼はマリッシュのチョコミルフィーユでいいからね」

 ちゃっかりしたその注文に、思わず吹き出した。

「学祭終ってからでいい?」

「忘れなければOK」

 言葉を返しながら、帰り支度をする。一日中寝ていたせいで、スカートのプリーツがあり得ないほど乱れてしまっている。帰ったらアイロンは必至だ。

 髪の毛もすっかり寝乱れているので、とりあえずブラシを通しておく。

「今日は生徒会はいいって、会長から伝言」

「え。あ。ほんと」

 学園祭まであと三日。猫の手を借りたいほどに忙しいこの時期に、たとえ雑用係でも、一人欠けるのはきついはずなのに。

 心の中で生徒会役員達に手を合わせてしまう。

「今から部活なんだけどさ。どうする? 自力で帰れる?」

「たぶん、大丈夫」

 身支度を整えて立ち上がってみた。途端に襲い来る貧血に、上げた腰をそのままベッドに下ろす羽目になった。そういえば昼を食べ損ねていた事を思い出す。

「どこが大丈夫だって?」

「え。って、なんでセンセーがここにいるんですか」

 まさかこんな所にいるなどと思ってもいなかった人の出現に、わたしの心臓がどきりと跳ねた。ただでさえ貧血で負担がかかっていた体が簡単に音を上げてしまい、ぺたりと上半身をベッドに横たえてしまう。

「うわ。ちょっと、なにその顔色ーっ」

 友人が慌てて上げた声が耳障りだ。それに顔色が悪いのは貧血のせいであって、なにと言われても返す言葉がない。

「あらまあ。やっぱり先生に来ていただいて良かったわねえ」

「はい?」

「あなた、家までけっこう遠かったでしょう? 一人で帰すのもどうかと思って、手が空いている先生に来ていただけるようにって、職員室にお願いしておいたのよ」

 確かに生徒会顧問をしているから他の部を担当しているわけはなく、手が空いていると言えなくもないかもしれない。でもその生徒会は今、ひっくり返りそうなくらいの仕事を抱えているのだ。まあ、学園祭もその後の生徒会役員選挙も生徒会が主体で動くのだから、先生が直接関係して来るのは書類の確認くらいなものだろうけれど。

「なんだ。先生に送ってもらえるんなら安心じゃん」

 友人はわたしの肩を抱き、にっこりと微笑んだ。

「良かったねー。チャンスじゃん。車の中で迫っちゃいなよ」

 わたしの気持ちを知っている彼女は、無責任にもそんな事をこっそりと耳打ちしてくれる。生徒が先生に迫ったりなどできるはずがないと知っていて言っているのだから意地が悪い。

「じゃ、先生、この子の事お願いねー」

 ちょっと待ってお願いだからいっしょにいて、と声をかける暇もなく、友人は部活に向かって走り去ってしまった。さすが陸上部。見事な素早さだ。とのんびりと感心している場合ではない。

「確か先生、車通勤でしたよねえ」

「まあ、だから俺が頼まれたんですけどね」

 そういえばわたしのクラスの担任は電車通勤だ。わたしを自宅まで送り届けるためには誰かの車を借りなければならない。保険やらなんやらの関係で他人の車を運転するのは大変なのだ、と以前父から聞いた事を思い出した。

 だからってよりによって先生に頼む事はないではないか。などと意味のない逆恨みをしてみたくもなる。

「この顔色じゃまだ少し休んだ方がいいみたいだけど、これから職員室で打ち合わせがあるのよねえ」

 お母さん先生が、わたしの顔を覗き込んで来る。確かに今すぐ起き上がれと言われても無理だと思う程度には気分が悪い。

「どうせ送って行きますから、俺が見ていますよ」

「そう? そうしてもらえると助かります。じゃ、お願いしますね」

 気分の悪さゆえに引き止める事もできず、のんびりしているように見えて実は多忙なお母さん先生の足音が遠ざかり、わたしは先生と二人きりで保健室に取り残されてしまったのだった。




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